8 上には上がいる
大賢者がデミナス・ケブラの居城に向かったのは、それから一週間後のことだった。その間、彼は何をしていたかといえば、他でもない。一個の世界を支配する、超常の存在との対決に備えていた。
「さすがにアレとやるとなると、ちょっとだけ体を絞らなきゃならんな」
魔法界最強の一角、レオナルド・セプティム・アレキサンダーのこの言葉に反応した愚かな魔女は、よせばいいのに
「私も訓練にお付き合いしていいですか?」
なんて口走ってしまった。大賢者はこれを快諾。結果、私は初日のウォームアップの途中で潰され、三日三晩、全身筋肉痛で動けなくされてしまった。おかげさまで、記録しておこうと思った大賢者のトレーニング内容については、その全容すら掴めずに終わった。立ったまま始まった一種目につき四十五秒間の軽い運動は、気付けばねじり捻り、跳躍や回転といった、地獄の超高速全身運動へと変貌し、ついていけなくなった私は情けなくブラックアウトした。這ってでもついていってやる、という気持ちだけはあったのだが、無情にも体は動いてくれなかった。
「おお、やっと潰れたか。友よ、安らかに眠れ」
それがその日、私が大賢者から聞いた最後の言葉であった。
大賢者の訓練というのは、準備運動の時点で誰の目から見ても明らかにオーバーワークでナンセンスなものだった。短い間ではあるが、私は過去に軍隊の訓練に参加したことがある。だから中途半端に自信があった。そこをピークに考えていたのだ。私の認識は甘かった。ピークはもっと、私が考えているよりも遥か上の方にあった。その域にいる大賢者にとって、あの地獄はオーバーワークでもナンセンスでもない。それだけの話だった。余談ではあるが、大賢者の動きに平然とついていく、ピィちゃんという生命体もいる。世の中、上には上がいる。暗闇の中で、私はどこまでも続く無限性だけを感じていた。
出発の日の大賢者の服装は、大きなフード付きの濃紺色のローブだった。特に装飾などもされていない、シンプルすぎるデザインのそのローブは、これから激しい殴り合いをしに行く人のファッションではない。ちょっとした小物を買いに、近所の店に行くくらいの軽いものであった。
「はぁ。当日になると、行きたくなくなるこの現象……なんなんだろうね? 今日はたぶん土産は無いから、期待しないように。あ、でもアシハラ。お前の通行許可だけは貰ってくるからな?」
外出者がいる場合、玄関での全員参加のお見送りは恒例行事だ。出発を微妙に遅らせるきらいのある大賢者は、私の使い魔であるイブを肩に乗せたまま、得意げな表情でアシハラを指差した。言われてみれば、私たちの中であちらの世界に行ったことがないのはアシハラだけだった。明確な支配者のいる異世界へ行くには、支配者の許可が必要である。というよりは、支配者の許可がないとその世界への進入も脱出もできない。特殊な例として、大賢者のような時間や空間に関係なく移動ができる、めちゃくちゃな魔法が使える人がいる場合はそれに該当しない。ではなぜ、大賢者はアシハラを連れての魔法での転移を行わないのか。信じられないことだが、それは大賢者が相手への礼儀を優先したということになる。自分の家の庭にいきなり見知らぬ人物が現れれば、誰だっていい気はしない。顔を合わせれば毎回のように殴り合いに発展するものの、それは二人にとってじゃれ合いのようなもので、デミナス・ケブラと大賢者の関係は良好。それをわざわざ乱す必要はない。大賢者は、きっとそう判断したに違いない。真面目にやれば、ちゃんとできる男なのである。
「ありがたき幸せ」
アシハラは決まった角度で、美しく頭を下げた。
「他に伝言等、何か頼みたいことがある者は?」
大賢者がその場にいた全員に尋ねた。すると意外な人物の手が挙がった。
「はい、ソフィー君」
「勝ってきて」
「ハハハ、それは無理」
乾いた笑い付きで即答。それが愛する人に対する態度なのだろうか。本当、何しに行くんだろう、この人。と、ますます思わずにはいられなかった。
「じゃあ、あの頑固オヤジのこと、思いっきり殴ってきて」
「それなら、なんとか。一発でいいか?」
ソフィーさんはひと呼吸だけ時間をおいてから首を横に振った。
「出来るだけ、たくさん。一回くらいは、ダウンさせてきて」
この過激な要求に対して、大賢者は何も言わなかった。ただ歯を見せて笑うと、黙ってソフィーさんの方に拳を向けただけだった。突き出された大賢者の右拳に、ソフィーさんは自らの拳をコツンと突き合わせた。
「それじゃあ、行ってくる」
玄関の扉は静かに閉じられた。そこから一斉に、全員が無言で足早に動いた。一番最初にリビングに到着したキラがテレビをどこかに持ち出そうとすると、彼女の意図に気付いたアシハラがコタツと敷物を両手いっぱいに抱えて、キラと一緒になってそれらを外へと持ち出した。私はとりあえず何も持たずに、その動きに続いた。
ウッドデッキに出ると、キラとアシハラによってテレビとコタツのセッティングが完璧に整えられていた。私はコの字型のソファとクッションと、ついでにブランケットもリビングから引き寄せ、置かれていたコタツに合わせて設置した。キラとアシハラが再びテントの中に戻ると、ソフィーさんとサラマンダー君が入れ替わるようにしてやってきた。こちらのコンビはソファの外側の四隅にまじないの火柱をあげ、暖房つきの結界を作りだすと、普段大賢者が座る位置でもあるテレビの正面の席を陣取った。頭にペットの白ザリガニを乗せてやってきたピィちゃんは、マイペースにソファの脇の席に座り込んでコタツの中に足を入れた。私はテレビのサイズをこれでもかというほど引き延ばした後、ピィちゃんのはす向かいにあたるソフィーさんの隣の席に座った。戻ってきたキラとアシハラは、大賢者の大好物であるピザを中心としたフライドポテトやチキンなどのホットスナックとジュース類や各種食器をコタツの上に乗せると、ピィちゃんとは反対側の席に横並びで腰かけた。全員がこの場に集まったことを確認して、私はテレビの起動信号を送った。
はじまりの木の幹は、私たちの世界に存在する最大級の雄峰たちと比べても、余りあるほどの重厚なものだ。地上部分に露出した根と根の間にある王都の復興もほどほどに、雲を突き抜け、遥か上空では大樹の枝葉に抱かれるようにして、デミナス・ケブラの居城がたたずんでいる。
大賢者が転移した先は、はじまりの木の地上部分にある王都だった。ケブラ城と比べて地上の復興は遅く、そこで暮らす者たちが力を合わせて建物の復旧作業に取り組んでいる場面がテレビ画面に映り込んだ。大賢者はゆっくりと歩を進め、少しずつではあるが着実に元の姿を取り戻そうとしている王都の様子を私たち、というよりはソフィーさんに伝えた。その証拠に、私の隣にいるソフィーさんは安堵したかのような嬉しそうな笑みを浮かべていた。
大通りを練り歩く映像はしばらく続き、やがてまわりの建物よりもかなり高い、寺院のような大きな建造物の前にたどり着いた。そこには他の建物より何倍も人が集まっていて、大規模な修繕作業が行われていた。ここで画面にクローズアップされたのは、建物の高所で磨かれた大きな石を手作業でレンガのように積み上げている人物だった。
「うわぁ、ツルッツルだぁ。このハゲ頭、なんか強そうだぞ」
「ホントだ」
失礼の極みに到達したキラの言葉の、おそらく後半部分に同調したのはアシハラだった。スキンヘッドと少しだけ日焼けした肌がトレードマークのその人物は、私と同時期に国際魔法警備局に入局した男だった。
「おう、やってるなぁ!!」
異世界でもよく通る大賢者の大声に気付いた男は、会釈をしたのかしていないのか、実に判断に困る角度に首を傾けてから下に降りてきた。その間に、私は軽く男の紹介をすることにした。
「この人はテオ・ユスティニアヌス。私たちの世界の人間です」
「イシュタル殿のお知り合いでしたか」
「そこまでじゃないですけど、前の職場でちょっとだけ」
実のところ、キラの目に狂いはなかった。大賢者やアシハラと同じ、魔王討伐という偉業を成し遂げた英雄の血筋を引くテオは、戦闘面で言えば大魔導士ユリエルと同じか、それ以上のものを持っている。目の前で、おそらくは空間圧縮と神格封印を組み合わせた、複雑かつ高難度高魔力消費の大魔法を使われたこともあるくらいだ。それも詠唱なしで、たった一人で。この男の顔を映像で見るだけで、私に世界の広さを思い出させるには十分すぎるほどだった。
「もういい加減、この世界を見て回りてぇんだけど……まったく、難儀な連中だよ。贖罪だからっつって、魔法無しで復興しなきゃならねぇんだとさ」
「だからって、別にお前が馬鹿正直に付き合う必要はないだろう?」
テオは大賢者から労いのタバコを受け取ると、火を点けて煙をくゆらせた。
「勘弁してくれ。フーミエにも同じこと言われたんだ」
「はっは!! それで、あのおっかねぇケモノ姉ちゃんは?」
テオ・ユスティニアヌスは大賢者が来た通りの道の先を指差した。その先には、彼がさきほどまで積み上げていた大きな石がいくつも積み重ねられている塊を、縄だけでズリズリと引っ張ってこちらに近づいてくる影があった。
「うーわ……お前も大変だねぇ」
「ああ、いや。それ、記録してるのか? だったら、ノーコメントで。それより、ダニエラは元気してるか?」
「おう、安心しろ。あの甘ったれたクソお嬢ちゃんには、毎日をヒーヒー言って過ごしてもらっている。なにせ、俺の専属弁護士だからな」
「ダハハハハ!! そりゃあ、気の毒なことだ!!」
「じゃあ、鬼が来る前に行くわ。お疲れさん」
「わざわざどーも」
かつて混乱下にあった王都をたった三人で制圧したテオ・ユスティニアヌス一行。そのうち二人は現地に残って復興活動に協力中。もう一人はこちらの世界に戻ってきたまではいいが、大賢者によって地獄の底に突き落とされていた。なお、大賢者の『お前も大変だねぇ』という言葉を偉く不服に思ったソフィーさんの顔からすでに笑みは消えていて、その代わりに憎悪の光を瞳に宿していた。
それから大賢者は自らの手足を使ってはじまりの木をよじ登り始めた。何でそんなことをしたのかは、誰にもわからない。
「何でレオは魔法を使わないんだ?」
当然の疑問を口にしたのはキラだった。
「厳密に言えば、使ってるんだけどね。レオナルド殿みたいな人が、いきなり最高火力を出しちゃうと、自滅しちゃうことも多いから。わざと時間をかけて、ゆっくりと体を慣らすのが癖になっているんだろうね」
訂正。アシハラにだけは大賢者の意図がわかったようだった。その解説通り、大賢者の木登りはどんどん加速していき、最終的にはとてつもないスピードで居城まで登り詰めた。目の前にあるは、黄金の宮殿。デミナス・ケブラの居城は大賢者の訪問を歓迎するかのように開門した。宮殿内に敷かれた赤い絨毯は、一直線に玉座の間へと繋がっている。外敵は自らの力でねじ伏せる。この城を建築した王の性格が良く出ている。巨大な玉座の前に立っている存在、一部の隙も無くそびえ立つ筋肉、それこそがデミナス・ケブラその人であった。巨体から放たれる威圧感たるや、画面を見ているだけのキラが仰け反ってアシハラにぶつかってしまうほどだった。
「来たか、レオナルドよ。今日はいつもより遅かったようだが?」
それまで大人しく大賢者の肩に乗っていたイブが地に足をつけ、離れた場所に移動した。それにより、大賢者とデミナス・ケブラの対比が際立った。対峙する二人の体格差は、まるで大人と子供だった。
「まぁな。下々の生活をちょっとだけ覗いてみたくなっちゃって」
画面で見ている私たちとは比べようもないほどのプレッシャーを受けているにもかかわらず、我らが大賢者はそれをものともせず世間話に応じた。
「民はどうだった?」
「俺から言わせたら、ちょっと心配になるな。真面目すぎて」
そこから男二人だけの空間を支配したのは沈黙だった。その緊張感はまさに、彼女の父親に正式な結婚の挨拶をしに来た彼氏、そのものの構図。どんな存在であっても、その心持ちは私たち平民と同じなのかもしれない。
「我が娘、ソフィーの気に入ったところはどこなんだ?」
重々しい空気を破ったのは、父親であるデミナス・ケブラだった。
「え? いきなりそんなこと言われてもなぁ。いっぱいありすぎて、困っちゃうよ。でも、しいて言えば身体かな。乳も尻も、これまでに出会ったどんな女よりもいいものを持ってる」
こちら側で強く頷いて同意していたのはキラだった。その表情は誇らし気で、なぜかソフィーさんも誇らし気な表情をしていた。
「当然だ!! 愚か者め!!」
ケブラから突如として放たれた鉄拳は、悪童レオナルドの顔面を捉えた。攻撃をもろに受けた大賢者は壁を破壊しながら入り口の方へと戻されるように吹き飛ばされていった。言っていることが合っているのなら、なぜ殴ったのか。ケブラの意味不明ぶりは、大賢者と同レベルのものだった。
「ええぇぇ!? 負けたのか!?」
先制攻撃を想定していなかったキラだけが驚いた。それをよそに大賢者が宙に浮かびながら、床を滑るようにして玉座の間へと戻ってきた。その顔にはいつもの憎たらしい余裕の笑みが浮かんでいた。ローブの上半身だけはボロボロになってしまって、図らずも両者は似たような装いになった。
「貴様、本当に人間か?」
音もなく着地を決めた大賢者に向かって、ケブラはどこか嬉しそうに尋ねた。
「無駄話はよそうや、父ちゃん」
大賢者は体全体を使って一気に相手に飛び掛かった。野生の獣のように伸びてくる拳に対し、ケブラは猛然と右腕を振り下ろした。衝突した拳と拳は衝撃の波を生み出し、その波は城内の壁と天井のすべてを消失させた。お馴染みの、奇人変人大会決勝戦会場の出来上がりである。ここで初めて露わになったはじまりの木の枝には、生命力溢れる黄金色の葉が揺れ動いていた。
「あ」
衝撃に耐えきれなかったのか、映像が途切れた。集中しなおし、私は急いでイブの魔力を探った。なんとか手繰り寄せることができたのは、猛烈な違和感だけだった。使い魔の魔力の数が明らかに増えていて、一個一個が強烈な何かに包まれているらしいことがわかった。
「……ジャックされました」
「ジャックって……どうやって? レオナルド殿や領主殿よりも強力な支配魔術が使える人が、現地にいるってこと?」
その条件で考えれば、思い当たる人物はひとりだけだった。
「ママ……」
ソフィーさんが呟くと同時に、こちらに向かって高貴に手を振る麗しの女神様がテレビ画面いっぱいに映し出された。画角に収まった他のものから判断するに、これから彼女は大賢者とケブラから少し離れた場所に設置された白いガーデンテーブルで、保護してくれたイブと一緒に優雅なティータイムを決めるつもりらしい。
「おほぉ……ソフィーそっくり」
キラがいやらしい溜息を漏らすと、すぐさま映像が切り替わった。殴り合い、蹴り合い、そして頭突き合う二人の男のまわりには、無数のシャボン玉が飛んでいた。
「これ、全部カメラにしてくれたんだ。すごいな、女神様は。でも……」
感心したアシハラだったが、カップにお茶が注がれる音を聞いて言葉尻を濁した。女神様の魔法は大雑把なもので、音声面での機能にちょっとだけ欠陥を抱えている部分があった。




