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大賢者の秘書官イシュタル  作者: ふるみ あまた
3章 あやかし大国の章

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48 真っ白な午後、真っ暗な夜

 

 昼食後も色々あった。


 大賢者が稽古をつけてやると言って、ヒコイチを外へと連れ出した。


 やらせたのはボート漕ぎ。


 荒れた田畑に魔法で無限水路を作り出した大賢者は、そこにオール付きの小さなボートを浮かべると、これに乗ってとにかく漕げとヒコイチに命じた。


 魔法の水路は縦横無尽にコースを変え、ヒコイチがいくらボートを漕ごうとも、終わりが来ることはなかった。


 ヒコイチが潰れるまで、大賢者が延々とやらせたからだった。


 理不尽な事この上ない稽古であったが、ヒコイチはなぜか大賢者に深い感謝の意を告げて、キラに別れを惜しまれながらも去っていった。


 一方、雑誌の件を引きずっていた私は一連の様子を傍観することで、日の短い冬の午後を真っ白に過ごした。


 何も考えず、なにもせず。おかげで夕食のことすら覚えていない。この明鏡止水の状態は、夜になって布団に入ったあとも、しばらく続いた。





 何も考えられないというのは、悪いことではない。私だけが寝静まらない深夜、ふと自我を取り戻した瞬間、そのことに気付いた。ひたすら無心に近い状態で過ごしたおかげで、今日は効果の高い休養がとれた。そう考えると嘘のように気分は爽やかになり、脳もいつもの状態を取り戻した。


 目と頭が冴えたことによって、まんまと寝そびれることになってしまった。居間に敷かれた布団の中でしばらくゴロゴロと過ごしていると、隣の仏間から物音が聞こえてきた。


 アシハラ家は敷地こそ広大なものの、家屋自体はあまり広くない。そのためピィちゃんとキラとサラマンダー君は私と一緒に居間で寝ている。大賢者とソフィーさんは別室。仏間で寝ているのは、アシハラだけである。


 アシハラという男は、身長180センチメートルを誇るソフィーさんよりも少しだけ背が高い。この大型の中年男性は、私が起きていることも知らず、廊下をきしませながら玄関へと向かっていたようだった。私はそっと彼の後を追った。





 玄関を出ると、外は漆黒。頭上に輝く星や月が地上を照らしているはずなのに、周囲を取り巻く山や木がすべての光を喰ったのかのような闇が支配する世界が広がっていた。しかしそのおかげで、アシハラがどこにいるかがすぐにわかった。居間の前の開けた庭の方から、不自然な明るさが漏れてきたからだ。それは、まごうことなき魔力の光だった。


 宙で回転していたのは大きな魔法陣。そこから照射された光が、庭全体を強く照らしていた。広い庭の中心で、アシハラが何やら集中した様子で地面を見ていた。


「何やってるんですか?」

「おわぁ!? びっくりしたぁ」


 悲鳴をあげるほど驚くこともないだろう。それにビックリしたのはこっちだ。この男、過去に家出騒動を起こしかけたことがある。それを思い出して、ついつい追いかけてしまった。あの時、大賢者に仕えるという地獄に一緒に落ちようと誓ったわけだし、絶対に一人にしないでほしい。そういった考えが私の中にあったわけだが、頭が回るようになった途端の取り越し苦労だった。


「いや、あのねぇ。今日の試合で針、落としてたでしょう? 吉良殿やピィちゃん殿が踏んづけたりしたら、危ないなぁって思って」


 すっかり忘れていた。確かに言われてみればそうなのだが、何も今探さなくてもいいのではないか。


「それならもう回収済みだぞ?」

「おわぁ!?」

「キャー!?」


 なるほど、確かに声が出るほど驚く。無警戒の私たちにいきなり声をかけてきたのは咥えタバコの色男、大賢者レオナルド・セプティム・アレキサンダーだった。


「なんだ、二人して悲鳴なんかあげやがって。驚いたのはこっちだっつうの。お前らに夜逃げされたら、俺は生活できないよ? 寂しくって」


 似たような考えを口にされ、引き締めなければならないはずの気持ちが緩んでしまった。主従関係以前に私たちは相互依存。今さら誰かが欠けた生活なんて考えられない。


「あの針には呪術性の毒が塗ってあった。解析はソフィーに任せてあるから、じきに終わる。念のため、それまでガキどもはここに近づかせるな」


 毒の解析を行わないことには解毒魔法も効果が期待できない。私たちが今無事であることを考えても、毒による汚染レベルは高くないだろうが、大賢者の対応と指示は完璧以外の何物でもなかった。


「それにしても、タル。お前、あの時慌ててたなぁ? そんな心配しなくても、ゼノには毒なんて効かねぇんだから、大丈夫だよ」

「そうだったんですか?」

「そうだよ。おかげであのオッサン、鼓膜吹っ飛ばされちゃって。かわいそうに」


 私が声をかけたことによってピィちゃんが戦略を変えた。そのせいで相手に与えた被害が大きくなってしまった。その場で反省した私は、次から余計な口出しを挟まないようにするには、どのようにすれば良いかを考えた。


「アシハラは、うまくやったな。下手に真剣でやらせてたら、ダメにされてたかもしれん」

「ダメにって、どういう意味ですか?」


 まだ考えの途中だったが、鮮度の良い疑問に上書きされた。こういう反射的な言動を訓練でなんとかせねば、という新たな考えも浮かんだ。


「ゼノの持ってる毒には腐食性のもあるんだよ。なんか高そうな刀だったし、もし斬っていたとしても再生能力なんか見たら、プライドが傷ついていたかもしれない。何にせよ、アシハラは超ファインプレーをしたってこと」


 私とは反対に、アシハラの行動は物質的にも精神的にも、未来ある一人の若者を救っていた。大賢者と共に過ごした時間こそ私の方が長いが、やはりこういうところで能力の差というのが生まれる。


「たまたまそうなっただけです。狙ったわけではございません」

「そうか。でも、結果オーライだ。タルも反省しすぎるなよ?」

「はい」


 いつでも何でもお見通し。行き過ぎた大賢者の察知能力は私にとって心地よいときもあり、不測の事態が起こった時にすべてを丸投げできる、揺るがぬ信頼を生み出す。


 普段はバカなことばかりしているが、この男は私なんかとは比べようもないほど高い知の力を持っている。そんな大賢者による劇場が、また始まろうとしていた。


「なあ、アシハラ。あのオッサン、本当にお前の昔馴染みか?」

「申し上げにくいことですが……レオナルド殿も疑うということは、そういうことなのでしょう」


 開場は突然に。出だしでつまづいたのは私だけ。顔面からこけた凡人の私はそれでも歯を食いしばって立ち上がり、例によって最前列の席を確保してから観劇を楽しむのだった。

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