30 その光はあまりにも太く
「トイレ!!」
一時解散のきっかけを作ったのは、トイレの近いキラだった。十二月のエジプトの日没は早く、アシハラたちが買ってきた有名な方のコーラを私たちが飲みつくした頃には、ちょうど良い時間になっていた。
「とどまるつもりならせめて部屋は変えて、くれぐれもカーテンは閉め切るな」
再三にわたって忠告をしてきたアシハラは、別れ際になっても同じ言葉を残した。本来ならばすぐにでもこの町を去るべきなのだが、ラミアの呪いについて大賢者にみてもらうという名目が出来てしまった手前、それぐらいしか出来なかったともいえた。
「皆さん、ありがとうございました。本当に、ありがとう」
別れの挨拶はとうに済ませたというのに、お礼を言い続けるのをやめなかったヤスヒロを背に、私たちは家路へと出発した。
遥か上空の拠点に戻った後は大賢者の帰りを待ちつつ、私は座りながら、アシハラはキッチンカウンターの向かい側に立ちながら、お互いに今日という日を振り返って雑談を交わしていた。
「実際のところ、町の様子はどうだったんですか?」
ヤスヒロたちの部屋にいた時、アシハラはただ不愛想にしていたわけではない。周囲への警戒に神経を注いでいたのだ。ラミアに危険性がないと判断した彼は、最後の安全確認として直接外へと出向いた。万が一のことを考えて、自分のそばにヤスヒロを置いて。そのことをなんとなく察していた私は、答え合わせをするために水を向けた。
「うーん、まぁ特に異常はなかったけど……油断はできないね。やっぱり俺だけでも残ればよかったかなぁ」
「それは困ります。あの人が帰ってきて、開口一番に『腹減ったぁ。何か食わせろ』なんて言ってきたら……」
「そうなのよ。俺もそれが一番最初に頭に浮かんじゃって……まぁヤツには申し訳ないけど、見ず知らずの人間よりも家族が優先ということで」
「その通り」
全面的に同意しかできない。私の言うファミリーというのはそういう意味のファミリーであり、決して危ない組織のことではないのだ。
「それで? 席をはずした後、ヤスヒロとはどんな話をしたんですか?」
「まぁ……色々と。防犯対策とか」
それだけで終わりなわけがない。今日の私は何故だか、たくさんのことが手に取るようによくわかった。
「あとは?」
「え?」
「故郷の、日本のお話とかもされたんですか?」
「よくわかるねぇ……今日のイシュタル殿、現職の人みたいで、ちょっと怖いかも」
子供たちはテレビに夢中。ソフィーさんたちは自室にいるため、リビングはいつもより少しだけ落ち着いた雰囲気が流れていた。アシハラは安心できる温もりのある優しい顔を、ずっと私に向けてくれていた。
「身の上話を少しだけ、ね」
「身の上話って、アシハラさんのも?」
「あ~、怖い怖い怖い。イシュタル殿、どうしたの、本当に」
「私もわかんないです。なんか調子いいんですよね、今日」
「現役の時は、毎日そんな感じだったの?」
「どうだったかなぁ……」
過去の自分を思い出そうとして、私は記憶を辿った。脳裏にチラリと浮かび上がったのは、魔界の赤黒い大地だった。
「……いや、全然です。ずっと未熟で、今も成長したとは思えませんから。この話は、もうやめにしましょうか」
「そうしてもらえると助かります。家なのに緊張しちゃうもん」
私が思い出したのは戦争の記憶だった。同時に、薄皮一枚で平和を保っている世を乱そうと、かつて暗躍していた巨大組織のことも嫌でも思い出してしまった。
「ちょっと、トイレ行ってきますね」
「あいよ。イシュタル殿?」
アシハラは立ち上がった私を何気なく呼び止めた。
「……あんまり、考えすぎないようにね?」
きっとアシハラは、肯定とも否定とも取れなかっただろう。私自身、よくわからない笑みを返しただけだったのだから。
困ったことに、洗面所へと場所を移しても私の頭は勝手に回り続けた。 顔を洗って、出来るだけフラットな感情になろうとした私は、鏡に映る自分を見つめてみることにした。
どうにも胸騒ぎがした。ヤスヒロの拉致に失敗したと見るや、すぐさま逃げ出した路地裏の男たち。規律の取れたようでその実、足がつかないように逃げることだけに必死に専念していた、あの動き。屋上にいたのは、口封じのための狙撃手か、それとも……。
思考はグルグルと回って、あの男たちとマウマウ族の遺産とを繋げて考えていた。
永久なる和平を生み出す秘宝。本当だとすれば素晴らしいものだ。しかし、ひとたび悪意のあるものが手にして転用させれば、真逆の使い方ができる代物かもしれない。考えれば考えるほど、私たちやヤスヒロの他に、見つけ出そうとする輩なんてごまんといるに違いなかった。では、その輩というのはどんな連中なのか。
思いは巡り、過去へと深く沈みこんでゆく。
秘匿戦争。あの戦争で得られたものなんて、何一つなかった。信じていた正義はあっさりと私たちを切り捨て、代わりに突きつけられたのは虚偽だらけの現実だけだった。それでも英雄は物言わず、歯を食いしばって前を向き、今を生きている。それでは、英雄ではない私はどうしたらいいのだろうか。
「よう、タル」
プライバシーなんてお構いなしに、ずかずかと入り込んでくる。その光はあまりにも太く、すがるより他なかった。
「……ずいぶん酷い顔してるな。怖い夢でも見たのか?」
「すみません。その……お帰りなさい。お疲れのところ、申し訳ございませんが、報告したいことが」
「そうか。それじゃあ、俺はデッキでタバコを吸うとしよう。急がんでいいぞ。顔を洗ってから、ゆっくりと来るといい」
光が去った後、私はすでに洗った顔を大賢者の秘書官が出来上がるまで何度も洗い直した。蛇口から流れる水は冷たかったが、光が残していった目に見えないパワーは、遅効性の毒のように私の身体を内側から温めた。見失いかけていた自我を取り戻した私は、両手で頬を叩き「よっしゃ」のひと言を鏡の中の自分にかけてからデッキへと向かった。




