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大賢者の秘書官イシュタル  作者: ふるみ あまた
2章 古代遺跡の章

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23 本日のトレーニング

 

 非常にややこしいことになっているが、更衣室のドアをくぐるとトレーニングルーム内のトレーニングルームへと出る。室内は半分が壁に、もう半分はガラスで囲われていて、内装は暖炉と煙突があるくらいのシンプルな造りとなっている。その代わりといっては変かもしれないが、窓の外には雄大な自然が広がっている。湖畔の草原地帯、クルミの木々が生い茂る深い森林、大小あるさまざまな滝、渓流、高く切り立った山々。今までトレーニングルームとしてお世話になってきたそれらは、今は丸ごと雪を被って静かな眠りについている。


 この部屋は冬季限定で造られたもので、座ったり、寝そべったりするときに雪が邪魔になるからという理由で増設された。もちろん、外へと出れる扉も付いている。アシハラの言っていた『いつもの場所』というのは、この場所のことであり、私が大賢者に潰されたのも、この部屋での出来事だ。苦い思い出が蘇りつつ、この雪の中を走りに行ったというあの男には心の底からドン引きした。


 私は開放感溢れる大きなガラス窓へと近づいた。目に映るすべてのものが雪化粧をした幻想的なこの風景も悪くないが、雪のない景色の素晴らしさも知っている身としては、まだ見たことのない春の風景がどんなものになるのかを想像して、早くも次の季節が待ち遠しくなったりもする。


 この場所が、地球上のどこにある場所なのか。疑問に思って大賢者に聞いたことがある。


『忘れた。どこかしらの森だよ。この辺一帯俺の土地だから、何やってもいいぞ? 身体も魔力も存分に使って、暴れまわれ』


 ……時々、大賢者の言った言葉を一言一句違わずに覚えている自分が嫌になる。不用意に脳内にあの男を出現させたせいで、何もかもが台無しになった気がしたその時だった。


「よっ」


 背後から忍び寄ってきたキラに、後ろから抱きつかれてしまった。スキンシップか、痴漢か。その目的についてはこちらが判断するまでもなく、向こうが全部白状してくれた。


「きっしっし。今日こそ勝って、そのお尻を好き放題してやる」


 目標は脅威の排除。持久力こそ見た目通りのキラだが、体格の割には締め付ける力が強く、振り払うには厳しい状況だった。私は大きく息を吐き、足を思い切り前後に開いてから体の重心を下げた。そうすることによって、痴漢の両手と自分の体の間に隙間が生まれる。その隙間に自分の腕を通し、相手の手首を掴む。掴んだ手首を上にあげれば、拘束から簡単に抜け出せる。あとは手首を捻って痴漢を組み伏せるだけで無力化が完了する。


「イ、イデデデデ!!!! なんでぇ!?」


 地に伏せたキラはたまらずタップ。私は時計を確認してから彼女に告げた。


「現行犯だね。午前五時三十八分、逮捕」

「おみごと」


 逮捕劇が終わると、拍手と共に講師のアシハラが入場してきた。足元にサラマンダー君を連れて、私たちのもとへと近づいてきたアシハラはキラに刑を言い渡した。


「そっちの痴漢の方、今日の罰則はトイレ掃除です。イシュタル殿、それでよろしいですか?」

「もちろん」

「えぇ!? どうして私が!?」

「そもそも、あんなに飛び散らせていたらダメですから。汚すのは仕方ないにしても、軽く拭いておくぐらいは普段からしてください。落ちにくくなるんで」


 私が階段を降りた後、二人の間に何があったか、大体想像がついてしまうのが悲しかった。


「くそぅ……素直に甘えておけばよかった」

「毎回おんなじこと言ってるよ? はい、それじゃあ並んで座ってください」

「どうする!? 今日は外でやるか!?」


 今日もヤバい提案をしたキラだったが、アシハラが笑いながらそれを否定してくれた。


「い草の座布団だけを敷いて雪の中でもやるぜ、っていう硬派な人たちもいるにはいます。それもいいんだけど、我が流派は『体に優しく、労りを』がモットーでございますから。そうするとほら、明日も頑張って起きてやってみようかな、っていう気にもなるでしょう?」


 私は大きく頷いた。アシハラ流は優しさの塊で出来ている。見返りを求めないその優しさは、私の気持ちに余裕を与え『許す』という気概を与えたもうた。おかげさまで家庭内の人間関係は円満。もっともそれは、他の生活習慣による影響も大きいが。


「いつもどおり、瞑想から始めましょう。サラマンダー殿」


 アシハラに名前を呼ばれたサラマンダー君が、待っていましたといわんばかりに勢いよく暖炉の中へと飛び込んだ。私たちは炉の近くに積み上げられている薪をそれぞれ一本ずつ手に取って、暖炉の中へと放り込んだ。犬の姿からサンショウウオのような形態へと姿を変えたサラマンダー君が、もしゃもしゃと薪を飲み込んで、大きな炎を生み出した。大好物のよく乾いた薪が食べ放題になるこの場所は、サラマンダー君の大好きな場所でもあった。





 瞑想に費やす時間は二十分ほどだ。この間というのは雑念が湧く。これは当然のことであり、私の場合は湧いた雑念について深く追求するのではなく、それをただ受け入れることによって瞑想という行為を成立させている。と、知識人ぶって偉そうに高説を垂れてみたが、果たしてこの考え方とやり方が合っているのかどうかは不明である。


 大賢者に対する態度とは違って、私はアシハラという生き物に対して尊敬の念を持って接してる。それが生み出す思慮深さや慎む心。もっと簡単に言えば、聞くことを恥に感じてしまう遠慮の気持ち。それが邪魔をして、私を現状に押しとどめていた。しかしこの度、そういったものを一切持ち合わせていないキラが、霞みがかっていた禅の心というものの正体を晴らしてくれるきっかけを作ってくれた。


「……はい、時間になりました。目を開けてください」

「はぁ~……毎回毎回、頭がごちゃごちゃするなぁ。ムガ、これはどうしたらいいんだ?」

「吉良殿、良いこと言うねぇ。その答え、実は簡単なんだけど、ちょっとだけ難しいかも」

「それ、私も聞きたかったりします」

「え? そう? てっきりイシュタル殿は、なんとなくわかってきたものだと思ってた。ぶっちゃけると、淡々と受け入れることだね。瞑想中って、頭の中に色々と邪魔なものが浮き上がってくるでしょう? それをね、ただ眺めているの。それだけでいいんだけど、やろうとすると、これがなかなか難しいっていう」

「むぅ……」


 お隣は唸り声をあげるばかりだったが、こっちは値千金の回答を得ることができた。おかげですっきりとした気持ちで、次の座学へと挑むことが出来た。





 本日の座学のテーマは、町に潜む危険とその防衛策についてだった。これまでに訪れたエジプトの町は想像以上に人が多く、必要か必要でないかにかかわらず、見知らぬ人とのコミュニケーションをとる機会が非常に多かった。結果として精神的に疲弊したキラが集中を欠き、お尻のオジサン事件を引き起こしてしまった。こういった失敗を繰り返さないための対策についてを真剣に話し合ってから、今回の流れとなった。


「どんな危険性があるのかっていうのは、やっぱり実際に町に出てみて、学ぶのが一番だと思います」


 実際に遭遇したことのある過去の事例を交えたりしながらも、私の出した結論は言葉通りのものだった。アシハラも私と同じ考え方を持っていたようで、彼は大きく頷いてから口を開いた。


「そうだね。じゃあ、今日の実践訓練は町で行うことにしましょう。都会でも田舎でもない、そこそこの町がいいと思います。よさそうなところをこっちで探っておきますので、ご飯を食べたら、お二人はちょっとだけ休憩して待っていてください」

「はい、先生。なんでそこそこの町なんですか?」


 瞑想の効果なのか、座学の時だけは丁寧な言葉遣いになるキラが、手を挙げながら疑問を口にした。


「えっとですねぇ……人の出入りが激しい都会というのは、慣れないうちはすごく難しいからです。反対に、人の出入りに敏感な土地。まぁ言い方は悪くなるけど田舎にある町というのは、そういう人たちが目立って見えてしまうから、簡単になりすぎる。だから宿泊施設がいくつかあるくらいの町。地元出身者以外の人間がいることが、そこまでは珍しくないくらいの、そういった規模の町が最初はやりやすいからです」

「うむ。よくわからんけど、わかりました」

「はい。それじゃあ、今日はこれぐらいにしましょう。号令をお願いします」

「きりーつ!!」


 座学の始まりと終わりに号令をかけるのは、キラの役目である。私は彼女の指示に従った。


「ありがとうあざーっした!!」

「ありがとうございました」

「はい、ありがとうございました」


 こうして私たちはリビングへと舞い戻ることになった。更衣室へと続く扉を最初にくぐったのはアシハラで、閉じかけた扉をすぐに開いて戻ってきたのもアシハラだった。


「御免!! サラマンダー殿ぉ!?」

「キューン!!」


 暖炉の中から飛び出し、犬の姿に戻ったサラマンダー君は、アシハラに駆け寄ると抗議の甘噛みをした。大人しすぎて、三人ともすっかりその存在を忘れかけていたことは内緒である。

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