疵の在処
目の前で、マタニティマークがちらついている。きっと明大前か千歳烏山で乗った客だ。
茜は新宿で乗車してから、ほどなくして居眠ってしまっていた。今更妊婦に座席をゆずるのも決まりが悪かった。それに、体もだるかった。
体調が悪いと言って学校を早退けしてしまったのに、結局家の方向とは反対の電車に乗り、それから数時間ほど新宿をぶらついた帰りだった。百貨店を転々としながら、次はどの服をあの人に買ってもらおうかしらと考えても気分は晴れなかった。夕食は西口のハンバーガーショップでさっさと済ませてしまった。昼食を抜いていたせいで血糖値が急上昇したのか、後発の列に並んでいる時から眠気が押し寄せていた。妊婦はたぶん、あの人とさほど年がちがわないだろう。淡い色のワンピースに地味めのカーディガンを羽織っている。妊婦のおなかは胃下垂と言われても納得できるほどの大きさで、ショルダーバッグの持ち手にマタニティマークがぶらさがっていなければ、彼女が妊婦であると気づかなかったかもしれない。両脇には背広を着た男性が立っていたが、彼女とは心なしか距離が開いていた。左隣の男性が、啓文堂のカバーがかかった文庫本を読みながらも時折、茜に視線を向けているのがわかる。そのくせ、茜がまじまじと見つめ返すと男性は気まずそうに文庫本に目を落としすのだった。薬指にはまった指輪がくすんだ色をしている。家に帰ればきっと妻の尻に敷かれているにちがいない。座席をゆずらないのが茜にかぎったことでないにもかかわらず、非難の視線をあえて茜にのみ向けてくる小心が、彼のくたびれた頬桁からも伝わってくる。茜はそういう男性が一番きらいだった。
茜の早退けは今日に限ったことではなかった。朝はめまいが起こりやすいからと、遅刻をすることもたびたびあった。担任の教師は茜の言うことなどなにも信用してなどいないという口ぶりではあるものの、早退け自体は認めてくれる。出席日数に差し障りがないようには調整をしていたし、中間や期末考査の点数も平均点を取ってはいる。いっそのこと、あの人に電話をしてみようかとも思ったが、どうせ息が詰まるだけだからと帰宅することに決めた。彼はこの頃、会っても気まずそうな顔をするばかりだった。原因が茜の言葉にあることはわかりきっていたが、それをまざまざと顔に出されるのがなお一層腹立たしく、同じ言葉を会うたびに繰り返し浴びせかけている。腹立ちをまったく無関係な妊婦に向ければ、自分がますますみじめになっていく。
子供がほしいとあの人にねだったのは先月の終わり頃だ。子供をほしがることなど一生ないと思っていたのに、あの人がシャツのボタンをはめている後ろ姿をベッドでぼんやりと眺めている時、茜はふと、彼の子供をおなかに宿したいと思ったのだった。彼がうなずいてくれるわけがないことはわかりきっていた。彼は茜より十歳も年が離れているし、なによりも由佳子さんの夫だ。別に由佳子さんと張り合いたいと思ったわけではない。彼の子供がほしくなった、それだけの理由だった。ベッドを下りた茜が背中から抱き着くと、あの人はしばらくボタンを留める手を止めた。昨夜袖を通していたものとは別の、水玉模様のシャツだった。紺色の生地に畳みじわがくっきりとついていた。
あの人は、僕は……、と言ったきり振り向きもしなかった。声がかすかにふるえていた。
離してくれとため息をつくと、おもむろに茜の腕を掴み、振り解きにかかった。茜は茜で振り解かれまいと力をこめた。振り向かせたかった。だが、彼がこちらへと振り向いた時、茜は後ろへとよろめき、自分の重心を捉える術も失って床に倒れこんでいた。倒れる位置がわずかでもずれていたら、ベッド脇の引き出しに右のこめかみを打ちつけていたかもしれない。くちびるを噛みしめるあの人の顔が彼方に浮かんでいた。彼が目を血走らせていたのはほんの束の間だった。あの人は糸が切れたように茜のもとに駆け寄ると、途端に心配げな表情を見せた。もう一度、僕は……、とつぶやき、それからすぐに、君を傷つけたくないんだ、とぼそりとつけ加えた。茜の髪を撫でる手がまるで陶器に触れるかのように指先だけを立てていたが、腕も腰のあたりもじんわりと痛みだし、茜はいやいやと後ずさったが、いくらも進まぬうちに肩胛骨のでっぱりが壁に当たった。が両方の目じりに濡れている感覚があった。このまま学校に行けば目が腫れて目立ってしまうと思いはしても、部屋を飛び出したくて堪らず、茜は椅子の背もたれに引っかけてあった下着や衣類を手早く身に着けた。互いの衣擦れの音が不協和音を奏でていた。
あの日、茜はホテルから直接学校に通ったのだった。突き飛ばされて腕にできたあざは一カ月近く経った今もしぶとく残っている。あの人の子供を宿したいという肌ざわりも同様に茜の体に残っていた。
電車が調布駅のホームに到着し、乗客が一斉に押しだされていく様子は、縦に一直線に裂いた鮭の腹から筋子の束がドッと溢れ出るのに似ている。茜はそれを胎内から眺めている。例の厭味な男性客もまた、そのほかの筋子達といっしょにホームへと押しだされていった。歯抜けにできた空席のひとつに妊婦が腰をかける。肩に提げていたトートバッグをおろして、両足で挟んでいた。茜はそれ以上妊婦を気に留めるのはやめて、学生鞄から携帯を取りだした。友人からいくつもラインがきている。自然とあの人の名前を探していた。
しかし、あるはずはなかった。会いたいと連絡をいれるのは、いつも茜からだった。その返信も先月から遅れぎみになっている。
あれから何回かあの人と枕を並べていた。たいていは五反田駅周辺のホテルを使うことが多く、由佳子さんと駅前で鉢合わせをする可能性は低かった。子供がほしいと彼の腕にしがみつけば、彼は仏頂面を保ったまま茜の好きにさせた。アイシャドウやファンデーションでわざと濃くしあげた茜の顔は、あの人とほとんど年齢の差を感じさせなかったはずだ。学校がある日は紙袋にしまいこんでおいた服を、五反田駅に着いてから駅舎のトイレで着替えていた。網で魚を焼く香りや、仕事終わりの会社員が喚いているすぐ横を通り過ぎながら胎児のすがたを思い描く。自分とは違う心音が自分の体で響くのを想像するだけで、茜は幸せな気分に浸れた。
昔から、だれかの胸元に耳を宛てて、その人の心音を聞くのが好きだった。冬の冷え冷えとした日でも心音だけは茜の体を温めてくれた。電車が地上へと出る。あの人とは一度もいっしょの電車で帰ったことはない。朝、日出や実践女子の制服に混じって登校する時、心臓の行方を無意識に求めてみても聞こえるのは電車の無機質な駆動音ばかりで、起き抜けにはまだ色濃かったはずの安らぎも肌のずっと奥底に沈みきってしまっていた。だからだろう、あの人と会うごとにできるあざがせめてもの救いだった。
子供がほしいと言うようになってから、あの人は頻繁に短気を起こす。そのあざがいつできたものなのか、茜はいちいち正確に日付を覚えている。九月初めの暑さのなかで長袖のブラウスにカーディガンを合わせているのはそのためもある。どれだけ傷つけられても構わなかった。それなのに彼は、傷つけたくないなどと欺瞞ばかりを口にしている。だから茜は行為の最中、自分の舌をひたすら彼の舌に這わせ続け、彼がものを言うのを阻んでいた。顔を持ちあげようとすれば首に縋りついて離さなかった。その時の温もりをまとって朝の電車に乗りこめないのが当然とは言え、それを当然だと済ませてしまうのは口惜しく、茜はその不機嫌を低血圧のせいにしてどうにかやり過ごしていた。
どんなに醜いあざであっても、やがて月日の移ろいが傷を癒してしまう。子供が生まれた先のことはなにも考えてはいなかった。ただ、静謐な海に否応なく全身を浸からせている、胎児のすがただけを思い浮かべている。
妊婦は茜と同じ駅で降りた。彼女はおなかに手を宛てながら、ずっと内側からの海鳴りに耳をそばだてている。妊婦がエレベーターを待つ列に並んだので、そこで彼女とは別れた。だが、駅近くの駐輪場に停めた自転車を引きだしている間も、茜は自分の子供について思いを馳せることをやめられずにいた。甲州街道を渡れば、ひたすら住宅街の路地が続く。街路灯に照らされて、会社や学校帰りの人々が顔を下向きにして歩いている。このまま自転車を漕いでいれば、十分もしないで家に着いてしまう。茜はまっすぐに進むのをやめて、右に折れた。電車のなかでほんのすこし居眠っていただけでも、百貨店をめぐって歩き疲れた足はだいぶ快活さを取り戻していた。繁華街の喧噪にのしかかられて滞っていた血の流れも、街路樹や通り過ぎる公園の緑樹が浄化してくれ、徐々に清冽になっていくのを感じた。点滅する青信号を駆け抜ける。あの人に会いたかった。
彼は今、花小金井の自宅にいるのだろうか。それとも、駒込の事務所だろうか。どちらにしても、これから自転車で訪ねるような距離ではなかった。茜は府中の森公園に着くと、自転車を停めてベンチに腰かけた。ライトアップされた噴水が水紋に光の帯を垂らしている。木々が影のように暗い。茜のほかは男女のふたり連れが目立った。二一時を回っていた。茜は背もたれに寄りかかれるだけ寄りかかって、右足のローファーを脱いだり、履いたりした。手元で携帯の待受を光らせている。電池を闇雲に減らすだけでしかなかったが、さりとて、消したくもなかった。こういう時、退屈を慰めるために脱ぎ履きのしやすいローファーは便利だった。折り曲げたひざを勢いよく伸ばして、明日天気になあれと、めいっぱいローファーを飛ばしたい気分だった。今ならめいっぱいに飛ばして、噴水のなかに落とせそうな気がした。もっとも、そんなことをしてもあの人に会えるわけではないのだから、電話をしなければ、一秒一秒、意味もなく時間が過ぎていくだけだ。わかってはいても、茜は踏ん切りがつかずに、ローファーをもてあそんでいた。
あの人に直接電話をかけたことはなかった。メッセージであれば既読がついたまま返信がこなくとも、しかしいずれはくるものだと待ちわびられた。実際、茜からのメッセージに彼が返信をしなかったことは一度だってなかった。電話をかけるのは苦手だ。相手の声が電話越しに聞こえてくるまでの時間も、待ち時間の電子音も、そして電子音がやんで静けさが訪れる一瞬が、苦手だった。ローファーが石畳の上に落ちて、茜はようやく上体を起こした。乱れた前髪が目元にかかる。裏向きに転がったローファーを足の動きのみで元通りにし、履きなおす。石畳のわずかな隙間にびっしりと雑草が茂っている。結局、電話はできそうにない。もしもあの人に会えなかったとしても、家に帰るつもりは万に一つもなくなっていた。両ひざを抱えこんでいると、自分もまた静謐の海に浸かっている気分がして、それ以上抱えこむことができなかった。
茜はなかば投げやりな気持ちで、これから事務所に行ってみようかなとラインを送った。先輩にお酒を飲まされてちょっと酔ってるみたいと、でたらめまで書き添えた。あの人の事務所に行ったことはない。だが、彼がベッドで寝ている隙にカード入れから名刺を一枚引き抜いたことがあったから、住所は知っている。事務所は元々、住居と兼ねて使っていた部屋らしい。返信は数分後にきた。茜が送った内容にはひとつも触れないで、これから会おうと、それだけが書かれていた。普段は一日以上、既読の状態から間が空くのにと、うれしさよりも苛立ちのほうがまさった。悶々と過ごした時間分、彼に償わせたかった。だから茜は、府中まで迎えに来てほしいとわがままを言った。酒は飲まない人だから、車を出せないという心配は不要だった。少しはアルコールの匂いを漂わせたほうがいいかとも思ったが、この格好ではどこに行っても販売を断られる。ローファーを軽く足で飛ばせば、再び裏を向いて石畳に着地した。明日は雨が降るのかもしれないと茜は思った。
ふたりの関係を、由佳子さんはほんとうになにも知らないのだろうか。あの人が運転する車の後部座席に由佳子さんがゆっくりと乗りこむ。一昨日、電車で見かけた妊婦よりもよほど大きなおなかをしている。あの人からは、そろそろ家庭教師を休んでもいいのではないかと眉をひそめられているものの、由佳子さん自身は、良い気分転換になるからと突っぱねているらしかった。後部座席のドアを閉め、運転席に戻ろうとするあの人に、茜は門扉からは出ずに手を振った。由佳子さんも笑顔で手を振り返す。けれど、あの人は一度こちらに視線を向けただけで、さっさと車に乗りこんでしまった。ドアの開閉音が空気をにごらせるのはほんの束の間で、濁りが収まればばそれまで以上の寂しさがこみあがる。寂しさの輪郭をエンジン音がくっきりと浮かびあがらせる。そんなに早くキーを回さなくてもいいのにと、茜は小石を飛ばすように親指の先で門扉を蹴った。昼まで降っていた雨のおもかげがまだちらほらとアスファルトに残っていた。水しぶきを散らして遠ざかっていく車を、茜はいつまでも見送った。風が冷たかった。雲の切れ間からわずかに星が出ている。絞ればいくらも水分が滴り落ちてきそうなきらめきだった。
一昨日は、車中からの眺めのなかで東の空が白んだ。制服姿ではホテルのフロントで見咎められるし、さりとて家財一切を新居に移したあとの事務所には寝袋がひとつあるだけだそうだから、消去法でドライブにしようと決まった。もっとも、あの人との関係性に情緒的な思い出などこれっぽちもいらなかった。どこに行きたい? と訊かれても、どこでも良いと答えるばかりで、茜は彼の横顔に背を向けていた。どんな外車でもすましたカビ臭さが感じられて、外の景色に目を向けていなければ酔いそうになる。父親が運転する車も外車だった。夜はたっぷりとあった。車は房総半島のへりを意味もなく伝い、船形漁港を過ぎたあたりで引き返した。海沿いといっても街灯のない道をひたすら走っているだけで、なぜそんな場所をドライブに選んだのか、きっとただ走らせていただけでなにか計画があったわけではなかったのだろう。
背後から陽光が追いかけてくる。だが、正面を見ればまだ夜更けが続いていた。帰りはアクアラインを使った。車は夜更けに向かって進んでいた。今ごろ、由佳子さんは隣がぽっかりと開いたベッドで眠りの底を歩いているのだろうかと思った。眠気が押し寄せていた。茜もまた、口を開かねば眠ってしまいそうだった。
「ほんとうに来てくれるとは思いませんでした」
「酒を飲んでるなんて言われたら、行かないわけにはいかないよ」
「私のこと、傷つけたくないからですか」
あの人はつっけんどんな口調で、そうだよと答えた。茜にではなく、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。彼がどんな顔をして答えたのか、茜は見る気もしなかった。彼は胸ポケットをごそごそとまさぐってから、思いだしたかのように動作を止め、ハンドルを握り直した。車中や由佳子さんの前ではたばこを吸わないようにしているらしい。その分、茜のとなりではためらいもなく吸う。二十四時間営業のラーメン屋に寄り道をした時も、外に出るなり火をつけていた。白い薄煙の先に凪いだ夜があった。その夜がどんどん朝に侵されていくのが茜は名残惜しく、なにも言わないで過ごした時間をちょっとでも取り戻したいと思った。アクアラインの真下で海が色を取り戻しはじめていた。
「由佳子さんにはなんて言って出てきたんですか?」
「急な用事が入ったからって言ったよ。夜中にクライアントから呼び出されることはしょっちゅうあるんだ。クリエイティヴなんて、結局は体のいい奴隷だからね」
都内に入ってからは高速道路を使わずに下道を通った。陽が登るにつれて、人通りも多くなる。高校までは徒歩で十分とかからない場所で、あの人から、ここで下ろそうかと言われ、茜は従った。朝早くに登校するのは初めてだった。そんな時間に教室の扉が開いているのかもわからなかった。せめてシャワーは浴びたかったが、首を横に振る気力はなかった。化粧のことも、下着のことも、眠気のせいでどうでもよくなっていた。だからその分、学校までの道のりを歩くごとに揺すぶられた頭が陽光を吸ってかろうじて冴えだすと、茜はいてもたってもいられず、今来た道を引き返して、最寄り駅まで足早に歩いた。最悪な朝だった。前夜の天気占いでは雨が降ると出ていたのに、汗ばむような青空が広がっていた。ホームの反対側に電車が到着する。電車がいなくなったあと、茜と同じ制服を着た生徒が清々しい朝をからだにまとわりつかせて、ホームを歩いている。さいわい、新宿方面からくる生徒達の多くは明大前駅で井の頭線に乗り換えるので、電車がきても同じ制服とすれ違う心配はほとんどいらなかった。空席の目立つ車内に乗りこんで窓越しに日差しを浴びれば、昨夜からずっと終着駅と終着駅とを行き来していたような気分にさせられた。あの人とのドライブなど電車に揺すられて見た些末な夢の出来事だった。
その日は夕方近くまで眠りこんでしまった。家に帰ると、母親はもう出勤をしたあとだった。シャワーを浴びた記憶はあるものの、それからどのようにして自室に戻ったのかはうろ覚えで、それでも髪にドライヤーが宛てられていたことに茜は妙に感心をした。公園に自転車を置き残していたことを思い出したが、取りに戻る気力はなかった。それに、とうに撤去されていることも十分にありえた。取り返すために罰金を支払うくらいならば、あの人に新品の自転車をねだればいいと、寝返りを打ちながら携帯をいじるうちに日付が変わった。
最低なあの人の前では、茜もまた最低でいられた。それでも、自分を最低だと認めている分、あの人に比べればマシだった。あの人が最初の交際相手だったわけではない。にもかかわらず、どうしてあんな最低な男の子供を宿したいと思うようになったのだろうか。茜はついさっき、彼が一瞬視線を向けただけですぐに運転席に乗った情景を思い返し、無性に腹が立った。たぶん、途中で車を降りるように促された時から茜は不愉快な気分をずっと溜めこんでいる。
水分をたっぷりと含んだ星のきらめきは、茜の部屋からでも窓越しに見ることができた。出窓で、茜はそこに、ねこのぬいぐるみをいくつか飾っていた。産まれる前の子供は、空からどの親のもとに産まれたいか品定めをするのだという。もしもあの人が茜との子作りをうべなってくれたとして、ふたりの間に産まれたいと思う子供がいるのだろうか。いるとすればそれは、よほど見る目がないか、つむじ曲がりな子供にちがいない。そもそも、そんな俗信を茜は信じてすらいない。俗信を真実であると信じられるだけの充足を、茜は持ち合わせてははいなかった。目の端で、タッパが入ったビニール袋の持ち手が、冷房の風で揺れていた。由佳子さんがお裾分けにと持ってきてくれたおかずだった。由佳子さんは家庭教師の日には必ず、茜の家を訪ねる前に実家に立ち寄っているらしかった。由佳子さんの母親が多めに作るおかずを、いつも分けてもらっていた。しかし、今日に限っては手をつける気が起きなかった。味噌の匂いがやたらと鼻についた。衝動的に、袋ごとごみ箱に向けて投げつけていた。袋はごみ箱のふちをかすめて、後ろの壁に当たった。
突き放されるだけだと理解していても、茜はあの人に、子供がほしいと言い続けるしかなかった。茜のもとに産まれたいと願ってくれる子供のために。部屋にはまだ、由佳子さんの温もりがあてどなく漂っている。授業で使った参考書やノートもそのままだった。
由佳子さんがあの人と同棲を始めるようになるまでは、授業のあとにふたりでよく夕飯を食べたものだった。由佳子さんは、茜が母親に気まずさを抱いていることを察してくれ、タッパに詰めたおかずをもってきてくれた。
あの人と結婚をすると由佳子さんから聞かされた時、茜は少なからず裏切られた気がした。しかし、なにを裏切られたのか、茜自身、わかりかねた。結婚式に招かれたと出勤前の母親に報告すると、あっさりと御祝儀の三万円を手渡された。由佳子さんからは御祝儀はいらないと言われていたが、建前というものがあるのだからと母親に押しつけられたかたちだった。それが二年前のことだ。当時の茜は地元の公立中学に通っていた。電車に乗る機会自体少なかったから、パレスホテルまで行くのに大手町駅のなかで迷いかけたのを覚えている。通りがかりの女性が声をかけてくれなければ、茜は地下道を東京駅に向かって歩き続けていた。
新郎新婦の来し方を振り返るスライドが流れるなかで、茜が知っているのは高校時代以降の由佳子さんだった。だが、写真のどれにも茜が知っている由佳子さんは映っていなかった。おとなびて見えていたはずの由佳子さんは、ともすれば、その当時の茜よりも幼く映っていた。よくいえば根明な、しかし、顔のあらゆる部位が弛みきり、明日も過去も言葉を持ち合わせない幼時に特有の顔つきをしていた。カメラのレンズに濾され、現在ばかりが際立った映り方が由佳子さんだけに限った話ではないとはいえ、普段明日や過去ばかりを貼りつけた顔を見せられていた茜には、写真の由佳子さんが、茜の記憶の由佳子さんとはまったく別の世界で年を重ねたすがたに思えた。由佳子さんとは一回だけいっしょに写真を撮ったことがある。中学の入学式前におろしたての制服に身を包んで、遊びに行ったことがあった。由佳子さんは、私の頃とはデザインがちがうとおどろき、物置代わりの一室から樟脳の香りのする制服を引っぱり出して懐かしがっていた。写真はブロック塀の前で撮った。茜が制服を着てほしいと頼むと、由佳子さんは口では拒みながらも応じてくれた。背は茜のほうがちょっぴり小さいだけなのに、由佳子さんには落ち着き払った雰囲気があって、そのおとなびた佇まいは紺色の制服によくなじんでいた。
一人っ子だった由佳子さんは茜には見よう見まねに姉を演じていたのだろう。茜はたびたび、隣家を訪ねては由佳子さんに会いたがった。放課後に学校の数少ない友人と遊んで帰る頃にインターフォンを押せば、たいていは由佳子さんが出るか、彼女の母親が出るかのどちらかだった。彼女の母親も由佳子さん同様に茜のことをかわいらしいお客さんと言って歓迎してくれたが、笑顔の内側になにを潜めているのかを悟ることができない以上、茜はリビングで夕食をごちそうになる時、いつも神経を削られる思いだった。茜の座席からは、彼女の母親がどのような表情で高砂に座る一人娘を見つめているのか、椅子ごと傾けなければわからなかった。挙式のあとですこしだけを話をした。結婚式自体、参加するのがはじめてだった茜は、自分で思っていたよりも緊張していたらしかった。かえって彼女の母親のほうが気遣ってくれ、とても凝っているわと軽く肩をさすってくれた。ウエディングドレスから和装にお色直しした由佳子さんの真っ赤な裲襠にはカエデやモミジがあしらわれていた。由佳子さんが笑うたびに、紅葉を重ね合わせて枝垂れさせたようなかんざしが揺れた。茜はざらついた感情に更に砂粒を振りかけられる感触を覚えた。振りかけられただけでまだ完全には糊が乾いていない砂粒を落とそうと、目の前に運ばれてくる料理を片端から平らげれば、いつになく旺盛な食欲に胃が悲鳴をあげていた。それでも、砂粒は落ちるどころか溜まっていくばかりだった。由佳子さんは和装に合わせて髪形も変えていた。茜にしか見せなかった一面があるように、更衣室でデザイナーからされるがままになっていた時にしか見せなかった一面もあるはずで、その一面をこと細かに想像すれば更に気は塞いだ。
化粧も髪の編みこみも、みんな由佳子さんから教わった。妹というのは姉の着せ替え人形なのだろうかと、足を崩しながらできあがりを待っていた。間近で由佳子さんの吐息や、合わさった唇が離れた時の破裂音が聞こえるのがここちよくて、茜はややもすれば眠りそうになるのを必死に怺えていた。教えてもらった編みこみをやっと習得して登校したことがあった。積極的に同級生と交わろとしなかった頃で、そんな女子が急におしゃれな格好をして教室に入ってきたものだから、周りの女子からは冷たい視線を送られた。茜は柳に風でさっさと元の髪形に戻してしまい、編みこみをして学校に行ったのはその一度きりだった。教室は寝小便を卒業したにすぎない子供の集まりでしかなかった。
由佳子さんの口からあの人の名前をよく耳にするようになったのは、中学にあがってすぐだった。高校時代の先輩だと言っていた。華やかに修飾している響きのなかに、ピアノ線が一本だけ張られているようなか細さがあった。由佳子さんがその彼と交際を始めたのだと茜はすぐに感づいた。和音を響かせているようにみせかけても、ほんとうは一つだけの鍵盤を叩き続けているだけだった。茜がその音を聞き分けることができたのは、由佳子さんと同じく一人っ子だったからだ。その頃から予感はしていた。由佳子さんがあの人との婚姻届を出したのは大学を卒業してまもなくだった。社会人になってからも、就職はせずに家庭教師のバイトを続けていた。由佳子さんが家庭教師をはじめたのは茜の勉強を見ていたことがきっかけだったと、ずいぶん経ってから聞いたことがある。妊娠をしてからは、茜以外には教え子をとっていないらしかった。家庭教師として由佳子さんを雇うとこだわったのは母親だった。母親にとって人の親切に預かることは、弱みを握られることと同義であるし、由佳子さんに対しても杓子定規な接し方しかしようとはしなかった。由佳子さんは昔と変わらず、授業の合間には流行りの服やお店について色々と教えてくれる。いっしょにお茶も飲めば、お菓子も食べた。変わったことといえば、語らう場所が由佳子さんの部屋から茜の部屋になったことくらいだった。由佳子さんがくる時間に母親が家に居合わせることはほとんどなかったし、午前様のことも多かった。夫との離婚によって分与された家にあまり寄りつきたくなかったのかもしれない。
あの人のことは一目会った時から鼻持ちならない男だと直感で決めてかかっていた。偶然、あの人の車から由佳子さんが出てきたところに鉢合わせて、茜はなにげない晩の挨拶をして家に入ったが、それからしばらく、ドアに背中をつけたまま乱れた呼吸が治まるのを待った。どうしてあんな男を好きになったのか、茜には理解できなかった。
披露宴での由佳子さんの衣装はデザインの細部までありありと覚えているのに、あの人のことはなにひとつ思いだすことができない。後日にギフトのカタログと合わせて送られてきた結婚式のアルバムを茜は開いてすらいなかった。クローゼットにしまいこんだつもりが、あの人と関係をもつようになったあとでふと開いてみようと引き出しや段ボールのなかを探しても、かげもかたちもなかった。
三人でくらやみ祭りに行った時には、彼女が妊娠をしていることはすでに教えられていた。あの人を困らせてやりたいなどという気持ちはこれっぽちもなかった。由佳子さんが仮設トイレの列に並んでいる間、茜はあの人と参道を外れた一角で待ちながら、ささくれだった気分をもてあましていた。焼き鳥やおでんなどを取り扱っているテント小屋の裏手で、玉砂利が敷きつめられた開けた空間になっているのでそちらの側にも屋台が軒を連ねていた。テント小屋で昼食をとったあとだったから、茜もあの人も屋台の前をぶらつくだけだった。背中のくぼみに汗が溜まる日差しではあったが、半袖の隙間から入りこむ風は心地よかった。
彼に抱きついたのは、彼の横顔を仰ぎ見ているうちに腹立ちが募ったからだった。人いきれでのぼせていたせいかもしれない。たばこのにおいがほんのりと香るシャツに顔をうずめても、祭りの客に紛れてしまえば見咎める者はだれもいなかった。茜は頭を抑えながら、貧血でめまいがしたようにふるまった。もう少しだけこのままでいさせてほしいと、後ずさろうとするあの人のシャツをぎゅっと掴んだ。彼の心音が激しくうずいていた。短くもなく、さりとて長くもない時間を、茜は彼と心音を重ねた。あまりに見え透いた甘え方だった。
彼の背中に腕を回しても、払われはしなかった。拒まれることをわずかでも信じていたのにあっさりと踏みにじられ、茜はいっそ彼の背中に爪を食いこませてやりたかった。その代わりに、彼の首筋にそっと唇を宛てがった。由佳子さんのために彼が抑えこんでいるのだろう欲求を足の先まで引きずりだせば、みみずが夏の日射を浴びてコンクリートをのたうつように、茜に疵痕を残してくれる。疵痕は茜がひとりでないことの証だ。せめて証をつけてくれたならば、彼を許すことができるのかもしれなかった。
文化祭に向けて飾りつけられた教室で授業を受けていると、自分の肌に密着した時間とはまるで異なる時間が周囲を流れているのだと思える。飾りつけといっても、天井や壁に風船や花紙がささやかに貼られているほかは、後ろの黒板に文化祭までの日数がチョークで大きく書かれていたり、未完成のはりぼてが壁に立てかけられていたりするくらいだった。文化祭には由佳子さんも誘っていた。由佳子さんに日時を訊かれて、茜はとっさに、既に伝えていたものと誤解していた風を装ったものの喉の奥に気まずさが残った。
選択授業で生徒が半数に減った教室で、老教師の言葉に耳を傾けている生徒はほとんどいなかった。ただでさえ日本史の授業はうるさい女子が固まっているので、老教師の注意など一笑に付されるだけだった。終いには別の生徒から、早く板書をしてくださいとかえってたしなめられる始末で、老教師はチャイムが鳴ってからもしかめっ面を崩さなかった。入れ違いに、別の教室から帰ってきた生徒達が入ってくる。茜の前で椅子が引かれるので顔をあげれば、木上恭司と真野若菜だった。木上は両脚で背もたれをはさみこむようにして他人の席に座ると、茜の机にストローが挿さった紙パックを置いた。
「おはよう。いつきたの?」
若菜が弁当箱の包みをほどきながら言う。弁当はいつも、弟の分と合わせて自分で作っているらしい。茜も教科書類を机にしまってから、登校前にコンビニで買った冷製パスタを取りだした。この頃、昼になるとそればかりを食べている。
「四限が始まる直前」
「日数、そろそろやばいんじゃないのか」
木上がコッペパンをかじりながら言った。
「まだ大丈夫。一学期はそんなに休んでなかったし」
「椎名ってさ、見た目に似合わず不良だよな。ほんと不思議」「べつに不思議じゃないと思うけど。見た目なんていくらでも取り繕えるでしょ。私だってギャルが性に合っていたら、森野さんや吉村さんみたいになってる」
日本史の授業でひときわ大声を出していたふたりを思い返しながら、茜は言った。厚化粧も、見るからに校則違反の染髪も、興味がなかった。興味という点では、彼女たちも、そして彼女たちが仲よくしている男子たちも、目の前も木上も、そして文化祭やそれから二週間後に控えている体育祭も、どうでもよかった。なにもそれが心地の悪い夾雑だというわけではないが、学校に閉ざされて一日の大半を送る時間が茜には気だるく感じられた。そんな気だるい空間に十年も二十年も息を潜めている教師たちも、生徒達よりも年齢に隔たりがあるだけで本来であれば偉ぶれる要素など持ち合わせているはずもなかった。高校での生活がたった三年間しかない茜たちよりも、からだじゅうの血管が糜爛しているにちがいない。茜はパスタを絡めたフォークで生ハムを突き刺した。木上がいなかったら、フォークで何度も生ハムに突き刺して、無数に穴ぼこを作ってやりたかった。
木上が茜に対して少なからず好意を寄せていることは、茜自身気づいてはいる。茜の好みを聞き出しては話を合わせようとする木上をほほえましく思いながら、茜は彼の喉仏がせわしく上下するのを眺めた。硬式テニス部の活動で日焼けした肌はたくましく、頼りがいもある。若菜からは、年上の彼氏とは別れて木上に乗り換えたらいいじゃないとことあるごとに言われている。あの人との不安定な交際よりも、恋愛雑誌をかばんの底に忍ばせながらあれやこれや試行錯誤をする交際のほうがどれだけ身の丈に合っているだろうかと想像をめぐらさないこともなかったが、木上では決して充足を満たせないだろうし、ゆだねるつもりもなかった。
「椎名の分も捨ててくるよ」
そう言って木上が、空の容器が入ったレジ袋に自分が出したごみをつっこみ、立ちあがる。お遣いをしに行く子供みたいな背中をしている。木上に対しては、ほほえましいという感情ばかりが芽生えてしまうのだった。男子の背伸びというのはどうしてこうもつま先を立てるほかに術がないのだろうか。体格だけはがっちりとしている分、そのつま先立ちがおかしく見える。
「ありがと」
「たまには椎名もプールを泳げよな」
それじゃあと手を振りながら、木上がごみを捨てに行った足で教室を出ていく。余計なお世話だと、茜は心のなかで舌を出した。五時限目まではまだ三十分近くある。気の早い生徒などはそろそろプールの更衣室に移動している時間だったが、茜は見学をするつもりでのんびりと構えていた。水着一式、はなから持ってきてはいなかった。
女の体育教師から仮病を疑われて、なかば強制的にプールに入らされたのは一年の時だった。皮下脂肪が平均よりも少ないのか、中学に比べていくらか水温が低いプールを泳ぐと数分もしないうちに唇の感覚がなくなっていく。だからといって具合が悪くなったわけではなかったが、プールサイドにあがって、これでも仮病だと思いますかと小刻みに震える唇を見せつければ、体育教師はぞっとした顔つきで見学を認めてくれた。それ以来、体調が優れないと言えば見学の許可をもらえたが、森野好美や吉村郁乃がどのような理由でいつも見学組に回っているのかは聞いたことがない。
胎児がおなかのなかで生物の進化を経験すると教えてくれたのは由佳子さんだった。何十億年もかけて人間へと進化してきた歴史が、子宮のなかで、たった一週間のうちに再現される。雲の上で子供が親を選んでいるのだと聞かされるよりも、かつて自分が魚類や両生類のすがたをしていたと思い浮かべるほうが納得できた。静謐の海がどれほどの深さなのか、少なくとも、胎児にとっては恐ろしく深淵で、それでいて窮屈な場所にちがいない。一見すると相反する性質のようでいて、実際は現実の生活となんら変わりないのではないか。あの人の肩幅の広い背中を見つめながら、茜は自分の体を今後流れるかもしれない海について思いを馳せてみても、夏の都心部で時折感じる、腐った磯のにおいばかりが頭をよぎる。
コーヒーメーカーがこぽこぽと音を立てている。茜は三日と空かず学校を早退けして、あの人の事務所を訪れていた。はったりをかますだけでは、あの人にはもう通用しないと思った。事務所といっても、客人がなければひとりで詰めていると聞いていた。事務所はアパートの一室だった。花小金井の家からわざわざ出勤をしているのは、二三区内に仕事場を構えているほうがなにかと都合が良いかららしい。適当に寛いでいてくれと言われて座らされたソファからは部屋の構図を一望できた。打ちっ放しのコンクリート、スポットライトが四つほど取りつけられたレール、ノートパソコンや資料類があるだけの長机。窓辺には観葉植物の鉢が置かれている。流しを除けば六畳ほどしかない部屋だったが、物が少ないので広々として見えた。
茜は寝袋を抱き枕にして、肘かけに頭を乗せていた。あの人はずっとパソコンのマウスを操作している。息の詰まる部屋だった。ゆったりとしたテンポのジャズがかかっていたが、流行りのポップスに替えてもらった。茜の趣味ではなかったが、ジャズの古臭さよりはマシだった。高校生を相手に怖気づいている彼の小心をもてあそびながら、同時に彼に好かれたいと願ってもいた。好きでもない男に好かれたいと願うのが異常だとしても、率直な思いを曲げることはできなかった。コーヒーメーカーの音が止まる。あの人が淹れてくれたコーヒーに、茜は大量のシュガーをまぶした。苦い飲み物は好きではなかった。あの人がカップを差しだしてくれた時、茜は髪を編みこんでいる最中だった。完成した編みこみを見せると、あの人は顔色一つ変えずに似合ってるよと褒めてくれた。それは、由佳子さんに教えてもらった編みこみだった。今でも由佳子さんはその編みこみをして家庭教師にくることがある。けれど、あの人には編みこみなどいちいち視界には入っていないのだろう。茜は数滴底に溜まっているだけのコーヒーで舌を潤してから、子供がほしいとつぶやいた。彼の舌打ちが聞こえた。貧乏ゆすりをしだすのは、彼がいらだちを鎮めようとしている時の癖だった。
「僕は子供なんてほしくなかったんだ。由佳子が望むから僕は……」
逆上した彼が以前、はっきりとそう言ったことがあった。ぽろりと口に出してしまった言葉がかえって彼の細やかな神経を傷つけていた。いまだに彼はふさがらない傷口を茜の目の前で露わにしている。茜はその傷口を塩を塗りつけたかった。いつか保育園で読んだ、因幡の白兎の絵本が頭をよぎる。皮という皮が裂けて、全身が血の色で染まった白兎の絵だった。彼が連絡をよこしてくれなくったのはその頃からだ。
「出ていけ」
声を震せてあの人が言う。茜は解いた髪で別の編みこみを作っていた。イヤだと口をへの字にしながら、編みこみをやめようとはしなかった。茜も意地になっていた。
「コンドームに穴を開けるのって、案外簡単なんですよ」
「おとなをからかうものじゃない」
「からかってなんか」
茜が言い終えないうちに、カップが迫ってきた。あまりに唐突で茜はよけることができなかった。カップはブラウスやスカートにコーヒーを散らしながら、ソファの背もたれに跳ね返り、フローリングに転がった。あの人は、茜のまだ編みこんでいないほうの髪を掴んで、ソファから引きずりおろした。髪の毛が何本かまとまってちぎれる音がした。反射的に振り解こうとしても、彼の手に邪魔をされて小突き回されるのをやめさせることができなかった。その間にも、ぶちぶちと髪の毛がちぎれた。茜は何度、痛いと悲鳴をあげたかわからなかった。打ちっ放しのコンクリートは防音性があるらしく、茜の悲鳴はその場で反響するばかりだった。そのいっぽうで、どうして由佳子さんはこんな男を好きになったのだろうと、ずっと疑問に感じてきたことを冷静に考えている茜もいた。そうでなければ、茜もまた見境なく彼に噛みついていたかもしれない。
攻撃を防ごうとする以外にはなんの抵抗もしないので、彼の乱暴はほどなくして終わった。いつものことだった。解放されたあともなお、茜はまだ髪を引っ張られている感覚がした。それに、こぶも無数にできている。フローリングには茶色の液体と、髪の毛が無数にちらばっていた。彼はいつもそうだった。殴りもしなければ、蹴りもしない。すんでのところで理性を保っていると信じこんでいる。信じこみたいのだった。
「帰ってくれよ。おねがいだから」
あの人の声に、さきほどまでの余勢はまるでなかった。部屋の惨憺たるありさまを見れば、君を傷つけたくないなどと白々しい言葉をかけることもできはしない。彼は溢れ出そうになるしきりにつばを飲みこむばかりだった。茜は素直に従った。濡れそぼったブラウスを着たまま、ドアノブを回した。金属が軋み、喧噪に放りだされた。エレベーターを待つ時間がわずらわしくて、とぼとぼと階段を下る。ブラウスの染みはカーディガンで隠せたが、スカートはどうしようもなかった。袖を捲れば、ところどころに真新しいあざがついていた。あざには、暴力を振るっている時のあの人の心音が刻みつけられている。しかし、それは一時的な証でしかない。人差し指の関節を折り曲げて涙を拭えば、涙のなかにアイラインが溶けだして関節の紋様をくっきりと浮きあがらせた。
化粧を直しもせずに茜はファミレスに立ち寄った。店員にあることないこと勘繰られようがどうでもよかった。無性に冷たいものを舌になじませたかった。メニュー表も見ずにバニラアイスを注文した。涙で塞がった喉の通りもアイスならば流れていく。二階から不忍通りを見下していると、髪が四方八方に乱れていた。因幡の白兎というよりも、戸隠山の鬼女だ。ちょっと手櫛をしただけでも、たった今髪を掴まれているかのようにするどい悲鳴をあげる。アイスはすぐに運ばれてきた。平日の真昼間にファミレスを利用しているのは子供連れや若い女性がほとんどだったが、茜の後ろでは背広を着た四人組がなにかを打ち合わせていた。茜は小匙の更に半分ほどの量を掬った。小匙を持つ親指のつけ根が痛む。神経を痛めてしまったにちがいない。ポリッシュもところどころはげている。あの人に引きずられた拍子になにかで切った唇の裂傷に気遣いながら、口を開けた。アイスの冷たさが喉を通れば、止まっていたはずの涙がまたこみあがった。涙が溢れるだけ、小匙に盛る量もぞんざいになった。自分が食べているものすらどうでもよく、茜は小匙を口に放るためにアイスを食べていた。二つあった山は数分たらずで跡形もなく消えてしまい、それでも小匙を握る手を離すことができずに、片肘をつきながら一音、一音たしかめるようにして、グラス型の容器の底をこつこつと叩いた。周りの雑音がすべて自分に向けられたものに感じられる。
ふいにスカートの裾をつままれた。気のせいかもしれないと無視をしていたが、やはり裾をつままれている感触がする。つまんでいたのは五、六歳の女の子だった。さくらんぼがついた髪解めで二つ結びにしている。
「おねえちゃん、泣いてるの?」
と、女の子が言う。喉が塞がって、茜はなにも言い返すことができなかった。差し出されたハンカチを受け取って涙を拭うのがやっとだった。角が丸い、タオル地のハンカチで、涙の跡はほとんど目立たない。濡れた感触を指の腹で擦りながら、涙がとめどなく溢れていることを体に染みこませる。甲高い足音が近づく。ヒールの低い、赤いパンプスだった。迷惑をかけたらダメでしょ、と女の子に言い聞かせている声が頭痛のする頭に響く。茜はめいっぱいに口角をもちあげてから、女の子の目線に合わせてしゃがみこんでいる女親に顔を向けた。ハンカチを黒く汚してしまったことを詫びれば、女親もまた茜のように取り繕った笑顔を見せた。ハンカチを返す間もなく女の子に、おねえちゃんにさようならをしようねと挨拶をさせる。女の子はスカートの前で手を合わせ、深々とおじぎをしてからにっこりと笑った。茜はありがとうねと言うのが精一杯だった。
ばいばいと、手を引かれながらこちらを振り返る女の子の顔は、女親とちがって一重まぶたでまゆげも太かった。男親の遺伝が濃いのだと見当のつく顔立ちは、とても女親の体から剥がれ落ちたのだとは思えない。茜は残されたハンカチをどうしてよいものか判断がつかず、折り畳んでテーブルに置いた。なかば女親に押しつけられたかたちのハンカチは、普段使いをするには水色のリボンがいくつも刺繍され、いささか子供じみている。女の子の声はやわらかく、けれどはきはきとしていた。茜は女の子にひたむきな瞳を向けられて涙が溢れたのではなかった。彼女がハンカチを差し出してくれたのは、たぶん共感でもなければ同情でもない。他人の感情のなかに飛びこむことで感情の追体験をするのは幼時にはよくあることだし、朝もやがかかった感情の名前だって知れる。そんな幼時の経験はもう十年以上昔の話なのだが、今更になって茜はただ闇雲に朝もやの湖畔をランタンも持たずにさまよい、はだしの足もとを朝露で濡らしていた。あの人によってつけられたあざは、チガヤやアザミなどの葉にさいなまれてできた切り傷なのだろう。女の子の瞳は手に持つランタンの灯りを映すようにきらめき、まっすぐだった。
茜はハンカチでツルを折った。親指の痛みをいとわずに折ったツルは、首や翼がぐったりと垂れてみじめだった。まるできたないアヒルの子供だ。折り直したところで、素材がハンカチである以上、アヒルの子供が立派なツルになるはずもない。にわかに興味がなくなって、茜は氷で嵩が増した水を飲み干してから席を立った。
ファミレスに立ち寄ってからどのくらい居続けていたのだろう、あの人の部屋を出てからまったく時間を気にしていなかった。打ち合わせをしていた背広組もとっくに大学生と思しき男性の二人組に代わっている。買い物帰りらしく、彼らの隣を見るからに重たげな紙袋が占有している。スポーツ刈りにしているのに清潔には見えない男と、脂ぎった黒髪が肩先まで伸びた男。そういう男は茜のクラスメイトにもいた。たいていは教室の隅で自分達の生息域を守るようにひっそりと生きている。長髪のほうの足が通路に出ていたので、横切るついでにかかとで踏みつけてやった。男は急いで足を引っこめるだけで苦情は言ってはこない。あの人も、散らかった部屋を無言で片づけているのだろうか。どうせなら引っ掻き回してから部屋を出ればよかった。会計を済ませて店を出ると、茜は悶々とした気分をすべて店に置いてきたかのように、階段をおりる足取りが軽くなっているのを感じた。いくらか西日が差しこんでいる。最後の三段を、両足を揃えていっきに飛び降りる。茜は歩道を見回してさっきの親子を探した。いるはずがなくても探してみずにはいられなかった。刺繍入りのハンカチは、不細工な折り鶴のままでかばんに放りこんでいた。
あの人から、お互いのためにしばらくは会わないようにしようと連絡がきたのは、その日の夜だった。風呂あがりで、茜は頭皮が叫ばないようにおそるおそるタオルで髪をぬぐっていた。脱衣所の洗濯機に一時的に置いていた携帯が震えた。彼からのラインだと直感でわかった。お互いのために、などといまだに体裁を整えようとするあの人に辟易としながら、自然とタオルを持つ手に力がこもり、呻いた。すぐにでも電話をしなかったが、案の定、ふんぎりはつかなかった。みんな、死んでしまえばいいのにと、茜はつぶやきかけた。あの人も、同級生も、両親も、自分とはまったく関わり合いのない人たちも、みんな。けれど、女の子のひたむきな瞳がたちまち思いだされて、茜は口を噤んだ。タオルがするすると二の腕を伝ってバスマットに落ちたが、拾う気にもなれなかった。脱衣所の床がしだいに薄暗くなっていく。白かったものが、視界のはしから黒く染まっていく具合だった。からだじゅうの痛みがすっかりしぼんでいる。意識だけが冴え冴えとしていた。なにか穏やかな空気に包まれながら、茜はありもしない光を求めて静謐をさまよっている気分だった。茜は立ち続けることができず、洗濯機のへりに片手をかけながらその場にへたりこめば、洗濯機の上から籐かごが落ちて、茜の肩をかすめた。関節をつないでいる糸がはさみで切り刻まれた感覚だった。コーヒーで汚れたブラウスやスカートが洗濯機のなかでかき回されている振動が指を伝って体に流れる。それでも、携帯電話だけはいつまでも左手から離さなかった。
二学期に入ってから、貧血を起こすことが多くなっていた。生理の間際だということは承知している。だが、それをあの人との喧嘩の理由にはしたくなかった。悪いのはすべて彼の優柔不断な態度なのだ。
真水のような血液が流れて、頭も顔もひんやりとしている。坪庭のほうでセミが、季節も時間帯もないがしろにして鳴いていた。草むらにすだく鈴虫の音色にかき消されそうになりながらたった一匹、懸命にわななくすがたが、まぶたの内側に浮かんでは消え、消えては浮かぶ。足が何本かもげたできそこないのすがたがいやがらせのようにいつまでも浮かんでいた。
携帯につながったスピーカーから騒々しい音楽が流れている。森野好美が勝手に流しているもので、仕切りたがる割には友人とだべってばかりでほとんど手が動いていない。文化祭を翌日に控えて、教室は放課後になってから一段とかまびすしい。机は数脚を残して廊下に運ばれ、リノリウムがあらわになった床にブルーシートが敷かれていた。立て看板用の段ボールを広げて絵を描いている生徒もいれば、椅子を置いて天井に装飾をぶらさげている生徒もいる。ほとんどの生徒が文化祭用のクラスTシャツを着ながら作業をしていた。美術部員によるデザインは普段着として使っても差し支えなく、クラスメイトの評判も上々だった。
部活の用事で出て行かなければならない生徒が入れ替わり立ち替わりで抜けていく。茜はどこの部活動にも所属していなかったから、クラスの手伝い以外に用事はなく、若菜と窓際に席を並べて、クッションカバーにアップリケを縫いつけていた。縫いつけていると時々親指の付け根が痛みだすので茜が眉をひそめるたび、若菜から心配された。階段を踏み外したと適当を言ってごまかしてはいたが、若菜は釈然としていない様子だったし、なにかあったら相談に乗るからねとも言ってくれる。年上の彼氏がいることは以前話したことがある。だから、もしかしたらうすうす感づいているのかもしれない。ひざやすねについたあざは黒のストッキングを履くことで隠してはいたが、普段使いしていないものを履いてくれば、勘繰られてしまうのもむりはなかった。ほんとうは一日欠席をしたかったのだが、文化祭の準備を何度か休んでいる手前、前日くらいは出なくてはと三時限目が始まる直前に登校した茜だった。一日休んだだけで、教室の内装は道化師のように装飾がほどこされていた。けれど、高校生が出せる知恵が豊かなわけもなく、気分転換に二年の教室を見回ってみれば、紙の切れ端で作った輪をいくつもつなげて天井に提げたり、暗幕に風船を貼りつけたりと似たり寄ったりの道化師が居並んでいるだけのはったりのパレードでしかなかった。急な不足があったとみえて、長財布をもった女子生徒が階段を駆けおりていく。龍のようなすがたをした長細い作りものが数人の生徒にもちあげられながら、彼女とすれ違う。目の焦点が合っていないので、どこか間の抜けた表情に見える。張り子の龍はちょっとした風で揺れ、その都度支えている生徒のバランスも崩れた。教室で作るには大きすぎて、きっと中庭であつらえていたのだろう。張り子は二階にあがりきると、茜のクラスとは反対の方向に曲がっていった。茜は、彼らがバランスを崩しかけるたびに頼りなくなる足取りに自分の足を踏まれぬように気をつけながら歩かねばならなかった。
茜のクラスの出し物はハンガーガーショップだった。だれが発案者だったかはおぼえていない。教室では、調理室でかたちを整えたハンバーガーをオーブンにかけて提供することになっていた。三個目のクッションにアップリケを縫いつけ終わり、足もとの袋に放りこむ。まだ縫いつけが済んでいないクッションはもうわずかになっていた。完成した立て看板が教室から出されていく。チョークで黒板に装飾文字を書いている女子の背中に触れてしまい、まだ乾ききっていないペンキが彼女のTシャツに移る。生地が黒いので、ペンキが移ったのはすぐにわかる。両手が塞がっているために身振り手振りをいっさいせずに謝りを言う美術部員の声は、言葉の意味とは反対に朗らかだ。ひざまで捲られた彼のスラックスも、そしてローファもペンキで彩られている。
「痛っ」
よそ見をしていたせいで親指の腹に針を突き刺した茜は、血がクッションにつかないように肘とひざとで挟みこみ、怪我をしていないほうの手でとっさにスカートのポケットをまさぐった。ティッシュを引き出し、玉になっているのに転がろうとしない血を染みこませる。若菜が縫いつけている手を止めて、茜のほうに身を乗りだした。「もう、茜ったら。どうせ考え事してたんでしょ。悩んでることがあるならわたしを頼って。なんでも相談に乗るからさ」
若菜の目は茜に心底共感をしようとしてくれる目だった。にもかかわらず茜は、まるで涙がこみあげはしなかった。作業に支障がないようにと絆創膏を傷口に巻く。なんの柄もない絆創膏で、いつだったったあの人に絆創膏を切らしたと言ったらくれたものだった。絆創膏に柄があしらわれていないのは物寂しかったが、使いきるまでは新しく買うつもりはなかった。
「ありがとう。でも私、生理前でちょっぴり寝不足ぎみなだけだから心配しないで。夜に
なるとぜんぜん寝つけなくって、仕方ないから読書をしたり、掃除をしたりするんだけど、それでも全然眠れなくって」
「そっか。辛かったら言ってよ。わたしが全部やるから」
「眠くってどうようしようもなくなったら、若菜に甘えることにするね」
茜の真横で椅子を引きずる音がする。振り向けば、木上がこちらに椅子の背もたれを見せながら持ちこんでいるところだった。
「なんの話をしてるんだい?」
木上は椅子にどっかりと座り、組んだ腕を背もたれに乗せてから、座り心地を調整するためにふたたび椅子を引きずった。今の今まで教室で見かけなかったから、きっと部活動のほうの作業が終わって戻ってきたのだろう。
「茜と内緒の話をしてるんだから入ってこないでよ」
「そんな邪険にすることないだろう。アップリケを貼るの手伝うからさ」
「あんたに針を持たせたところでろくすっぽ縫えないでしょ」
「穴に糸を通すくらいならできるよ」
「こんなやつは放っておいて、さっさと終わらせちゃおう」
「つれないなあ。せっかく、真野の好きなおかしをお土産にもってきたのに」
そう言って木上はレジ袋から取りだしたお菓子のパッケージをもちあげ、からからと振った。パンダの顔のかたちに型抜きされたチョコレート菓子だった。
「もう、そういうものがあるんならさっさと言ってよ。間が悪いんだから」
「うわっ、現金なヤツ」
木上が話の輪に入ってからは、茜はふたりの会話に相槌を打ったり、時折受け答えをづるくらいで、アップリケを縫いつける作業に集中することができた。完全下校の三十分前にはクッションでぱんぱんに膨らんだ袋を実行委員に手渡して、まだ作業が終わっていない班の手伝いに回ったが、気がつけば下校を促す放送がスピーカーから流れはじめていた。机のいくつかはブルーシートが取り払われた教室に戻されて、四脚を縦横につなぎ合わしたテーブルに変わった。テーブルクロスが敷かれ、それぞれの椅子には茜たちが飾りつけたクッションが置かれていく。男子たちが視聴覚室から借りてきた長机はハンバーガーの受け渡しをするためのカウンターで、ハンバーガーショップの店先を意識したデザインのとりつけられると、その前で自撮りをしはじめた好美たちにうながされて、茜や若菜も彼女たちの集合写真に加わった。内装が完成した高揚感は、これまで教室が溜めこんできた疲労や倦怠を取りこんで、なおいっそう、微熱を帯びている。
好美たちが企画したカラオケボックスでの前夜祭には、茜も参加した。ほんとうは、クラスのかまびすしさから一秒でも早く解放されたかった。それでも、自分がいない場所で心躍るできごとが起こっていたと考えれば居ても立ってもいられず、茜は、それで万が一にも楽しかったことがなかったのをわかっていながら、好美たちの群れについていった。もしかしたらという推定が、絶えず頭をぐるぐると回っている。裏切られることには慣れていた。茜は若菜の腕に自分の腕を回しながら、吉祥寺駅からカラオケ店までの道のりを歩いた。吉祥寺駅までは彼女の自転車の後ろに乗せてもらったのだった。カラオケボックスのソファに腰を落ち着ければ、木上がごく自然に茜のとなりにかばんを置いた。
「飲み物、なにがいい?」
「ありがとう。それじゃあミルクティにする」
「わたし、メロンソーダね」 と、若菜が言う。
「お前は自分でもってこいよ」
「なんでよ。茜ばっかりずるい!」
「やかましいなあ。冗談だよ、冗談。メロンソーダね」
「アイスもたっぷりいれてきてね」
「ほんと、かわいくねえ」
ぶつくさと言いながらも、木上はにこやかな顔で廊下を出ていく。好美がデンモクをいじりながら、誰から歌い始めようかあと友人と盛りあがっている。
茜は前夜祭にきたことを後悔しはじめていた。それでも、アイドルソングのイントロがスピーカーから流れて好美が立ちあがれば、茜は目を細めながら手拍子をとった。いつだったか、あの人とラブホテルに行く前に立ち寄ったカラオケ店で歌ったことがあった。たいしたことでもない恋愛の悩みをつらつらと述べるだけの歌詞をメロディに乗せて、いったいあの人にどのように見られることを望んでいたのだろうか。デンモクが回ってくる。
茜はなにも曲を入れず、木上にデンモクを渡した。
正円に整えた挽肉の塊を深型のトレイに敷きつめ、サランラップで蔽ってから冷蔵庫にいれる。保管した挽肉は文化祭が始まる直前に焼くらしい。調理班ではなかったが、茜も彼女たちの作業を手伝っている。一睡もできずに朝を迎え、教室で仮眠を取ろうと早めに家を出たのだが、一足先に登校していた調理班の生徒たちに手伝いを頼まれたのだった。安全面に配慮をして、卵も牛乳も使わずに岩塩だけを練り合わせている。挽肉をこねるのは中学以来だったが、トレイに敷きつめてみれば、だれよりもかたちが整っていた。冷蔵庫には食品を取り扱うクラスごとに使用できる区画が決められているため、トレイを数段重ねるとそれで満杯になってしまい、レタスやトマトをを切っていたクラスメイトたちのほうも早々に作業が終わった。教室に戻れば、若菜も木上も登校していた。茜の机にすでにかばんがかけられているのを見て、ふたりして珍しいこともあるものだと言い合っていたらしい。若菜から、早朝から調理班の手伝いだなんて雨でも降るんじゃないのとからかわれて、茜はなにひとつ言い返すことができなかった。
まったく仮眠がとれないまま、教室で点呼を受け、開会式がある体育館に向かった。クラスのなかでブラウスを着ているのは茜だけだ。大量に挽肉をこねたせいで、生肉の臭いが石鹸の効用をまぬがれて両手にこびりついたままだった。時折手の甲を嗅いでは一向に取れぬ臭いにげんなりさせられながら、一方では、押し寄せる眠気のおかげで、どうとでもなれという気分にもなっていた。和太鼓部のパフォーマンスを見終わって教室に戻ってくる頃には、かえって快活なくらいだった。茜と木上は午前中は接客班を任されていた。調理室から、完成したハンバーガーを並べたトレイが運ばれ、受け渡しカウンターの作業スペースに置かれていく。調理や商品の受け渡しができるのは事前に検便を済ませている生徒だけで、期限までにサンプルを提出しなかった少数の生徒は教室入口の受付で集金をし、ハンバーガーの引換券を手渡す係に回される。シフト表に目を通せば、昨日の準備にさえ参加していない生徒たちがほとんどだった。
文化祭が始まるとすぐに、ぽつぽつと客が訪れはじめた。それでも、ハンバーガーをオーブンに入れながら、木上とだべる程度の余裕はあった。
「そういえば、昨日はまっすぐ家に帰ったのかよ」
客から回収した引換券を洋菓子の空き缶に放りながら、木上が言った。前夜祭が終わったあと、好美が二次会をするというので茜もついていこうとしたのだが、木上や若菜から先に帰ると言われて、しかたなく参加しないことに決めた。それでも、ひとりきりになりたくはなかった。やっぱり参加すればよかったと、乗り換え先のホームに向かう道すがらにひとりごちれば、木上といっしょにいるのを思いだして、急いで取り繕おうとした。しかし、いったん吐きだした言葉は茜の意思をとまどわせ、電車に乗ってからも、もしかしたら自分のいない場所で……と、そればかりを考えていた。電車を降りるのは木上のほうが先だ。きっと、茜が素直に帰宅するようには思えなかったのだろう。けれど、あの人とのことをとりとめもなく考えているうちに、寄り道をすることも忘れ、茜は帰路に着いていた。楽しくもない前夜祭の騒ぎにつき合わされて、疲れきっていた。
「帰ったよ。木上から、寄り道に誘われたかったなあ」「ごめん。でも、あんな遅い時間に椎名を寄り道に誘えないよ」
「木上って優しいんだね。あの人、ううん、わたしの彼とは大違い」
「彼氏ってたしか、年上の人だったっけ」
「そう。でも、もう別れたようなものだから」
それまでまばらだった客がだんだんと列をなしはじめている。時間帯のせいか、同級生よりも外からの客が目立っていた。
「ねえ。今日、いっしょに文化祭を周ろうよ」
「もちろん、俺はかまわないけど。あとは真野の予定も聞いてみないとな」
「若菜とは明日も周れるし、ふたりで周ろうよ」
そう言って茜は、木上の袖をこっそりとひっぱった。だれでもいいから紛らわしてほしかった。あの人と体を重ねるようになる前はいったいどうやってひとりの時間を過ごしていただろうと思い返しながら枕を抱きしめているうちに夜が明けた。茜はずっと、ヘッドボードに寄りかかっていた。夢から醒めて、となりにあの人の寝姿がないのは堪えられなかった。その寂しさを木上がどれだけ紛らわしてくれるというのか、たかがしれている。それに、袖をひっぱってまでふたりで文化祭を周ろうなどと提案をすれば、彼に下心が沸き起こってもしかたがない。もっとも、わずかな時間であっても自分のために尽くしてくれるのならば、茜は彼の下心を受け入れるつもりでいた。それであの人になにか仕返しができるわけでもないのだが、茜の快活さは文化祭の微熱によって半身不随を起こしているのかもしれない。
それっきり、木上との会話は途切れがちになり、茜はオーブンで一度に温めた三、四個のハンバーガーを黙々と手渡した。オーブンが一台しかないので、別の生徒が使用している間は待っていなければならないのだが、ただ待っているだけの時間がもどかしく、けれど木上へのほほえましさのほうがまさっていた。
十二時過ぎには次のシフトの生徒に引き継ぎを済ませ、エプロンを脱いだ。正午を過ぎて、どの教室も混雑している。廊下の突き当りにある茜の教室から、二年の教室を老番順に周っていく。どの教室にも知人はいたが、木上に比べれば少ない。縁日を模した出し物をするクラスもあれば、プラネタリウムのクラスもあった。昨日、茜の足を踏みつけそうになりながら横切っていった龍の張り子は、焼売を提供するクラスの飾りで、頭やしっぽなどがそれぞれ、糸で天井に吊るされていた。接客をする生徒が、女子だけでなく男子までチャイナドレスを着ているのを、木上が笑いながら携帯で写真を撮っている。木上と文化祭を周ると決めたものの、いざふたりで周ってみれば、どのように振る舞ったらよいものか考えあぐねてしまい、彼の背中との間には微妙な距離ができていた。木上とつき合っていると周囲に誤解されることにはいまだ抵抗があった。それが手前勝手な振る舞いであるとわかってはいても、茜はその微妙な距離を縮めようとはしなかった。木上が注文した八個入りの焼売をつつきながら、今年の飲食部門はどこが優秀賞を獲得するのだろうかなどと雑談をし合った。同じ値段ならばハンバーガーに票が集まるに決まってると、木上が大まじめに言うのでおかしくなった。
二学年の教室を周ってしまえば、あとはパンフレットを片手に、いくつかひやかしに行くだけだった。どれだけ校舎を飾り立てようと、飾りの切れ間からは真顔の面差しが覗いている。みんな、文化祭を楽しんでいる高校生を演じているにすぎない。パンフレットに掲載された各クラスの絵入りの宣伝を眺めていても、興味を惹かれるものはなにもなく、とりあえず中庭に出て、吹奏楽部が演奏を聴いた。十四時前にはまたシフトに戻らなければならなかったが、それも億劫だった。中抜けをしようと木上にささやいたのは、半分は本音で、しかしそれを木上が真に受けるとも思っていなかった。四方を校舎で囲まれた青空に、くらげの大群のような雲が浮かんでいる。長袖ではまだ汗ばむ陽気だが、秋はもうすぐ近くにきている。
「静まり返った教室ってすてきだと思わない?」
文化祭の一日目が終わり、学校に残っている生徒達はみな、中夜祭に参加していた。軽音部やら有志の劇団やらが体育館で発表をしている。若菜から、茜たちも行くでしょと誘われたが、用事があると言って断り、木上と教室に残っていた。昼間はにぎやかだったものが跡形もなくなっている。けれど、テーブルや黒板に触れれば、なかに閉じこめられた喧噪が肌越しに伝わってくる。外はまだ、昼の明るさを保っていた。その明るさを昼間と言うのか、それとも夕方と言うのかで、その人の性格がわかるのかもしれない。茜はすでに帰り支度を済ませていた。
「俺はわいわいしてるほうが好きだな」
「疲れない?」
「そんなこと、思ったこともないよ。椎名は疲れるんだ」
「息が詰まってくるの。人がいるってことはそれだけ古い空気が滞ってるってことでしょ。
新しい空気ばかりだと、それはそれで胸やけもするけどね」
「俺といても息が詰まる?」
「ううん、だいじょうぶ。静かなだけもイヤだから」
「そっか。なら、よかった」
「ねえ、木上。わたしのこと、面倒くさいって思うでしょ」
「そんなことねえよ」
「これでも?」
茜はブラウスの袖を捲った。黄色みがかったあざ。薄紫色のあざ。みみずばれの跡。二カ月ほどの間に無数の傷が生まれては消え、消えては生まれた。突然生傷を見せられて、木上は一瞬後ずさったが、すぐに腕を掴んできた。握力の調節さえ忘れていた。茜は反射的にひっこめ、掴まれた部分をさすった。
「なんだよそれ」
「すごいでしょ。全部ね、あの人につけられたんだ」
「なあ、俺をそいつのところに連れてってくれよ。文句を言ってやるから」
「そんなことしないで。わたしが彼にきずをつけさせたんだから」
「意味わかんねえよ」
「そんなの、わたしだって……」
どうして木上に打ち明ける気分になったのだろう。茜は自分のしていることがなにひとつわからないまま、壁に背中をつけて、その場にへたりこんだ。全身にちからが入らなくなっている。
遠くでからすが鳴いている。なぜか茜は、頭のなかで七つの子を口ずさんでいた。かわいかわいとからすはなくの。かわいかわいとなくんだよ。涙は出なかった。母親からの愛情などとうの昔に諦めている。それでも、どれだけ木上が自分に好意を寄せていようといつかは置きざりにされてしまうのだと結論づいてしまうことが寂しかった。由佳子さんだって同じだ。無償の愛をくれるはずの母親からさえ、愛情を与えられなかったのだから。
「しないの?」「なにをだよ」
「わたし、こんなに隙だらけなんだよ」
木上はなにも言い返しはしなかった。ただ、生気のない眼差しで茜を見おろしていた。茜もまた口を半開きにするだけでそれ以上の接ぎ穂を失っていた。上目遣いのまま、彼が顔を近づけてくるのを希望の一切もなく待っていた。あと十分もすれば、中夜祭がはけるであろう。そうすれば、帰り支度のために生徒が押し寄せてくる。木上が立膝をつく。彼の瞳は蛍光灯が消された教室のなかでなにも映しだしていないように見える。茜はまぶたを閉じた。彼の吐息が徐々に近づいているのがわかる。茜の鼓膜が心臓の代わりに弁を打っている。吐息で、前髪が揺すぶられる。ヘアアイロンでていねいに巻き、そして固めた前髪だった。
「やっぱりイヤ」
茜は目を見開き、木上の胸をぽんとついた。態勢を崩した木上がしりもちをつく。身動きひとつとらなかった。とることができなかったのかもしれない。
「ごめん」
「なんで木上が謝るの? わたし、謝られることなんてひとつもしてない」
「ごめん」
「わたし、やっぱりあの人じゃないとダメなんだ。あの人の子供じゃないと」
廊下で連れ立った足音が聞こえる。階段を昇っている音だ。廊下中に反響するざわめきは鈍器に似ている。茜は急いで立ち上がると、かばんをひったくって教室を飛び出した。階段ですれ違ったのは好美たちだった。好美になにか話しかけらたようだったが、無視をして駆けおりた。教室にひとり残った木上のすがたを見たら、きっと誤解をするにちがいない。茜は足をもつれさせながら、どうにか正門までたどり着いた。西洋風の城をかたどった、立派な作り物で装飾されている。行き交う人が皆、茜を不審がっているのに気づいて我に返れば、ブラウスの袖が捲れたままになっていた。それでも、走りながら袖を直そうなどという考えは浮かばなかった。夏服のスカートは生地が薄いために、坂道を走っていると汗が染みこみ、足にまとわりついて離れなくなる。肌着もブラウスも、肌にはりついている。血のぬくもりのような温かさが全身をたゆっていた。
呼び鈴を鳴らそうとする人差し指が、焦点の合わない瞳のように行き場を失っている。駒込の事務所にはほとんど本能的に辿り着いていた。オートロックのないマンションだから、部屋の前まで行くのはたやすい。けれど、いつまでも呼び鈴を押すことができないでいた。もちろん、あの人が自宅にいる可能性も十分にある。扉に耳をあてがってみても、防音に作られているせいで、彼が部屋で音楽を流しているかどうか判別することができなかった。それでも茜は、あの人が扉の向こう側にいると確信をしていた。呼び鈴を鳴らして、彼の声が聞きたかった。帰れと怒鳴られてもよかった。にもかかわらず、人差し指はまるで前に進みはしなかった。ドアにもたれかかる。転落防止用の格子から西日が差しこんでいる。
相変わらず、七つの子のメロディが頭のなかを満たしていた。もしもあの人の子供を宿すことができたなら、膨らんだ下腹を撫でながら、いったいどんな子守唄を語りかけているのだろう。かつて保育園で習い覚えた歌を手あたり次第に思いだしてみる。だが、いわゆる子守唄と名のついた曲はなにひとつ知らなかった。やっぱり、七つの子を語り聞かせてやるのがいいのかもしれない。
茜はもう、呼び鈴を押す気力をすっかり失っていた。それでいて、立ち去りたくもなかった。背広を着た男性がこちらに向かってくるのが視界に端に見えた。レジ袋を右手に提げている。男性は茜を一瞥しただけで通り過ぎていった。関わり合って、万が一トラブルに巻きこまれるのを避けたいにちがいない。茜は体育座りをしているひざに顔をうずめた。
眠気が急激に押し寄せていた。思えば、昨日は一睡もしていないのだ。ざらざとしたコンクリートの感触に臀部を押しつけていてさえ、眠気を抑えられそうになかった。
エレベーターの扉が開く音がして意識を取り戻すまでの間、いったいどれだけの時間があったのだろう。数分程度なのか、それとも一時間以上経っているのか。それにいつ、意識が途切れたのかもさだかではない。しかし、まぶたを開けて景色を確かめるのも面倒臭く、耳だけをそばたててみれば、地虫が鳴いているので日が暮れているのだけでは想像ができた。近づいてくるのは、サンダルのソールがコンクリートをかつかつと叩く音だった。
女性のゆったりとした足音だった。てっきり通り過ぎていくと思っていたのに、足音は茜の真横で止まった。
「茜ちゃん?」
聞き覚えのある、安らいだ声がする。振り向けば、由佳子さんが立っていた。肩掛けに、麦わら帽子がたたんでしまわれている。数日前に授業で会っているのに、久しぶりに再会したかのように思えた。由佳子さんのお腹にはあの人との子供が宿っている。うらやましくはなかった。けれど、彼女の下腹をずたずたに切り裂いて、胎児を取りだしてしまいたかった。あの人は、由佳子さんに似つかわしくない。そんな子供を、由佳子さんの寄る辺にはさせたくなかった。
茜はスカートについた埃を払いながら、由佳子さんに視線を合わせた。ずっと見あげてきた視線が今では同じ高さにある。昔は毎日のように遊んでいた。あの頃の混じりけのない甲高さで、由佳子おねえちゃんと呼べたら、どんなにしあわせでいられるだろう。しかし、言葉はなにひとつ出てはこなかった。話したことはたくさんあるのに、どれかひとつを手にかけた途端、すべては砂になって崩れていく。一部の言葉は話す前から砂となって、茜の声帯にこびりついている。茜がいつまでも黙っているので、由佳子さんは部屋のかぎを握ったまま、なにか話しかけなければという目で茜を見ていた。茜は声帯の砂をむりやり肺に流しこみ、怯えを押さえつけた。昔にはもう戻れないとしても、言葉を紡がなければならない。じゃりじゃりとした雑音をはりつけながら、言葉を紡ぐ。地虫の鳴く声がさっきまでよりもずっと大きくなっている。