すれ違った罪
恐る恐る扉を開けるとそこには黒色のロングヘアに、透明で色白い肌。垂れ目で落ち着いた雰囲気のある20代くらいの女性がうつむいて立っていた。
一体こんなところへ何の用なのだろうか。見たところ本庁の職員でもなさそうだ。
「誰ですか?」
そう尋ねると、女性はうつむいていた顔を上げて俺の腐った細い目を見た。
「佐藤 紬と申します」
女性はそう申すと、深々と頭を下げてこう述べた。
「どうかお願いです。私の…私の弟を助けてください」
11月20日。本格的な寒さが東京を襲うなか、とある事件が〝一人課〟の扉をノックした。
・・・
三年前に八王子で発生した一軒家連続放火殺人事件。負傷者は4人、死者は5人と死亡者数が負傷者数を上回るという悲惨な事件であった。
事件当時、まだ西原宿警察署の刑事課で勤務をしていたころ、自分含む捜査員一同はこの報道に目を向けていた。このとき、犯人が一刻も早く捕まることをそこにいた誰もが願っていたであろう。
しかし、捜査開始から一年が経過しても、犯人が捕まることはなかった。
そうなるといつかうちの管轄にも応援要請がくるかと思っていたが、そんな話は一度もなく、事件の存在はそのまま世間から薄れていった。
だが、現在から一ヶ月前の10月。事件から二年がたとうとしていた時だった。一軒家連続放火殺人事件の犯人が捜査一課の手によって捕まえられたのだ。そしてその連続放火殺人の犯人こそ——
「——佐藤 樹私の弟です」
目の前に座る女性は憂いのある表情でそう語った。
「事件のあった日、弟は家にいました。私は家を出る前に、弟に今日は予定があるのかと聞いたら、今日は家でゆっくりしたいと、そう言っていました」
「つまりあなたが言いたいのは……」
「はい。弟は無実なんです」
彼女の願いはただ一つ。放火殺人犯である弟の無実を証明して欲しい。ただそれだけであった。ただそれだけなのに、それだけでは済まされない話を淡々と口にした彼女に、思わず気がめいった。
「その日、あなたは何をしていたんですか?」
「仕事です」
すると紬は下を向いた。
「昔、海難事故で両親を亡くしたんです。当時、弟はまだ中学生で私は高校生でした」
そう言って彼女が見ていたものは家族写真が映し出されたスマホの待ち受け画面だった。
「父と母はとても仲が良く、ある日突然、新婚旅行へ行くと言い出し、張り切った様子で二人は日本を飛び立ちました。でも……」
悲しげに話していた紬はついに瞳に涙を浮かばせた。
その姿が目に入った途端、急いでポケットの中に手を突っ込むが、ハンカチはなかったことに気づく。
そんな情けない仙崎をよそに、紬は話を続けた。
「ある日、警察から電話がかかってきました。旅行先のドバイの海で、両親が乗っていた観光船が沈没し、父と母は亡くなったと。そう連絡を受けました」
「……」
思考を巡らせても言う言葉が見つからず、思わず口をつぐんだ。
「それから弟は私が面倒を見てきました。弟にはいろいろ我慢させてしまったこともたくさんあります。それでも、あの子は何一つ文句を言わずに一緒に過ごしてきてくれました。だからあの子が放火なんて起こすはずないんです!」
「そうですか……」
そんな紬の涙の強い訴えを耳にした自分が出した答えは——
「でも、証拠はあるんですか?」
「え…?」
それはクズと言われても仕方のない言葉だった。
しかし、その真偽は確かめればならないものなのだ。
「弟が犯行現場にいなかったというアリバイの証拠です。証拠が、いや…根拠がなければこちらも不用意に動くことはできません。正直、あなたのその話が本当か嘘かもわかりま———」
「警察は!…いつもいつも証拠証拠と言いますが、本当に証拠がないといけないのですか?個人的で一方的な感情じゃ、誰も…何も信用してもらえないんですか?!」
それは彼女の我慢した感情、優しさの裏に張り付けていた本音だともいえる言葉だった。
「あなたが最後の希望だったのに……」
「最後の希望…?」
「ここに来る前…捜査一課の方にも訪れました。しかし、誰も証拠と証拠とまともには取り合ってくれなかった。その代わりここに話を聞いてくれる人がいるということを教えてくれました。だからここに来たんです」
「それは一体…誰ですか?」
「確か苗字は…磯貝だったような…」
磯貝ってまさか…
「その人は刑事部長でしたか?」
「はい」
「…!」
刑事部長、磯貝和義。俺を一人課に送り込んだ張本人である。
・・・
女性が帰ったあと、仮眠室へと登ると、布団で仰向けになって天井にある電気をぼーっと眺めた。
どうしてあのとき、証拠はありますかなんて聞いてしまったのか。どうせやることなんてないのに、それくらいやったっていい。なのになぜ……?
いや、めんどくさかったんだ。この何もしないという裕福な時間が消えてしまうのが、どうしても惜しかった。
…今日はもう寝よう。
聞かなかったことにすればいい。
見なかったことにすればいい。
そうしてまた朝を迎えて、適当に昼を食って、午後は退勤時間まで動画見て、家に帰って、また朝を迎えて出勤して動画見て…定年退職するまでそうすればいい。
もうなにもやりたくない。俺じゃなくとも、他をかあたれば多分解決してくれるだろう。
「…」
なぜ眠れない?どうして考えることをやめないのか?
佐藤樹が気がかりだからか?
なぜ心配する?
今まで通り見て見ぬ振りをすればいいだけじゃないか。
もう犯人を追いかけるために走りたくない。考えたくない。それでも…
気づいたら身体は起き上がり、パソコンの前に座っていた。
一ヶ月後に、佐藤樹の裁判が始まる。おそらくこのままいけば死刑になる。だから働く。
ここに来てから一度も押したことのない電源ボタンを押し、パソコンを立ち上げる。たが、帰る
時刻はすでに定時の19痔を回っていたが、日をまたいでもパソコンとにらめっこを続けた。
×××