402
ーこつん、と音がする。
冷たい床の上にビー玉を落としたような、音。
外ではなく、部屋の中から。
「いやいやいや…」
教科書に目を通していた頭を上げる。その出本を探すやように耳を澄ますが、早くなった胸の鼓動が聞こえそうなほど静まり返っていた。
なんとなく怖くなって、テレビをつける。夜23時、番組と番組の隙間を埋めるように天気予報が流れていた。
部屋には自分しかいない。大学進学を機にふるさとを離れて一人暮らしを始めていた。
まだ学生の身分なのに身の程を知らずに借りた、4階建て新築のアパートだった。
だから何か霊がいるとか、そういうのはありえなかった。
「勘違いか…」
一人暮らしは独り言が多くなるなと思いながら、授業の予習を再開した。
◇
「そういうの、私もある〜!他の人の生活音らしいけどびっくりしちゃうよね。一人暮らしあるあるぽいよ〜?」
翌日、昨夜の話をなんでもない風を装いつつ、さっそく話した。
ある授業のグループワークで仲良くなった未来はあっけらかんとそう言った。
あまりにもあっさりとそう返されたものだから、拍子抜けした。
ありがたいことに、肩の力がすとんと抜けた。
たぶん慣れない大学生活と一人暮らしに、知らず知らずに気を張っていたのだろう。
「そ、そっかあ、あるあるなんだ!」
「うん、1人だといろんな音が気になるよね!」
「そうそうそう!そうなの。ちょっと気になってたから話してみて良かったあ…」
「亜紀ちゃん真面目で抱え込んじゃいそうな感じするし、私でよかったら気軽に話して」
「未来ちゃん…ありがとう…」
感激しながらそう告げる。大学入学してから、高校とは段違いに難しい授業に、クラスのない慣れない友達作りに、入りそびれたサークルに、何から何までずっと気を張っていた。
その糸がやっと緩められそうな、ありがたい優しさだった。
「そんなに感激しなくても当たり前だよ…」
未来は少し困ったように笑っていた。ごめんごめん、とグループワークを再開する。
その日家に帰ると、昨夜の音は発生しなかった。
それから数日間は気にしていたが、もう鳴らないと分かると段々と忘れてしまった。
◇
夏が来た。
「ん…」
背中が痛い。ガチガチする。
「え…いまなんじ…どこ…」
眩しくて目が痛い。
少しして、そうだ、と思い出す。
昨夜遅くに帰って来て、着替えも出来ずに部屋の真ん中で力尽きたのだった。
「ん〜…体がバキバキする…」
亜紀は春の終わり頃、一つのサークルに入った。
派手な花形とされるサークルを避けて選んだのは生花サークルで、少し地味かもしれないと思ったが少人数のメンバーでのほほんとやっているので居心地がいい。
しかしやはり大学生というべきか、飲み会となると様子は変わった。
大学の人間関係の話や単位の取り方から始まり、夜も更けてくると恋愛の話に及んだ。それも段々とディープになる。
普段の清楚な先輩の意外な面を知ったり、とっつきにくいと思った人との接点を見つけたり、お酒が飲めなくてもとても楽しかった。
「うう…今日が休みでよかったあ…」
寝不足で頭からズキズキする。
今からでも布団の上で寝直したい。けれど動くのが億劫で。
スマートフォンを探す。電源が切れている。
「だるい…動けない…」
でも最高に大学生っぽい、気がする。この自堕落さ。
「はああ…私も彼氏欲しいな…」
先輩たちはみんな彼氏がいて、同じく今年入った女の子2人はまだ居ないらしい。
「バイトかな…」
窓から入ってくる強い日差しを避けるように体を横にした。耳が床に押しつけられてひんやりする。
今年のクリスマスは、彼氏と過ごしたいな。
だらだらしながらぼんやりするのは悪くない。そう思った時、「!?」
バタバタバタバタッ
バタバタバタバタッ
一瞬で、総毛立った。
「……」
音がした。小さな歩幅。走っている。下から聞こえてくる。
ごくん、と唾を飲む。心臓がバクバクしている。
「いや……」
バタバタバタバタッ
バタバタバタバタッ バタバタバタバタッ
走っている。
おかしい。このアパートは基本的に単身者向けで、下の部屋も11畳のワンルームだった。
スマートフォンに手を伸ばす。真っ暗な画面。急いで立ち上がって充電ケーブルにさす。
そしてもう一度、今度は冴えた頭で、耳を床につけた。手が震える。鳥肌が立っている。
もう、何も聞こえなかった。
人の声はよく響く。下の人が良く友達を集めて宅飲みをしているのを知っている。聞こえてくる生活音からして、大学生だと思っていた。子供の声なんて一度もなかった。
「気のせい…?」
そう言いつつも、悪寒が止まらない。
ようやく明かりのついたスマートフォンを奪い取るように手に取って、震える手で親の連絡先を探し出した。
◇
「亜紀ちゃんシフトたくさん入ってくれるから助かるよ〜」
家の近くで見つけた飲食店のアルバイト。稀にある客のいない時間。いつも陽気で調子のいい店長がそういうと、亜紀は喜ぶでも嫌がるでもなく、曖昧な顔をしてみせた。
「なに、どうしたの?おじさんでよかったら聞くよ」
「いや店長まだ32歳ですよね、おじさんじゃないですよ〜」
「もう体力もないしすぐ疲れるし、おじさんだよ……で、どうしたの?もしかしてやめたい?」
「何の話?亜紀ちゃん辞めちゃうの?」
同じくアルバイトの広人も寄ってくる。
「いやいや、辞めないですよ!ここ気に入ってるんですから、これからも働かせてください」
「じゃあテスト期間でシフト入れなくなるとか?」
「日頃から勉強してるので大丈夫です」
「じゃあどうしてあんな複雑な顔したの?」
踏み込むなあ〜と思ったが、男2人の顔を見ると、そこにはただ心配する優しさがあるだけだった。
「なんかうち、変なんです」
「変って?」広人が言う。
「私以外居ない部屋の中で変な物音がしたり、狭いワンルームなのに子供の走る音がしたり、よくわらないしうまく説明できないんですけど、変な感じがするんです。だからシフト多めに入れて、あまり家に居ないようにしてて…」
店長と広人は顔を見合わせた。
「失礼だったらごめんね、生活音とかではなく?」
「亜紀ちゃんちの下、実は子供いるとか?」
亜紀はかぶりを振った。
「生活音のことはともかく、子供については私の親が管理会社に聞いてくれて、居ないってわかってるんです。
毎日のように集まって騒いでいるので同じ大学生だと思います…」
「そっか…」
「私があまりにも怖がるからこの間親が来くれたんですけど、何の音もしないよって…」
「そうだったんだ」
「慣れない一人暮らしで神経質になってるんだよって言われて、まあそうかもしれないです。だけどあまり家にいない方が気楽なので…だからこれからもたくさん入れてくださいね!」
亜紀が無理やり話をまとめて明るく振る舞うと、優しい男性2人は少し困ったような顔をした。
「もうできそうなことはやってもらってるんだね。うちとしては急な穴埋めでも来てくれる亜紀ちゃんに感謝してるし、変な言い方だけど、いつでも働いてって」
「はい」
話が区切れたのを待っていたかのように来客を知らせるベルが鳴った。
◇ ◇ ◇
「亜紀ちゃん」
アルバイトが終わっていざ帰ろうとしていた亜紀は振り返る。
「広人くん?」
「あのさ、さっきの話、嫌じゃなければ怖い時呼んでくれたらすぐ行くから」
幽霊とか出ても何も出来ないかもしれないけど、と付け加えて照れ臭そうに頭をかいている。
「うん…ありがとう」
「そんなことがあったならさ、ちょっと参ってるでしょ。俺もちょっと息抜きしたかったし、映画とかさ、行こうよ今度」
「うん」
「見たい映画ある?途中まで一緒に帰ろう」
「うん。映画見るの久しぶりかも」
その日部屋に帰ると、至って普通のワンルームがそこにあった。
「なんだ、気持ちの問題だったんだ」
上機嫌な亜紀は鼻歌まじりに映画の後に行けそうなカフェを調べて過ごした。
◇
夏が終わって、秋。
「はあ…美味しかった」
「美味しかったね」
亜紀の住むアパートの近くにあるお好み焼きの店を出ると、広人と顔を合わせて笑い合う。2人はあれから交際を始めていた。
「うちくる?」
「うん」
自然と手を繋ぐ。アパートはお好み焼きの店を出て一本細い道を通ると3分ほどですぐに着く。
「え、どうしたの」
道の途中で広人は亜紀が息を止めて固くなっているのに気づいた。顔もどこか青白くなっている。
亜紀は返事をしない。広人のことを見もしないで、早くアパートに向かおうと強く引っ張った。
「どうした?」
亜紀が返事をしたのは家の中に入ってからだった。狭い玄関に2人はぎゅうぎゅうで顔を寄せあうことになる。
「ーー今のおじさん、直立不当でちょっと不気味だったよね?」
震えた様子で話しだす。
「おじさん?見てないよ」
広人には何のことか検討がつかなかった。この2、3分にも満たない時間にすれ違った人は誰も居なかったからだ。
「え?いたよ、お好み焼き屋さん出てすぐのアパートの前に立ってた。あんなに存在感あったのに?」
亜紀は涙目になって広人の胸を叩いた。
「そんな責めないで」
「だって」
「戻って見てきてあげようか?」
広人の提案に少し迷うも、
「……うん、お願い」
「じゃあちょっと待っててね」
広人は亜紀を落ち着かせるように優しくいった。なだめるように頭を撫でて、来た道を戻って行った。
「ごめん、じっくり見て歩いて見たけど誰もいなかった・・・」
広人はしばらくして、申し訳ないという風に戻ってきた。
「ありがとう・・・。あのさ、わたし変なこと言ってると思うよね」
「思わないよ。そのおじさん、どっか行ったのかもよ。俺も気づいてあげれたら良かったんだけど」
亜紀はそんな広人の優しさに、おかしなことを言って困らせる自分を責めたくなった。
「わたし疲れてるのかも。ううん、疲れているんだと思う。ごめん、今日は帰ってもらっても良い?」
亜紀は自分の情けなさに泣きそうになった。
「俺ぜんぜん側にいるよ。亜紀ちゃんがそれだと気を使うってことなら今日は帰るけど・・・」
広人は対応を決めかねた。そばにいた方がいいのか、それとも本心で帰って欲しいと言っているのか。
「うん。ありがとう。今までもわたしの勘違いだったし、今日もそう。疲れてる時は寝ることにしてるんだ!ごめん!」
少しの間沈黙した広人は、それでもまだ迷ったように、
「分かった。帰る。何かあったら呼んでくれたらすぐ来るからね。でもしっかり休んでね」
「ありがとう。わがまま言ってほんとごめん。またデートしようね」
「大丈夫だよ。またね」
亜紀をぎゅっと抱きしめて、ためらいながらも広人は帰った。
「・・・・生理前で情緒不安定なだけなのかも。うん、寝よう」
亜紀はメイクを落として服を着替えると、すぐに横になった。やはり疲れていたのか、すぐに意識がなくなった。
◇
翌朝
ピーーピーーピーー
「んん・・・・」
ピーーピーーピーー
インターホンが鳴っている。
「・・・え、何時・・・・」
鳴り続けている。時計を見るとまだ5時だった。
重だるい体を引きずってインターホンに向かう。こんな時間に来客?
「え?」
画面をうんと凝視する。
「・・・・広人君?」
そこには昨日帰ってもらった広人がいた。
「え。なんで?」
まだ秋なのに、冬物のコートを着込んで、マフラーをつけている。この時期誰もこんな服装はしていない。
それに、今まで連絡なしに来ることはなかったし、ましてやこんな早朝に訪ねて来ることはあるのだろうか。
急激に肝が冷えていく。
「いや、まさかね・・・」
どうしても応じることができずに迷っていると、ようやくインターホンは静かになった。
怖くて扉の外を確認できなかった。
よろよろと布団に戻る。とりあえず連絡を送っておくっておくことにする。
"ごめん、今日は1人になりたくて"
返事はすぐに来た。
"りょうかい"
うん、これでいいね。亜紀はお守りで買っておいた眠剤を飲んでもう一度眠ることにした。
広人君は分かってくれる。
◇
幸いにも会う機会はすぐにあった。
「昨日ごめんね。調子悪くて寝てたんだ。出れなくてごめんね」
「ん? そっとしたほうがいいと思ってあのメッセージ以外何も送ってないよ」
「え?」
「え?」
「……うちに来てくれたよね?」
「ん?行ってないよ。俺昨日は友達と遊んでたし」
「や、そんな冗談怖いよ」
「いやほんとだよ。友達とのやりとり見せてもいいよ」
「いや、来たよ・・・紺色のコート着てた・・・着てたよね??」
「俺紺色のコート持ってない・・かな・・」
「朝5時に来たよね?」
「5時? いや心配だったけどさ・・・流石に常識を考えて行くよ」
「出なかったわたしも悪いとは思ったけど、変だったし・・・・でもあれは広人君じゃないの?」
「違うよ、ごめん」
「・・嘘だぁ・・・もう無理・・・」
亜紀は泣き崩れた。もうこれ以上は平然としているのは無理だった。
「広人君、どうしよう・・・帰りたくないあんな気持ち悪い場所!!!!」
「うん、そうだね亜紀ちゃん・・・」
「もうどうしたら・・・・!!!!」
「あのさ、ずっと考えてたんだけど。引っ越して一緒に暮らそう。お父さんたちのところにも一緒に行くよ。もう放って置けないよ」
亜紀は泣き続けた。
「泣いていいよ。落ち着いたら話そう、ね」
広人は困った顔をしながらも、それでも亜紀の背中をさすり続けた。
◇
「ふう…終わった」
引っ越し業者のトラックが去っていく。その姿が全く見えなくなった頃、肩の荷が降りたように、力が抜けていくのを亜紀は感じた。
「やれやれ、引っ越しは大変だね」
「広人くん、重いものやってくれたもんね。ありがとう」
「いえいえ余裕ですよ」
そう口ではいいつつも満更ではなさそうだ。
「今日は引っ越しそばかなあ」
「今日は引っ越しそばでしょう」
2人は微笑みあって部屋に入っていく。
そうして引っ越しが済んで荷解きも終わりが見えた頃、ようやく精神的な余裕も戻り始めると、再び疑問が湧き上がる。
あの402号室に住んでから経験したことは、なんだったのか。
自分の周りに霊感のある人はいない。
ネットで有名な事故物件サイトを探してみるが、該当がない。
周辺に広げても何の事件もヒットしなかった。
前の入居者のいない、新築のアパート、402号室。
「亜紀、ご飯できたよ」
「ありがとうー!」
ーこつん、と音がする。