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やめよう。
この頃モリーナは陛下からの手紙を見るたび、嬉しく思うと共に、少し重圧めいたものも感じてしまっていた。
その理由も検討がつくけれど、手紙がくるたびにぐるぐるとそれが頭の中を回り続けるのだ。
陛下が求めているのは、聖女モリーナだ。平民のモリーナは、モリーナという名前であっても彼の求めるモリーナではない。
モリーナは頭に浮かぶ暗い考えを振り払うように、木戸についたクモの巣を払い除けると、目につく埃をボロ切れで拭った。
ブワッと舞い上がる埃を吸い込んでしまったようで、服の袖で口許を押さえて涙ながらに咳き込むと、入り口の木戸から村長が顔を出した。
「モリーナ、大丈夫か?」
「だいじょ……ぶ……ゲホッ。」
「頼んだ掃除はゆっくりでいいんだ。無理しないように。」
村長はそう言うと服の裾で口許を押さえながら室内に入り、腰帯に吊るしていた鍵束をとると、先ほどモリーナがクモの巣を払った裏木戸の鍵を外して扉を開け放った。
空気が通り、そのまま村長は咳き込むモリーナの背を押すと、建物の中から彼女を出した。
外の風が埃を吹き流し、いくぶん呼吸が楽になったように思う。
村長は直接城からの手紙がモリーナに届くと怪しまれる為、使っていない倉庫の掃除の手伝いを頼む名目でモリーナを呼び出し、仲介して手紙を渡していた。
村長は何も聞かない。
けれど、文字の勉強をしていないはずのモリーナに手紙が届き、それに返事をしたためているモリーナの存在が不思議で仕方がないはずだ。
しかも相手は王室。
その上、以前以上に頻繁に手紙を持ってくる使者が村長の元を訪れている。
今に怪しむ村人が出てきても不思議ではない。
考えられるとすれば、何も聞かずにモリーナに手紙を渡すように、お金を握らされでもしているのかもしれない。
そこまでする必要があるほど、ただの片田舎の村娘モリーナに王室から手紙が来るなど、ありえないことだ。
陛下が元聖女モリーナを見つけ、モリーナがそれを認めた時点で、その意図はなかったとはいえ、モリーナが村で平穏に暮らすという選択肢は消えていた。
ただ村を出るという選択も、今は難しかった。まだモリーナは10歳で、通常、若者が働き始めるのは15歳。早くて13歳。
8歳の時に亡くなった両親の代わりに育ててくれた祖母と2人暮らしで、祖母を置いていくわけにはいかない。
そうだ、今は無理だ。
目の前で差し出されたとしても、今はその選択肢を選ぶ時期ではない。
たとえモリーナがかつては聖女モリーナであったとしても、今はただの村娘モリーナ。
身分の差が大きくのし掛かっていた。
それでも、また聖女に戻りたいなんてことは、ほんの少しも思わなかった。
陛下にとってモリーナを王城に誘うのは、まるで散歩に誘うような軽い気持ちなのだろうけれど、城からの招待は、たった10歳の村娘に対しては重すぎた。
それからもモリーナと陛下の文通は続いた。
モリーナは城への招待の返事は待ってもらってきた。
相変わらず、村長は何も言わない。
ただ村長は目が合うと何か言いたげに口を開くが、黙っているように言われた時に渡される金額が金額な為か、もごもごと口を動かしたかと思えば黙りこみ、代わりに貰い物だといって王都のお菓子をくれた。
お金をもらっているのは明らかで、手紙を村長から渡されるにつれて、村の農具が新しくなり、井戸が整備され、村民の生活が向上している。
他の村からすれば、特に特産品があるわけでもないのに明らかに豊かになる村は不審に思われてしまう。
陛下と会って、3年。モリーナは13歳。
そろそろ潮時だった。
「おばあちゃん、王都に働きに出ようと思うの。」
「そうか。モリーナもそろそろ働き口を見つけないと行けないものね。」
恐らく、祖母もモリーナが王宮と繋がりがあることに気づいている。村長から何か聞いているのかもしれない。
そうでなければ、ただの片田舎の村娘が、何のツテもなしに王都に行って働き口を見つけられるわけなどないから止めるはずだ。
この村の娘は、村の男と結婚して家庭を持ち、農工をして生活するのが普通だ。
聖女候補とされた娘を除いて。
「村を出るための支度をしないといけないから、すぐじゃないけどね。あ、水がそろそろなくなるから、井戸で水を汲んでくる。」
なんとなく後ろめたくて、それ以上何か聞かれる前に、モリーナは家を出た。
まだ、なぜ王室と繋がりがあるかなんて、話せない。それに信じてもらえるとも思えない。
陛下以外には誰が信じるだろう。
モリーナは、聖女モリーナの生まれ代わりなんてことを。
ふと、1人の男性が頭に浮かんだ。
前世、モリーナがまだ聖女の有力候補として教会で一時期暮らしていた時、知り合った司教。
彼はいつの間にか教会で階位があがり、教皇まで上り詰めた。
モリーナを王の導き手として任命した男。
彼ならもしかしたら、モリーナを聖女モリーナの生まれ変わりだと信じるかもしれない。
懐かしいその相貌が思い出され、モリーナはふふと微笑んだ。