空白の時
ルノと別れた事も、もしかしたら気が付いていないのかもしれない。カラムはずっと心ここに有らずで、庭に面した回廊に出た途端に、風の音に耳を傾けていた。
それでいてぼんやりと歩いているものだから、何度か明後日の方へふらふらと向かっていたのは言うまでもない。
余りにも周りを省みない様に、流石のレスラトも溜め息を溢さずにはいられないようだった。
「ねーちょっと、オウサマ? そっちじゃないんだけどー?」
こっちね、と。言えば二、三拍の停止の後に付いてくるから問題ない。そう思っていたから目を瞑っていたが、赤木の塔が見えたところでカラムは完全に足を止めた。
「おーい?」
怪訝に思ったレスラトが目線の先で手を振るが、まるでカラムにはレスラトが見えていないみたいだ。かと思うと刹那、カラムは身を翻して中庭に駆けていた。
「え、ちょっと?!」
目指しているのは、古くからある老いた木の元だ。だが、突然の行動にレスラトは慌てて追いかけた。
「ちょ、待ってってば!」
庭の草花に構わず半分ほど横切ったところで、カラムの左腕を咄嗟に掴んだのは確かだった。だがくるりと振り返られて、初めて目が合った事にレスラトは怯んだ。
「少し、大人しくしてろ」
「えっ」
カラムは自由な右手でレスラトの鼻先で指を鳴らした。途端に香るのは、酷く甘ったるいこびりつくような匂い。それを直接嗅いでしまったレスラトの視界がぐらりと歪んだ。
力が抜けたのか、身体のバランスを崩してしまう。
細身とはいえ、レスラトはカラムより大きい。しかし、危なげなくその身体を支えたカラムは、手近な低木の脇にレスラトを座らせた。
「な、にを……」
意識ははっきりしているのに、呂律が上手く回らない事への不安が大きいらしい。
「すぐに済む」
カラムはその姿を一瞥すると、この庭で一番古い高木の元に向かっていた。そっとその幹に触れると、樹皮の凹凸を読むかのように目を伏せた。
ざわりと木が、枝葉を揺らしたような気がした。それも束の間、カラムは微かに息を飲んで舌打ちした。
「…………聞こえているか」
微かな声は、レスラトにも聞こえた。酷く穏やかで、それでいて確認の言葉なのに、祈っているような声色だった。
「……いいか、落ち着け。迎えに行くから、大人しく待っていろ」
言い聞かせるような言葉は、今まで聞いたどの声よりも優しい。
「それは放っておいていい。いい子だ。待っていろ、必ず行くから」
それも、一瞬の事だった。
「っ……?!」
ざわ、と。語りかけていた古木が目に見えてざわついた。同時にカラムは手を引き、酷く焦った横顔を見せた。
「枯れろ!」
飛び退いたカラムはきつく告げる。
「枯れろ枯れろ! 今すぐに! 絶対通すな!」
怒鳴るような言葉は、一つ告げる度に古木を、辺りの低木を、あるいは下草を枯らしていた。それでも足りないと言わんばかりに古木を睨み付けていた。
一瞬の内に小さな中庭は焦土と化して、肩で息をする彼の地の王は、酷く疲れきったようだった。
不意に未だに動けないレスラトを見下ろすと、小脇にしゃがみこんで視界を覆った。
「なにを、する……」
「眠れ。それから忘れろ。今見たもの全て」
「やめ……!」
僅かな抵抗でカラムの腕を掴んだ手には、既に力は入っていない。
「クソ……馬鹿共が。本当に余計な事ばかりをしてくれる」
ことりとその腕が落ちたのを確認して、カラムは深く溜め息を溢すのだった。
熱を持った灼鉄鋼の数珠枷を、強く押さえて握りしめた。