彼の王
人気が薄く、客人を通す目的のない飾り気のない通路を抜け、ルノは庭を貫く回廊へと踏み入れた。
少し後ろを歩く森を統べていた者の様子を伺うと、またどこか他所に気をやっているのが、鼻先の向きで解った。あるいは、ヒトの構える城が物珍しいのかもしれない。
ルノの剣を抱えるフィリアは、その後ろで不安そうについてくる。もっと落ち着かないのは見習いの者たちか。
どうしたものかと考えあぐねていると、さわさわと庭木がざわめいた。その音につられたのか、後続が足を止めた。
足を止めるなと言い含めようとした時、振り返った拍子にルノは気がついてしまった。
「あ…………」
それはフィリアも同じだったのだろう。思わずと言った具合に嘆息していた。
その光景は、あり得る筈のものではない。
人目が少ないとはいえ、王城の者たちに季節を告げて楽しませる場所ゆえ、多くの草木は同時に花を咲かせることはない。今の時期ならば、下草の花よりも、低木の花がわずかに見られる頃の筈だ。
しかしそれにも関わらずその庭は、一面満開を迎えていた。まるで何かに急かされたのか、それとも何かを歓迎しているのか。
言うまでもなく庭の草木に、彼が歓迎されているのだろう。
だが彼にとってその歓迎は、喜べるものではなかったらしい。つと視線を反らし、盛大に舌打ちしていた。
「……黙れ。枯らすぞ」
苛立たしげな声は、今までで一番低い。そんな彼に反発するように、風もないのに遠くの大木がざわめいた気がした。
呆れきった溜め息が、聞こえる。もうそちらも見たくないと言わんばかりに、彼は顔を上げた。
ルノには、後ろがおもむろにこちらを睨んだのが解った。
「さっさと連れてけよ」
「あ、ああ……」
何があったのか尋ねてみたいような、聞いてはいけない事のような。ルノですら妙に緊張していたのか、無意識に潜めていた息を吐き出した。
「こっちだ」
ただ、同時に思う。
彼が、彼の持つ力が、人の思うように扱える代物ではないのでは、と。見えない何かの大きさに、ひやりとしたものを感じた気がした。
庭を抜け、再び城内に踏み入れたところで、見習いの子らには兵舎に戻るよう促した。
「フィリア、剣を」
「え? あ、はい」
「ありがとう」
ルノは不思議そうにするフィリアに構わず、その剣を受け取った。にっこりと笑うルノに、何を尋ねても無駄なのは明白だ。
「悪いんだけど、一足先に赤木の塔に、湯桶の用意をしてくれるかい?」
「湯浴みされるんですか?」
「流石に泥まみれのままは気の毒だろ?」
「あ……はい」
フィリアはこっそりと彼の地の王を伺ったつもりなのだろうが、その視線の先は筒抜けだった。微かに解る彼の口元が、心底嫌そうに歪んでいるのがフィリアにも解った。
「ええと、国賓なら、大風呂の方が良いのでは?」
多少気を使った言葉に、ルノが首を振る。
「流石に今から用意させるには時間がかかりすぎるよ。――――と、君も。そんな嫌そうな顔しても、小汚ない自覚くらいはあるだろ? いい加減見逃してあげられないよ」
それから髪も整えようかと提案したルノに、露骨に舌打ちし顔を歪ませたのが、表情の伺えないフィリアにも解った。
「……ざっけんな。何様だてめぇ」
「君の面倒頼まれたんだ。世話焼くのは当然だろう? ああ、フィリア。準備は頼んだよ」
「あっ、はい!」
今にも掴みかかりそうな姿に構った様子もなく、ルノは朗らかにフィリアに告げた。
フィリアは意表を突かれたものの、どうせ決めたことは強行する事が目に見えてる以上、従わない理由がない。
ルノに剣を返却してからフィリアはぺこりと一礼し、城内へと小走りに去っていく。その背中に、またひとつ舌打ちが聞こえた。
「さて、と」
ルノもまた、彼女の背中が見えなくなるのを待っていた。辺りの音に耳を澄まし、一帯に人気がないことを確める。
「君と会った“あの時”はばたばたしてしまってたから、自己紹介がまだだったね。僕はルノ。ルノ・アレスベルト。君のお世話をさせてもらうよ」
ルノは人好きする笑みで彼に手を差し伸べると、鼻先で詰まらなそうに笑われるだけだった。
「求めてねぇよ」
「そう言わずに、ね? こうなる事は君もあの時、解っていた事だろう? どうせ僕は世話もお節介も焼くし、諦めって大事だと思うよ」
「は、どの口が言う」
「それに、我が国王にも君の事を頼まれたしね」
表情を隠すために、わざとそうしているのではとすら思えてくる髪の向こうから、様子を探っているのが嫌でも解る。
「我が国王、ね。まるで国に仕えているだけみたいな言い方だな」
「あははは! 酷いなあ。まあまあ、そう酷いこと言わずに、ね? ――――僕が君に求めることは二つだ。一つはこの国の人に危害を加えないこと。君のその巨大な力で、誰かを怪我をさせるなんてご法度だ」
忌々しいと口元で語る姿に、ルノはまたにこりと笑いかける。
「二つ目は君自身のこと。何か起きたときは必ず僕に教えて。なるべく快適に過ごせるように努力するけども、偏見も少なくないだろうからね」
「そんな暇、あったらいいな?」
「君に意志疎通を取る気さえあれば取れるよ、いくらでもね」
そうだろう? と。その表情を覗き込むと、隠された奥で面倒くさそうに視線を反らしたのが見えた。
その様子に思いつき、また爽やかに笑う。見るものによっては、恐ろしく胡散臭く見えただろう。
「ねぇ、ほら。君って言うのも不便だからさ。君の名前、教えてよ」
「は?」
「ないって言うなら、便宜的に僕が決めてしまってもいい? 何がいいかな。スペリエクスとかアルメドンキプラとかどう? かっこよくない?」
元より返答はないと解っていた。だからこそ、ルノはわざとらしくにこにこと畳み掛けた。
勿論、そのまま放っておけばルノは勝手に決めてしまうのは目に見えていた。だからだろうか。
「……………“カラム”」
視線を反らして囁かれたその名を、ルノが聞き逃す筈がなかった。
「そう。よろしく、カラム」
親しみを込めた笑顔は、間違いなく上機嫌だ。
「さ、そしたら行くとしようか」
ルノは足取り軽く踵を返すと、先程フィリアが消えた方へと足を向けた。
立ち尽くすカラムの姿を振り返ると、心底うんざりしていると態度に滲み出ている。
だがカラムの方も、従う他にない事を理解しているのだろう。渋々仕方なしと、恐ろしくのんびりとした速度でついてきていた。
ルノが向かうのは、兵舎に一番近い場所にある、赤木の塔だ。
庭に面したそこもやはり、辺りは満開を迎えていた。その光景に、カラムだけが舌打ちする。
「機嫌悪いとこすまないけど、今日から君にはここに入ってもらうよ」
ルノが手招いたのは、塔と言っても戸建に近い。城との連絡通路を持つ二階建てと、低い塔とで構成される。
往き来に不便を感じさせるそこも、警護という面では利便性の高さは抜群だ。
連れだって踏み入れると、すぐに広間が広がっていた。丁度シーツを抱えた姿が横切り、入室者達に気がついた。
「あ、団長。もう準備出来てますよ」
「ありがとう、フィリア。助かるよ」
ルノに嬉しそうに笑いかけられ、先に用意するように言われた少女もご機嫌に笑顔を向けた。
「カラム。彼女はフィリア。君もこれから何度もお世話になるだろうから、覚えておいて」
「よろしくお願いします」
ルノに促された姿から目を反らしたカラムに、仲良くしようという素振りはまるでない。煩いのが増えたと、態度がありありと告げていた。
「ま、今日のところはいいかな。フィリア、準備は奥かな」
「はい。水場に用意しました。散髪の用意もここに」
「流石だね、ありがとう」
広間に踏み入れると、二階に続く階段と応接間が広がる。彼らが目指すのはその奥、水回りの設備がそろう場所だ。
「フィリアは先に慰労会に行っておいで。お腹すいただろ? あとは僕がやっておくよ」
ルノは少女からシーツを受け取ろうとして、渡すまいと断られた。
「いーえ! 大丈夫です。そこの小汚ないボロ、洗ってしまいたいので」
着るものならもう用意してます、と。フィリアがにっこり笑ったのは、先程彼女が尊敬して止まない団長に向けられたもの、そのものだ。少しばかり気にしていたのかと、否応なしに知らされる。
「解った解った。僕の負けだよ、フィリア」
苦笑をこぼすルノは、そのままに後ろを振り返った。
「そういう訳だからカラム、脱いでくれる?」
「あ?」
「押し問答は時間の無駄だから、さ、早く」
あちらに、と。すかさずフィリアに指し示された衝立の向こうに、深く溜め息をこぼした姿はのろのろと向かった。表情が伺えれば、間違いなく険しい表情をしていたであろう。
「手伝うよ」
「来るな。気色悪ぃ」
吐き捨てるような言葉は、隠す気もない本心だろう。
「大丈夫、フィリアもそこは弁えてるから」
「てめえは自分の事だろうかと、少しくらい気にしたらどうだ?」
「それは難しいな。僕は僕の役割をこなしているだけに過ぎないもの」
「役割! はっ。笑わせてくれる。与えられたものをこなすだけの傀儡は、脳死してそこでぼけっと立ってろよ。あんたに手を貸してもらう必要なんてない」
嘲る言葉に、ルノは肩をすくませただけだった。
フィリアは不快に眉をひそめていたものの、ルノに肩を捕まれては、それ以上彼女が物申す訳にもいかなかった。
やがてルノは、シーツをフィリアから取り上げて、その背中を軽く押して外へ出るように促す。
「じゃあ、僕は君の隣で見させてもらうよ。悪いけども、君が妙なことをしないか見張る必要はあるんだ」
湯浴みが終わったら散髪するよ。
決定事項として告げると、それ以上の反論はされなかった。
最早彼の地の王も、ルノの存在は見えないものとすることにしたらしい。獣の毛皮と植物の繊維でつくられた羽織は、潔く取り払われた。
その下は一枚の布を器用に纏い、叩いた蔓で縛った簡素な衣だった。
物珍しさもあってルノがぼんやり眺めていると、不快そうに鼻を鳴らされた。それすらも、あっさりと脱ぎ払う。
そうして肌は晒された。
拘束されていた左腕には、今も尚、その痕がはっきりと残っている。そして初めて露になった右腕は――――蔦が巻き付いたような痣が、右半身から左へと身体を覆い尽くす勢いで浮かび上がっていた。
その腕を封ずる為なのか、巻き付けられた灼鉄鋼の数珠枷が、重々しく見えた。
腹や背には、粗雑に縫い合わせたかのようなひきつった傷痕が多く見られ、彼が決して、豊かな森の中で平和に過ごしていた訳ではないと示すようだ。
「石鹸類はその左手の箱のを使って。使い方は解るかい?」
「煩い」
衝立の側から口を挟めば、端的にそう返されるだけだった。そんな姿に、ルノは既に慣れたものだと笑う。
「身を清めたら一度お湯変えるから」
そうしてルノが見守っている内に、彼の地の王は身を清めた。
洗ってもなお、泥でも被ったようなまだらな頭髪は変わりない。元より色素が薄いのか、気苦労を重ねているうちにそうなったのかの、どちらだろうか。
差し出されたタオルでカラムは水気を拭うと、フィリアが用意していた肌着に、袖を通していた。その迷いのない動きを、ルノはただ見守る。あまり口を出して嫌われるのも、望むところではないせいもあった。
国ではありふれた服装に身を包んだ姿は、その伸ばしっぱなしにしている髪を除けば、服装通りの、ありふれた姿となった。
「さ、こちらに座って」
身形が整ったところで、ルノは隅に用意されていた丸椅子をこちらに寄せた。その様子を、表情が見えなくても嫌そうにしているのがありありと解るカラムが、ただ眺める。
「無防備に背中を晒せってか?」
「何を今さら言ってるんだい。君の首を取るんだったら、さっさとそうしているし、もし僕がそのつもりだったら、君もここまで大人しくついてこなかっただろう?」
馬鹿なことを言ってないで座って、と。置いた丸椅子を指し示すと、心底仕方がなさそうに溜め息をつかれた。
大人しく丸椅子に腰かけた肩にシーツをかけ、首もとでしっかりとピンで留めた。ルノは手早く用意されていた鋏と櫛を手に取ると、文句を言われるよりも前に、早速散髪に取り組むことにした。
「さて、ばっさり切ってくよ。構わないよね?」
念のため確認すれば、ふんと鼻を鳴らされる。
「好きにしろ」
「じゃあ、遠慮なく」
初めは後ろを、肩のところまで躊躇いなく切る。丁寧にくしけづくと、伸ばし放題だった姿が嘘みたいに見違えた。
同じように、前も切る。伏せられた目は、現実逃避しているようにすら見える。
顔つきは思いの外幼く、それでいてルノにとって、何故か見慣れた綺麗な顔立ちだった。
何処かで見たことあっただろうかと考える一方で、今にも舌打ちの一つでもしそうなほど歪められた口元に、苦笑せざるを得なかった。
時間をかけるものでもない。
「さ、こんなものでいいだろう」
他人を睨むことに慣れきってしまった目付きは鋭く、赤銅の瞳と目が合うと同時に睨んできた。そんなカラムに、ルノはにっこりと笑いかける。
まだ濡れている前髪をさらりとすくと、鬱陶しそうに払い除けられた。
「どう? 軽くなっただろ?」
問いかけはやはり、ふんと鼻で笑われる。苛立ち混じりに立ち上がった姿は、距離を開けるように一歩二歩と後ずさった。
「それで? 飼い猫みたいに世話された俺に、何しろって?」
カラムはわざとらしく溜め息をつくと、大袈裟に腕を広げて見せた。
「何も? 別に君の望むまま。ただし、僕の目附があるところでね」
「騎士団長様が野郎のお守りとか、そのご立派な肩書きが泣きを見るな?」
「なら、代打を立てるだけさ。ああでもそしたら、深窓のお嬢さんみたいな君を守る任務から外されてしまうかな?」
ルノの皮肉に、流石のカラムも苦い顔をした。
すぐに、吐き捨てるようにそっぽを向く。
「はっ、清々する」
「連れないじゃないか。まあ、いいや。君のお部屋へ、ご案内してもよろしいかな」
お嬢さん、良ければお手を、と。恭しく礼を取って差し出したルノの手は無視された。
《用語解説》
灼鉄鋼……火の精霊の力を宿すと言われる、常に熱を持った鉱物。製錬度によりその熱の強さは代わり、純粋なものほど高温を放つ。襲い来る森を、火を用いず、焼かずに退ける手段でもある。火などの熱源があると反応して高熱を発する。