そして
カラムは彼らの戦いに気を取られながらも、必死にもがいていた。
何度離せと訴えても、全く言うことを聞こうとしない蔦に、苛立ちを隠せずにいた。
それに、セランの事も気がかりだった。セランが喚んだあれらが、かつて森の糧になった生き物たちだと、気がつかない訳がなかった。
「っ……セラン、お前それはやめろ!」
戦いの最中、カラムが声を上げても見向きもしない。恐らくこちらの声も、夢中で聞こえていないのだろう。
形勢的有利を掴んだセランが、楽しそうに笑みを浮かべているのを、見せつけられるだけだった。
「やめろ……頼むから」
絞りだした声は、誰にも届かない。
唯一の救いは、複数の敵に囲まれて尚、ルノの動きに迷いも焦りもないと言うことだろうか。
突進してきた四足の姿を、ルノは半歩左に避けて易々とかわしていた。掴みかかって来た人形の木偶は、腕を雑に切り払って回り込み、その背中を蹴り押すだけで勝手によろけていた。
だが、どう、と鈍い反響音に、流石のルノも眉をしかめた。
「土かな……なんだろ。流石にこれは良くないね。痛そう」
「はっ、それも大事な供物だ!」
一瞬考えに動きを止めたルノの背中に、セランは肉薄し、上から斬りかかっていた。
「おっと?」
恐らく反射だったのだろう。くるりと身を翻し剣を振るったルノは、セランと切り結んでいた。鋼の音が鋭く鳴る。灼鉄鋼の剣同士が打ち合った事で、火花が散った。
同時に、ルノはその手にしている獲物の正体に気がついた。
「それは……騎士団の剣だね。もしかしてティミトリィのものかな」
「残念! これはただの拾い物さ! それより背中ががら空きだな、人間!」
セランの声に呼応して、両側からまた四足の塊が突っ込んできた。ルノはセランを力任せに押し返し、危なげなく二歩、三歩と後ろに跳び下がった。
四足の塊同士は激突して、木っ端に砕けて動かなくなった。流石のルノも、肩を竦めた。
「怖い怖いっ、当たったら大変じゃないか」
「さっさと倒れろ。そしたら早く片がつく」
「まあでもほら、僕も負ける気がしない以上、無理な相談だよね?」
「言ってろ!」
そして二人はまた切り結んでいた。
「お前を殺して、人間どもの巣を壊す。ボクとエガは、静かに森で暮らしていく」
もう二度と、人間達にこの森を荒らさせやしない。そう告げたセランの表情は、どこまでも険しい。
「本当に?」
対してルノは、斬りかかってきた姿と、時折背後から襲ってくる傀儡をいなしながら尋ねた。
「エガリエルが本当に、君にそれを望んでいると思うのかい。君に人を殺させることを?」
「当たり前だ!」
「根が優しい彼がそんな事望んでないのは、君の方が知っているだろう?」
「黙れ。知った口を利くな!」
そんな姿たちを見守ることしか、カラムには出来ない。
不意にカラムは、背後の巨木の虚の中に落ちる、ぼとりという物音を聞いた。
水でも、枝葉の類いでもない。湿り気を持った、粘度の高い何かがぼとりぼとりと落ちてきていた。
「っ……!」
汚泥のようなそれは、木の匂いに混じってカビ臭さと腐った匂いが鼻についた。
理解したくなかった。森の中でも一際目を引くその巨木が、恐れていた通りに腐り始めているのだと。カラムが唯一恐れていた事が、ついに加速しているのだ、と。
こんな所で、大人しく捕まっている場合ではない。
「くそ、離せよ! セラン、もう止めろって!」
何処までも、声は遠い。まるでカラムの周りだけ、空間ごと隔絶されたかのようだ。
異変はそこに、留まらなかった。真っ先にそれは、ルノが気がついた。
肉薄したその表情が、左目から、濁った色に飲まれていく。セラン自身は気がついていないのか。その様を、ルノだけが見ていて息を飲んだ。彼の頬を伝った涙に、眉根を寄せた。
遠くで緩く首を振っていた姿を、一体誰が見ていただろうか。
「ねえ、本当に? ならその黒い涙はどうしたって言うんだ」
「何をバカな…………」
鼻で笑おうとして、何か違和感にセランは動きを止めた。ルノを押しきろうとする力が弱まり、首を振る。
拍子にぽたりとルノの頬に触れたそれは、毒気でも含んでいるのか、やけに肌がびりびりした。
その黒いシミに、流石のセランも気がついた。
「え…………」
恐る恐る、セランは自分の頬に触れた。震える指に、黒液が触れると酷く熱かった。
頬に触れていた時は気がつきもしなかったが、強い毒気に焼かれているのだと、どうしてすぐに理解できただろうか。
「う、そ……だ」
取り乱して剣を取り落としたセランは、懸命に袖で顔を拭っていた。
「……だ……嫌だ!」
そして。
ざわりと森がざわめいて、空気が乾いたような気がした。
真っ先にカラムは巨木を見上げると、声にならない悲鳴に息を詰まらせた。
「そんな……」
細い枝葉から渇いてしまったのか、葉が緑のまま枝ごと落ち始めた。目に見えて、その巨木が枯れようとしているのだと、解ってしまった。
まるで相対するように。まるでその巨木の生命力を吸ってるように。虚の汚泥が増えていく。落ちてくる。
ついには虚からこぼれ出た。
その汚泥は、何かを探しているかのように、汚泥から何かが手を伸ばしているかのように、ずるりずるりと這い出てくる。
ばきりと虚が広がって、巨木は縦に裂け始めていた。
汚泥は側にあったカラムの姿を認識すると、巨木の次の獲物と言わんばかりに這いずり、殺到した。
本能的に、誰もがそれは触れてはならないと感じた。しかし逃げようとしたカラムを阻んだのは、他でもないセランの蔦だ。
「っ、離せっ……あつっ!」
何度悪態混じりにカラムが命令しても、全く意味を成さない。
それは、獲物を逃がすまいと蔦を飲み込み、カラムの足に触れていた。途端にカラムが感じたのは、感じる筈がない肌が焼けるような痛みだった。
拘束していた蔦は汚泥に触れて腐り落ち、カラムは身体のバランスを崩して倒れ込んだ。
「くそっ……」
獲物を得た事に悦ぶように、睨み付けた汚泥の中から、何かが見返してるような気がした。
実際、カラムの目の前で、じわりと人のような姿が形を取った。気のせいだろうか、それがにたりと嗤った気がした。
得た獲物を貪るように、いたぶるように、じりじりと下がるカラムとの距離を詰める。
欲しい、と、カラムが聞いた声は誰だろうか。
食われると、刹那に思ったのは誰だろうか。
そこに見た表情に、カラムは誰より驚愕した。本来、顔の識別なんて出来るはずがないのに、愉悦に歪むセランの表情を汚泥の中に見た気がした。
それと同時だった。
「嫌だ、嫌だ……!」
頭を強く振って取り乱したのは、他でもないセランだ。最早戦っているどころの騒ぎではない。
その変化にルノも戸惑い、攻撃を躊躇った。
「ボクは……そんなこと望んでない! 欲しいのは……欲しいのは! ただエガと、一緒に……」
黒い涙を流して、苦悶に満ちた絞り出された声は、ルノだけが聞いてはっとした。
ああ、そうか、と。青年の姿と汚泥と、交互に見やって理解した。
「あれが、本当の君なんだね」
全てを飲み込む厄災が、汚泥の正体であると。
「君が人間らしさに拘るのって、だからかな」
森人に生まれた自我が、厄災に成る前に得たのがセランなのだと。
ならば。
「あれは、要らないね」
どちらにせよ、ルノの目に映る限り、カラムを助けないという選択肢はない。
「カラム、頭を下げるんだ」
ルノは下段に剣を構えつつ駆け出した。
最早セランがルノを追って、剣を交える余裕もないらしい。お陰でルノは軽やかに駆け、最早討つべき敵は姿形のない汚泥だけだと、真っ直ぐ見据えた。
「ふっ……!」
ルノはカラムの側に駆けつけると、汚泥で出来た人形を二つに断とうと、両手で剣を握って横に薙いだ。
「これで!」
終わりだ。そういうつもりで、ルノも力強く断ち切った。しかし、斬った感触はあまりなかった。泥の中に剣を突き立てたような、わずかな抵抗があったくらいだ。
その手応えの無さに、ルノには違和感しかない。
それでも、優先したのはカラムの身の安全だった。まとわりつく蔦の残骸を断ち切った。
「動けるかい?」
「っあ……」
そして彼らの背後で、僅かな吐息と共に前のめりに倒れる姿が一つあった。
「…………っ、問題ねぇ。それより……セラン!」
ルノの差し出した手は、取られる事なかった。ふらついた足で、カラムはうずくまる姿に転げるように駆けつけた。
「セラン、しっかりしろ」
「ぅ……あ、エガ……」
カラムが脇に屈んでその背にそっと触れると、恐る恐る顔を上げた。セランの顔色はとても悪く、この僅かな間に酷く憔悴した様子だった。
だが、心配させまいとしてるのだろうか。無理やり笑った表情は、とても痛々しいものだった。
「…………無理しなくていい。大丈夫、直ぐにその怪我もどうにかするから!」
「平気だよ……エガ」
カラムはその身体を抱き寄せようとしたものの、突っぱねられて緩く首を振られてしまう。
その胸元は、ルノが汚泥を薙いだ場所と同じところに、ざっくりと斬られたらしい痕があった。噴き出すのは、溢れるのは、汚泥と同じ色の黒。
セランは強く拳を握った。
「…………ね……エガ。どんななっても、ぼくのそばにいて、くれる……? おいてかないで。いっしょに……いて」
訥々と語る声は弱々しく、何かを諦めている様子さえある。
「行かねぇよ、どこにも。だから……そんな諦めた顔をするのはやめろ。まだ、大丈夫だから」
「ん…………ありが、と」
それを払拭するようにかけたカラムの言葉は、セランによって遮られた。とんと、セランに強く肩を押されたせいだ。
「セラン……?」
尻餅をつかされ、必然的に見上げた姿は、どこか申し訳無さそうに眉を下げて笑っていた。
「……ごめんね」
セランは逆手に剣を取ると刹那、止める間もなく、止めさせる気もなく、自らの胸に剣を突き立てた。
「っあ……くっ……」
「セラン! 何を……!」
一歩二歩、カラムを近づかせない為に下がるセランは、身悶えしながら深く深く抱え込むように捩じ込んだ。
「はっ……エ、ガ……これ……ぼくの……ここの……。おねが……」
最早その足に、手に、力が上手く入らないのだろう。セランはへなりと座り込みながらも、少しでも胸の傷を抉ろうと、剣を抜こうとしていた。
「お願……ぼくは、ぼくのままで、ありたい……! エガと、過ごした時間を、このままなくしたくない! だから……!」
セランは胸に手を当てた。示した場所に、カラムには心当たりがあった。セランが何を言いたいのか、解ってしまった。
「チッ!」
だからこそ、苛立ち混じりに舌打ちした。
こんなにも呆気なく、こんなにも儚い。森人は本来、そういう存在なのだ。
「ああ…………そうだな」
カラムはどうにかその身体を横たえさせると、眉根を険しく寄せた。
一瞬目を伏せていたのは、迷っていたからだろう。だが次の瞬間、カラムは目の前の姿を真っ直ぐに見ると、一息にセランの胸から剣を引き抜いた。
「ぁ……」
「セラン」
ほっと息をついた、焦点の合ってない目線と合う。すがる思いで、カラムは剣を落としてその手を掴んでいた。
カラムはその脇に寄り添うと、なぞるようにその胸の傷に右手を添えた。僅かに躊躇い、そして一息に傷の中を探った。
「セラン大丈夫だ。何とかするから、必ず。だから少し、眠ってろ」
「……ねが、ずっと……いて、ね」
目的のものを見つけると、カラムは深く息を吐いて、セランの胸から引き抜いた。
その手には、手のひらに収まる程度の琥珀の核が握られていた。
「おやすみ、セラン」
「……す、…………」
それきり。
セランの腕から力は抜けて、カラムの指からずり落ちた。
は、と。何度となく息を飲んだのは誰だろうか。
力無く座り込む背中に、そばに寄ったルノもかける言葉を失っていた。
「どうして……」
自分が斬ったものは汚泥の方だと言うのに、どうしてセランが怪我を負ったのか。理解しかねたようだった。
「どうしたもこうしたもねえよ」
深く息を吐いた姿は、ルノを振り返る事はない。ただ覚束ない足取りで、どうにか立ち上がろうとしていた。カラムの足は、少なくとも先程の痛みを未だに感じているらしい。
「セランはそもそも厄災だ。……ただ、俺が森の王になった時…………古い器から、少しずつ新しい依り代に移している途中だった。だから大本は、お前が斬ったあの汚泥に過ぎない」
だから姿形あるセランにも、と。カラムはその先を深く語る事はしなかった。
「でも、お前のせいではない」
ただそれだけをはっきりと告げたカラムは、強く手を握りしめていた。
「俺に力が足りていなかった、それだけだ」
たった七年積み上げた程度では、と。絞り出された呟きは、きっとルノに聞かせるつもりがあった訳ではない。後悔がただ、そこにはあった。
ルノにはかける言葉はない。手を下した当事者として、受け止める事しか出来ない。
しかし、感傷に甘んじていられる状況でもなかった。
この機をずっと伺っていたかのように、ルノの背後から何かが飛びかかっているのが見えた。
「っ……危ない!」
ルノは即座にカラムの腕を掴むと、半ば引きずるようにその場から引き離した。
何が飛び付いて来たのだのまじまじと伺うと、先ほど斬った筈の汚泥が、横たわっていた筈のセランの身体を拐っていた。
「これは……?」
「こいつ、まだ動けるのか」
じりじりと、ルノたちから距離を取りながら、こちらを警戒している。その様子を見せる泥の塊は、今度は野生の獣のようにも見えた。
まるで、そこに人のようにありたいと願ったセランはいないかのようだ。琥珀を握るカラムの手に、渡すまいと力が入る。
「ごめんね、カラム。反省も贖罪も。君が望むなら後でいくらでもする。でもだから、今は、僕に君を守らせて」
「…………、ああ」
カラムはルノに肩を支えられどうにか立ち上がると、苦渋の表情を浮かべていた。
逡巡したのも束の間だった。未だにこちらを警戒した動きを見せる汚泥を見て、覚悟を決めた様子でルノの腕を掴まえた。
「なあ……頼む。その汚泥をいくら斬ったところで変わらねえ。あれを、あの木を燃やしてくれ」
「え?」
カラムが示したのは他でもない、巨大な虚を抱えた巨木に他ならない。回りの大木と比べて尚、堂々と佇むそれが、少なからず特別な存在である事はルノにも肌で感じ取っていた。
「あれを……? でも」
「頼む! セランの決断を、あいつ自信をこれ以上、厄災にしないでくれ」
「ちょっと、落ち着いて。焼くって言っても……その、焼くことと厄災と、何の関係があるっていうんだい?」
矢継ぎ早に投げ掛けられて戸惑うルノに、カラムは眉根を寄せた。
言うか言わざるか僅かに躊躇い、目線も流れていった。
「………………森の王だ」
「え?」
ルノは耳を疑った。
意を決したのか、赤銅の瞳が真っ直ぐにルノを捉えて来る。
「あれは、俺の前の森の王。命を食らい、枝葉を広げ、森に栄養を回し、森に恵みを与えていた、源」
深く息を吐いていたのは、カラムなりに声の震えを隠そうとしていた。これを誰かに話して、事態が今以上に悪化することを、恐れているようにも見えた。
「俺はあれの枝を引き継がされて、セラン――――厄災を任された。だが、俺の力は途方もない年月をかけたあれには到底及ばない。それに、あれが食い散らかした名残から生まれた厄災は、当然俺より力がある」
は、と。再び思い詰めた様子で息を吐いていた。
「あれは俺の代わりの器だった。だけど…………」
躊躇ったのは僅かなこと。ゆるく首を振っていた。
「あれは限界だ。器が壊れる前に、壊さないと。焼き尽くさないと。さもなければ、それこそ俺の手には負えなくなる。あえて脅すなら、急がないと、あんたの国も終わる」
カラムは告げると、すぐ側の一点を指差した。そこは、清水のあった筈の場所。近くに取り残されたカンテラがあるから、間違いない。
清流は、いつの間にか枯れていた。
「放っておけば、森は枯れる。森だけじゃない、水も、恵みも何もかも。……時間がない」
「……ああ、解った。僕はどうすればいい?」
「あんたの剣をくれ。純灼鉄鋼のそれを燃やす。準備する、時間を稼いでくれ」
「いいだろう」
ルノは落ちていた剣を拾うと、こちらを警戒した様子の影に向かって構えた。
その後ろで、カラムは預った剣で自身の袖を裂くと、手早く刀身に巻き付けた。カンテラを拾い上げ、その燃料を滴らないように丁寧に布に溢した。
そして。
「ルノ」
呼びかけは、それだけで十分だった。
「虚に、頼む」
「任された」
ルノは牽制するように手にしていたもう一本を汚泥に向けて投げつけると、即座に自身の剣と僅かに燃えるカンテラを受け取り駆けた。目指すのは、あの虚を抱えた巨木である。
「これで……!」
剣に火を移すと、それはすぐに布の燃料を伝って広がっていく。同時に灼鉄鋼が火と熱に強く反応しているのがルノには肌で解った。
躊躇い無く、投げ入れる。燃料の蓋を開けたカンテラも投げ入れたのはついでだった。
変化は、早かった。
真っ先に動きを怪しくしたのは、他でもない汚泥の影だった。縁が震えたかと思うと、まるで熱さに身悶えしているかのようで、こちらに襲ってくる余裕もないようだった。
生木である木が早々に燃える筈がない。しかし、火に熱せられた純灼鉄鋼の放つ熱は、それだけで幹を焦がし、やがて自然に煙を上げ始めていた。
同時にルノは気がついた。
空が、随分見えるようになっている事を。その空が、僅かに夜色を溶かして、紫がかっている事を。
ルノが背後を振り返ると、複雑な表情で巨木を見上げる姿があった。ルノの視線に気がつくと、気まずそうに目を反らした姿があった。
そして……。
厄災は、煙と共に夜明けの空に緩やかに燃やされた。森の王と、騎士団長の手によって。




