彼の事実
空気が動いたような気がして、フェリシアンナはふと目を覚ました。うつ伏せていたテーブルから身体を起こすと、背中がみしりと唸った。
「……ん」
ゆったりと腕を回しながら、辺りを何気なく伺った。
テーブルでは同じように、レスラトがうつ伏せて眠っていて、思わず目をこすりしたたいた。何故、レスラトがここで寝てるのか。覚えがない。
いつから眠ってしまっていたのだろう。ぼんやりとしながら、考えた。
窓の外を伺うと、月明かりが差し込んでいて、丁度深夜ごろかと時間を知る。
確か彼の王は、上の与えられた部屋に戻ってきた。フェリシアンナの主は一緒ではなかったが、恐らく何かに駆り出されている事だろう。自分は寝ている事が多いし、多忙はよくある事だからと、特に気にもしていない。
作った食事はどうせまた口にしないだろうからと当たりをつけて、あえて自分の好物を並べた覚えはある。それを片付けついでと平らげて、道具一式も片付けた。
その後に覚えがないので、食事と片付けの後に眠ってしまったのだろうと結論付けた。
「レスラト」
揺さぶってみても、小さく唸っただけで起きる気配がない。眠りの浅いレスラトにしては珍しいと、思わずにはいられなかった。
どうしたものか迷っていると、やはり何か違和感があった。あたりをぐるりと伺って、その違和感を探すものの、慣れた空気感しかない。
気のせいならばそれでいいか、と。念のため塔の中を見て回ろうと、音を立てないように席を立った。
目につく窓は閉まっており、玄関口も荒らされている様子は全くない。強いて言うなら、本来外に立っていないといけなかったレスラトが、そこのテーブルで眠ってしまっている事くらいか。
怒られるのは自分ではないから、まあ、いいかと。侵入者があった時の自分の負担よりも、そちらの方が大事だった。
フェリシアンナの眠っていた周辺に、異常は見られない。そうなると、自分が眠っている間に、彼の王が外を出歩いていないかだけが気になった。
万が一彼が外に出てしまっていたら、それこそ主に怒られてしまう。
緩やかな螺旋の階段を上っていくと、赤木の塔由来の、客室のある一角に入る。塔の部屋に入るにはこの階段先の扉以外に入り口はなく、窓には鉄格子がはめられている為に、客室といっても、事実光の入る牢屋と代わりない。
緊急時の脱出口はあるものの、秘匿されているために、まずそこから出入りすることは出来ないだろう。
窮屈さを感じさせないように、高めの天井や広く確保された通路が、唯一牢屋を感じさせないくらいだろうか。
だが逆にいうと、入り口を警戒していれば、中の者を守りやすく、監視しやすい造りになっていた。
自分達が眠っている間に侵入されてたら意味ないけど、と。それはそれで面倒くさいなあとうんざりした気持ちになっていたフェリシアンナは、階段を登りきったところで息を止めた。
そこには誰かがいた。彼の王ではない。
音を立てないように、気配をさせないように動く様は、見事すぎてフェリシアンナも舌を巻く。お陰でここまで登ってくるまで、全く気が付けなかった。
最後の砦とも言える扉の鍵を開けようとしているのか。自分に預けられていた鍵があるはずの、胸ポケットを思わず上着から触っていたが、そこにはきちんと鍵があった。
工具を使っているというより、錠に合った鍵を使っているのだろう。
自分と、主と、他に誰がこの部屋の鍵を預けられていたのだろうか。レスラトは入り口しか持っていない。城の責任者の誰かだろうか。
目まぐるしく浮かぶ嫌な考えに気を取られた一瞬の間に、その者は解錠に成功したようだった。扉ののぶに、その手がかかる。
最早、考えている場合ではない。
彼の王を守れ。そう言われた通りに遂行すべく、気がついた時には短剣を抜き、その首筋に向けて一躍、斬りかかっていた。
だが。
鋼と鋼のぶつかる、鋭い音が石の壁に響いた。フェリシアンナは驚きに、思わず目を見開いた。
開いた扉の向こうから、明るいくらいの月明かりが射し込んで、廊下を照らし出して、眩しいくらいだ。
フェリシアンナの驚きは、完全な奇襲を対処されてしまった事に、ではない。相手が振り返った事で、気がついてしまった。
「何故」
声に出てしまったのは、それほど動揺が大きかった。
「何故、貴方が忍んでここに来ているの。主殿」
そこにあったルノの姿に、フェリシアンナは構えた短剣を下ろすべきなのか迷った。
「それとも……ただのあたしの早とちりなの」
それならそれで申し訳ない事をした。主と外敵を間違えるなんて、心臓が痛かった。
いつもは柔らかく微笑んでいる、ルノの表情はない。だが、動揺したフェリシアンナに、ようやく微かに苦笑して首を振った。
「……いや、間違ってないよ。フェリシアンナ」
僕は刺客としてここに来た。そう告げるルノが、フェリシアンナには解らなかった。
「失敗してしまったけどね」
それでいてひょいと肩を竦めたルノは、何処かほっとした様子で抜いた剣を収めていた。その様子に、疑問に思う。
「……主殿は、何に迷ってるの」
「そうだね……。それを答えるには、是非とも君の答えが欲しいんだ」
ねえ、とルノが振り返ったのは、開いた扉の向こう側だった。
部屋の中は至って簡素だ。
こちらも狭さを感じさせないように、部屋の窓は塔にしては多い。寝室としての役割くらいしかないので、寝台と家具一式が配置されている程度だ。
そして一番大きな窓辺に座る姿が、こちらの騒ぎも感じていないように、いつもの如く遠くを眺めていた。
「カラム。それともやはり、エガリエルと呼んだ方がいいかい?」
投げ掛けた問いに返答はない。ここ数日で知った反応ではあったが、ルノはそこで止めるつもりは無いようだった。
ずんずんと、彼の元へ踏み入ってくルノに、フェリシアンナはびくりと警戒した。
思わず間に割って入ったフェリシアンナに、虚を突かれ苦笑していた。
「ごめん、フェリシアンナ。もう危害を加えるわけじゃないよ。でも、問い詰めてでも、確かめないといけないんだ」
「何を……?」
「彼の事を。彼が隠している真実を、真意を。あるいは、今起ころうとしている事を。討つべき敵なのか、手を貸すべき味方なのか」
ルノは一つ息をつくと、心に決めた様子で真っ直ぐに見据えた。
「ねえ、カラム。君の長兄、カストロフ殿の行った実験内容について聞いたんだ。病に弱っていた君の身体を、逞しい植物の生命力を借りて治そうとしたって。でもその方法が、やり方が、あまりにも世間から見たら忌避感が強かった」
ルノは淡々と続ける。
「身体を刻み、植物と混ぜていたそうだね。君のその右腕の紋様は、混ぜれば混ぜるほどに濃く、範囲を広げていったと経過記録にあった。そうして君は病を乗り越えたけれども、バスティーユ家の離散の可能性が見えた頃に、カストロフ殿やお父上は、君が国に利用される事を恐れていた。だから君は亡くなった事にして、国を出て、森へ向かったんだろう?」
ふと言葉を切ると、ルノは目を伏せた。
「君がずっと森にあるという厄災の事を隠していたのは、この国を守ろうとしてくれていた。たった一人で、戦っていた。それなら、やはり君だけで抱えるべきではないと思うんだ。僕は力になりたい。僕の事は信じてくれなくてもいい。でも、この国を大切に思う気持ちは、君と一緒なんだ」
それでも君は、僕たち国の者を頼ってはくれないのかい? 君を死んだことにした国の者を、信じることは出来ないかい?
そんなルノの問いかけは、全て黙殺されていた。その事実が、ルノの肩を落とさせる。
「僕には、どうしたら君が心を開いてくれるものなのか、どうしたら助けさせてくれるのか。それとも脅威を抱える存在だから抹消すべきなのか、さっぱり解らないよ……」
そんなルノの姿を見たくなくて、けれどフェリシアンナにはかける言葉が解らなかった。ただじっと、二人の間で視線をさ迷わせる。
その時だった。
不意に、カラムは身体を起こし窓に張り付くように見下ろした。冗談じゃねぇぞ、と、呟いたのは無意識だろう。
「カラム?」
「っ……!」
ルノが怪訝に訪ねたのも束の間、カラムはルノを突き飛ばすように窓辺から飛び出した。
あまりの素早さに、フェリシアンナは思わず飛び退き道をあけてしまっていた。
「ちょっと、どうしたって言うんだい?!」
「うるせぇ、どけ!」
ルノの動きは早かった。咄嗟に捕まえたものの、生憎即座に腕を振り払われてしまう。
カラムは焦った様子で下に向かっていた。
ちらりと釣られるように窓の外を伺うと、何かいつもと景色が違っている気がした。だが、違和感の正体が解らない。
仕方なしに急ぎ、二人はカラムを追った。
塔の扉を開けたすぐに、その背中に追い付いた。
「一体どうしたって言うんだ……」
尋ねかけて、彼が見ている先にある姿に気がついた。
衛兵だろうか。だがその足取りは何だかおぼつかず、足を悪くした者が無理に引きずって歩いているかのようだった。ぽろぽろと、一歩歩く度に何かを落としており、月明かりではその正体を測れない。
それが、最後に肉片と共に返された男の一人だと、気がついたのは偶然だった。
カラムの姿を虚ろな顔が見つけた途端に、その表情が嬉々としたものに変わったのが解った。
『エ……ガ、見ツけた。迎えにキタよ……』
間違いなく、男のものではない。まだ幼さの残る声が、細い糸を手繰るように告げていた。
『すぐ、こんな場所壊すカラ……道ヲつくる、から……待って、て』
刹那。男の身体がぐらりと傾き倒れた。ざらざらと、ある程度の固さと空洞を兼ね揃えたものがぶつかり合う軽い音が響き、男のいた場所には何かの山が出来ていた。
ルノは足元に転がったものを拾い上げ、その正体を知る。
「これは……木の実……?」
何故こんなものがとか、助けた筈の衛兵に何が起こったのかとか。解らない事ばかりだと、その表情は戸惑っていた。
同時に気がつく。手にした木の実が、あるいは辺り一体に散らばる山のようなそれらが、わずかに動いている事に。
気味の悪さに、流石のルノも取り落としていた。まるでそれを見計らっていたかのように、ゆるりと木の実から何かが伸びた。
否、それが。一斉に芽吹きを迎えたのだと、一体誰が解っただろうか。
「チッ……」
何が目の前で起きているのか理解出来ていない中、身を翻したのはやはりカラムだった。
「待って」
逃がすわけにはいかなかった。止めない訳にはいかなかった。
今度こそ振り払われないように、ルノその腕をしっかりと捕まえた。
「ねえ、一体何をしたんだい。これは何が起こっていると言うんだい?」
「ああ、もうホント煩い奴だな!」
矢継ぎ早に訪ね、強く腕を引きその場に留まらせると、煩わしいと睨まれた。
「見りゃ解るだろ。てめえの国の危機くらい!」
「解らないから聞いているんだろ?」
「ああ? てめえの国の中でも森が芽吹こうとしている。それ以外に何がある?」
「何故そんな――――いや、それより。ねえ、なら尚更、一人で負える事態じゃない筈だろう?」
僕は君の力になりたいだけなんだ。そう告げたルノに、ぎりっと歯を食い縛っていた。
「ああ、ああ、そうかい。勝手にご高説垂れるだけの事はあるな、頓珍漢。そんな聞きたきゃ全部、答えてやるよ。別にあんたらの助けなんて、俺には何の役にも立たねぇけどな!」
ぶんっと身体ごと振って腕を離させると、彼の王は吐き捨てるように告げた。
「俺はあんたが調べた通り、エガリエルであって、エガリエルではない。エガリエル・バスティーユは、七年前に病で実際に死んでいる! だがそこを、森に生かされ受け入れられた。何でかって? それこそこの右腕の実験のお陰でな! だから俺は森の一部で、森の為に動き、与えられた生を森の為に捧げると、あの日に決めた。てめぇらのちんけな国がいくら滅びようが勝手だが、あいつを厄災にする訳にはいかねぇんだよ!」
解ったらもう、放っておいてくれ。邪魔をするな。言い放った姿に、ルノはそれでも訪ねていた。
「あいつ……。あの、青年の事かな」
静かな言葉だったにも関わらず、去ろうとした背中は驚くほど足を止めた。
「君が“厄災”と名乗ってでも守りたかったものって、彼の事なんだろう?」
「黙れ」
「僕にとっても同じだ」
ぎろりと睨み付けられてなお、自嘲してルノは苦笑した。
「ねえ。君は違うとずっと言っていたけれど、僕らの動く理由は同じなんだよ。君はあの彼の事が、僕にはこの国が大事だ」
君には傀儡なんて言われてしまったけどね、と。苦笑したのは少なくともずっと気にしていたのだろう。
「ものは違うし、思い入れだって間違いなく違う。でもね、理由は違っても、目的が同じならやれる事がある筈だよ」
「何が言いたい」
「カラム。このまま国に危害を与えようと言うなら、僕は――――僕らは国を守るために、君の森を焼かなくてはならない」
「ハッ。先に手を出してきたのはそちらだろうに、随分と身勝手な事が許されるご身分なんだな?」
「そうだよ。僕だって命は惜しいし、国を守るためなら、それもまた仕方ない」
でも、と。反論を許さないと言わんばかりに、きっぱりと続けた。
「身勝手を身勝手のまま終えたくない。もちろんそれは僕の我が儘だよ。君が勝手だと憤るのは当然だ。でもだからこそ、君に願うんだ。手を貸してって、手を貸させてって。別に馴れ合って欲しいって言っている訳じゃない。互いの目的の為に、協力して欲しいんだ」
沈黙は、静寂にはならなかった。
異変に気がついたあちらこちらで、既に城の騒ぎは起き始めている。もしくは街の方にも何か影響は出ているかもしれない。
カラムは呆れた様子で、深く溜め息をこぼしていた。
「なら、てめえを利用してやるよ。それがあんたの理想としている形で無かろうが、知ったことじゃないからな」
「望むところだよ。それを理想的な場所に収まるように立ち回るのも、僕の勤めだからね」
「ハッ。ご苦労なこった」
それ以上、お互いに語る必要はなかった。
「フェリシアンナ、お願いかあるんだ。これから言う指示を、隊の皆に伝えて回って」
「…………解った」
ルノは用件だけ伝えると、彼の地の王と共にその場から急いだ。