残された者
その屋敷は、城の中心街から離れた場所にある。
城下街に住む者ならば、誰でも自由に利用が出来る、国立の図書館の程近くにあるそこは、今はもう、人の出入りはほとんどない。時折、その屋敷を管理しているという数名ばかりが、屋敷の掃除や手入れをしているくらいだ。
だが今日は、そんな屋敷にしては珍しく客人の出入りがあった。
「ようこそ、おいでなさいました」
すっかり衰退した屋敷に、珍しく来客があったのだ。そこの管理を任されている女主人は、久方ぶりの客人に、深く丁寧に頭を垂れていた。
その女主人は、主人と言うには随分と簡素なワンピースを纏っている。彼女の手は水仕事に荒れていて、とても屋敷に住まう主人のものとは思えない。
そばかすの浮いた顔は、まだ随分とあどけなさもあった。主人というより、屋敷の令嬢と言う方が、余程相応しいだろう。
だが、彼女の表情は真剣そのもので、決してあどけなさだけが有るわけではない。凜とした、一人の主人としての自覚を持った顔つきだった。
少し痛んだ髪も、荒れた手も。それを含めて彼女が自分に自信をもっているのだと、しっかりと胸を張っていた。
そして玄関先のアプローチに降り立ったのは、紛れもなく、この国の上から二番目に立つ者の姿だった。白髪の多く目立つその男は、宰相シグムントに相違ない。
その後ろを、付き人らしき小柄な姿がついてくる。
「メイニー嬢、本日は急な訪問を引き受けて頂き誠にありがとうございます」
「いいえ、とんでもございません。宰相様のお役に立てたのであれば、この上ない光栄な事ですから」
うっそりと微笑んで見せた様は、正に貴族令嬢のお手本のような整った笑みだ。彼女の普段を知るものが見たら、大層驚くことだろう。
どうやらそれは、シグムントも感じていたらしい。
「それにしても、驚きましたよ。まさかあなたが下女として働いていたとは」
「あら、頭でっかちの家の人間が肉体労働に勤しんでいたら、そんなに可笑しなものですか? 唯一の肉親の側に居たいと願うことは愚かですか?」
「そうは言ってはおりません。ただ、かの優秀な頭脳を持つ家の者が下女とは、些か勿体なく感じただけです」
「そうでしょうか? これでもわたくし、身体を動かして働く生活を気に入っていますわ」
もちろん新しいものを知ることは、それはそれで楽しいですが、と。くすくすと笑った姿に、シグムントは首肯した。
「他意はありません。ただ感じたまでが、そのまま口に出てしまっただけですので」
お気になさらずと苦笑した彼に、女主人は笑うわけでもなく、「左様でございますか」 と、ひややかな視線を向けていた。
肯定も否定もせずに、彼女は肩を竦めていた。国の二番手ともあろうものが、思ったままを言うなんて何事かと言わんばかりだ。
どれ程過去の栄光があろうとも、今の彼女はただの平民だ。国の二番手に意見しようなんて気は、微塵もないのだと大言していた。
「さて、立ち話も難ですので中へどうぞ。大したお構いは出来ませんが、下町の流行り話くらいは、お茶請け代わりに出せるかもしれませんから」
「おもてなし感謝致します」
エントランスに飾り気はない。がらんとしたそこは、一家の離散が決まった時に、まとまったお金を作る為に家具を売り払ったのだ。
「こちらにどうぞ」
そんな中、メイニーが招いたのは、かつての当主が利用していた書斎だった。
「申し訳ありません、他の部屋の家具はほとんど出てしまっていて、ご案内出来る部屋がろくに無いのです。お茶を入れてきますので、少々お待ち頂けますか」
「いいや、お構い無く。お茶は結構ですので、お掛けください」
「……承知しました」
シグムントは案内された席につき、付き人の者はその脇に控えた。
メイニーがやれやれと僅かに肩を竦めたのを、付き人だけは気がついたのだろう。さも面白いと言わんばかりに、くすりと笑っていた。
その付き人は、付き人にしては随分と若い。どこにでも居そうな印象の青年に見えるが、いっそわざと影を薄くしてるのではないだろうかとメイニーは眉をひそめた。
「……それでは、お手前失礼いたします」
メイニーもふんわりと対面に浅く座り、背筋を正した。これから始まるであろう酷く疲れる会話に、休む間もなく受けて立とうと言う気概さえ見えた。
「さて、今回急な訪問に伺った訳ですが、貴女にお聞きしたいことがあります」
「お答え出来るものであれば、なんなりと」
「それでは。七年前、貴女のバスティーユ家が離散するきっかけとなった、実験の事についてです」
シグムントの言葉に、メイニーは微かに眉を潜めた。
「その事は、私に何の権限もなかった当初に一度、この家の調査と命して、実験に関する記録はそちらが全てお持ちの筈ですが」
「ええ。学務卿を勤めた貴女のお父上や、歴代のバスティーユ家の中でもずば抜けた奇才と言われし、亡き長兄カストロフ殿の実験録の数々は、今もなお城の禁書庫にて厳重に管理されております」
「…………では、何がお聞きになりたいと言うのですか?」
あえてこちらが嫌な思いをする言い方をすると感じずにはいられない程、メイニーは眉を顰めた。
解っているだろうに、その程度で話題を切り上げるほど、シグムントも容赦はない。必要な情報を得るためにならば、彼は些細な嫌味など厭わないだろう。
「そうですね。例えば、カストロフ殿の実験台となったとされる、エガリエル殿の事、とか」
その名に、メイニーもぴくりと反応した。せざるを得なかった。
「…………エガリエルお兄様の話は、私も大層心が痛い話になります。慮って頂ければと思うのですが」
「配慮にかける質問になるでしょうが、どうしても必要な事なのです」
メイニーは答えなかった。どうせ自分の返答なんて関係なく、聞きたいことを聞くのだろうと解りきっていたせいだ。
「優れたお父上、あるいは兄上が二人もいては埋もれてしまうでしょうが、エガリエル殿もまた、学問に造詣が深かったと存じます。彼が特に好んでいた学問は何だったでしょうか」
「エルお兄様は……」
口を開きかけて、メイニーは小さく溜め息を溢した。
「存じ上げないのも無理ないかと思いますが、エルお兄様は兄妹の中でも、身体が弱くいらっしゃいました」
いくら故人に興味がないからとはいえ、それくらい知っているでしょうと、罵りたい気持ちをぐっと堪えた。
「それでいて、エルお兄様は学問がお嫌いでした。お父様たちのように勉学に勤しみ、綿密に理論を立てて実行するよりも、庭木に触れたり雲を読んだりして、ゆるりと過ごされる事の方が好まれてましたから」
「それでは、天文学には通じていたのでは?」
「さあ。私が存じ上げている限り、純粋な天文学でしたらカストロフお兄様が一番詳しかったと思いますが。お父様もお兄様方も、エルお兄様には自由にさせていましたので」
深く聞かれても解らない。時間の無駄だと、言わずとも告げた。それがどこか不服そうなシグムントにどの様に伝わったとしても、メイニーにとっては痛くない。
ふと、僅かに目を伏せて尋ねた。
「私からもお伺いしてもよろしいでしょうか」
「何についてでしょう」
「何故今になって、お国が別の事で盛り上がっている今この時に、エガリエルお兄様の事をお尋ねになるのでしょうか」
それは、メイニーにとって小さな異種返しであり、ずっと気になっていた事だった。
まさかという邪推がどうも、脳裏を掠める。違うなら違うと、いっそ確信を持ちたくて投げ掛けた。
シグムントの反応は、ある意味露骨だった。にっこりと笑った様は、間違いなく魑魅魍魎の貴族社会を生き抜いて来た歴戦の猛者のものだ。
「無知のままでいるという事は、時に御自分の身を守る行為でもあるのですよ、メイニー嬢」
「あら、宰相様ともあろう方が、それはお返事になっていませんわ」
それとも回りくどい貴方なりの肯定ですか。同じといかずとも、表情だけ笑みを作ったメイニーは続けた。
「お兄様方の事を聞きたいと仰るならば、きちんと理由をくださいませ。私は過去に、出すべきものは然るべき時、然るべき場所に出しているのですから」
「それと今回の事は別ですから。国のために今、必要な事なんですよ」
「ご冗談を。こちらの心情に配慮もせず、横暴すぎるとは思わないのですか?」
普段から、陰口に妬み、嫌がらせの多い女社会に生きてなお気にしない流石のメイニーも、我慢の限界だった。
「それでも何かを欲するというのでしたら、先ずは私の予想でも聞いていただきましょうか?」
シグムントの返答なんてものは、聞く気ない。
「例えば。エガリエルお兄様と、彼の地の王――――森の王との関係、とか」
「何の話をされているのです?」
「それはこちらがお伺いしたい所存ですわ。何か疑いがあるからこそ、こうしてかの偉大なる宰相様が、わざわざこ・ん・な、廃退した屋敷に直々にお越しになっているのではありませんか?」
睨み付けるように告げるが、目の前の男の表情は変わらない。ただ曖昧に笑っているだけだった。
その様が、余計にメイニーには悔しかった。
所詮何も持っていない小娘が、愚かにも噛みついてきている、くらいにしか思っていないのだろう。その余裕が何より腹立たしかった。
「どの様な思惑があるか、推し測るには容易いですが、私の口から語れることはありませんわ。エガリエルお兄様は――――もとい、バスティーユ家が三男、エガリエル・バスティーユは七年前より死にました。それ以上でもそれ以下でもありません。ご理解頂けましたら、どうぞお引き取――――――」
その先を、メイニーが語る事はなかった。否、語れないよう止められた。
喉元に突き付けられた鋭利な短剣が、ぎらりと輝いていたせいだ。
ゆっくりと、メイニーはその短剣を握る姿を見上げた。かっとなった頭は、思いのほか瞬間的に冷静になっていた。
いつの間に、この距離を詰めていたのか、とか。余りにも愉しそうにしている、とか。そんな事を、遅れて思う。
「随分と、躾のなっていない犬のようですね、宰相様。器を推し測られますわよ」
冷ややかに告げると、シグムントはやれやれと吐息を溢した。
「キーグ」
「いいじゃん旦那? 可愛い小鳥で遊んでるのは、そっちもだろう?」
オレも混ぜてよと、付き人の男はにんまりと口元に笑みを浮かべた。
「旦那が回りくどいって、オレも同感。あのバケモノ王だって、さっさと殺させてくれりゃいいのに、喋れなくしろって無茶言うし?」
「キーグ、余計な事を話すな」
初めて渋面したシグムントに、キーグと呼ばれた付き人の男は、くるりと振り返り大袈裟に肩を竦めた。
「いーじゃん! もうどうせ、小鳥ちゃんは殺すか取り込むか以外に、あんたの利になる方法はねぇよ? あんたのバラされたくない秘密、小鳥ちゃんは知ってるみたいだし?」
「あらあら何の事かしら。秘密とは解りかねますが、宰相様は、小娘相手と少々足元見すぎでいらっしゃるのですね」
齢十七の小娘に、歴戦の猛者がまともに請け合うとは元より思ってもいなかった。しかし、ここまで酷いのかと思うと、メイニーは怒りを過ぎて呆れてしまった。
「せっかくですのでご忠告です。今日私が屋敷から生きて戻らなければ、貴方を確実に破滅させられる準備を既に整えてあります」
はったりと思うかはご自由にどうぞ。そう澄ましてそっぽを向けば、キーグだけが腹を抱えてげらげら笑った。
「いいねえ! ほんと、相手構わず噛みつく姿勢、キライじゃないぜ?」
「あら。そちらが武力に訴えるのでしたら、私も少々方針を改めさせて頂く。それだけですわ?」
しれっとメイニーが告げると、またキーグは腹を抱えた。
目元に浮かんだ涙を拭った姿は、メイニーのかける椅子の肘置きに腰かけると、シグムントより余程偉そうに足を組んだ。
「折角だ、小鳥ちゃん? 答え合わせしようぜ? 旦那が隠している、秘密について」
「あら、当人は探られて痛い腹はないそうですが?」
「そういうのいいよ。お貴族様の腹の探りあいとかめんどくせーし。解りきってることを牽制しあうのやめて、素で話そうぜ?」
「それはいいのかしら? 雇い主を軽んじる行為は、貴方の首を絞めるのでは?」
「えっ、心配してくれるんだ? やっさし!」
感動して涙が出ると、わざとらしく目頭を押さえた姿に、メイニーが呆れてぐるりと宙を仰いだ。キーグはそれを見ると、途端ひらりと手を振りくすくすと笑った。
「でもザーンネンだなぁ。オレは誰かの破滅が見れればそれでいいからね。それが旦那の目の敵でも、旦那自身でも! 結果オレの首が絞まっても、オレには関係ないね」
「…………ああ、なるほど。貴方が破滅狂いの暗殺者ね」
「オレの事知ってんの? 嬉しーね。ますますお近づきになりたいな。あんたが旦那に強請りたい事って何? なんかあるから、この交渉を受けたんだろ?」
「貴方の方が話が早いみたいね。助かるわ」
ふうと肩で息をつくと、メイニーは再度正面を見据えた。
「私が押さえた情報は、そこの宰相様がバスティーユ家に――――お父様やお兄様に押し付けた、“犯罪行為の責任”について。お父様もお兄様も、非人道的な実験は行っていないわ。お兄様の事も、領民の皆様に行っていた事も、医療行為と同じでしたわ。貴方がお父様を丸め込み、好奇心の塊みたいなお兄様を利用して実験させて、それでいて非道と断罪した一連の証拠を押さえてあります」
勿論ここには置いてませんのでご安心を。にっこりと笑ってシグムントを見やると、僅かに眉間に皺の寄った姿があっただけだ。
その間、キーグはへえと頷きながら、暇潰しのようにメイニーの毛束を指ですいて遊んでいた。
「小鳥ちゃんの希望は?」
「決まっているでしょう? 禁書庫牢にて不当に扱われている、バニエルお兄様の解放。それから私やお兄様に、今後一切国の事に関わらせないこと。自由になったらもう、私たちの事は放っておいて」
「ふうん。まあふつーだな」
「余計なお世話よ」
鬱陶しさを感じてメイニーがその手を押しやると、隣はまた愉しそうにくすくすと笑う。キーグはひやりと冷たい指先で、わざとらしく首を掠めた。
「んで? 旦那への対価は」
「先程の情報を一切破棄するわ。バスティーユ家の汚名はそのまま引き受ける。取り戻そうとも思わないわ。宰相様はこれからも変わりない地位と生活を手にして、私たちは自由を得る」
「ホントにふつーだけど、旦那にしてみりゃ破格だわな? 牢からどうやって出すかって感じだけど? 国王を説得するのかオレを使うのか、ま、そこは旦那が決めるだろ」
「もちろん宰相様。実行して頂けないのなら、同じく私は貴方を断罪する方針で動きます」
「選ぶ権利ないのは流石の旦那も解っているさ。そこは心配するなって」
そもそも最初の方針を誤ってたしな、と。喉の奥でくつくつと嗤ったキーグは、本当にこの場を楽しんでいるだけなのだと解る。
「…………いいでしょう、メイニー嬢。しかし貴女が約束を守る保証はありますか?」
「宰相様と比べたら、私は余程正直に生きていますわ。肩書きを振りかざして被害者ぶるのはやめてくださいます?」
シグムントの言い分に、メイニーは不快に目を座らせた。ちらりと隣を見上げて、仕方なしと溜め息をつく。
「そんなに心配と仰るならば、私も破滅狂いの暗殺者さんに対価を支払って、お仕事をお願いしてもいいですわ」
「ぷっ! はははは! もー悪あがきしてないで諦めなって、旦那。今回は分が悪いって」
ああ、楽しいね。ころころと笑い転げるキーグに、雇い主は深く溜め息をついていた。
「お前はもう少し、自分の雇い主を擁護したらどうだ?」
「はっ、やなこった。オレはオレの快楽で仕事を選ぶことを信条としてるんだ。そこが承知できないやつからは仕事を受けねーし、あんたも承知で、オレをわざわざ連れてきたんだろ?」
「あら、お話はお済みになって? 宰相様は私の“提案”を引き受けて下さるって事でよいのかしら?」
「やむを得まい」
肩を竦めたシグムントは、だがと続けた。
「これだけは理解頂きたい、メイニー嬢。あの時ああしなければ、王の権威に関わっていたのだ、と」
「………………心に留め置いておきますわ」
「そーそ。小鳥ちゃんは、後はこの天下の宰相様の任せて、後は自分の身の安全に気を配っておけばいいってこった」
くっくっくと、喉の奥でまた笑ったキーグに、メイニーはただ胡乱な眼を向けた。
メイニー自身でも理解している。気を抜けば、あっという間に自分の足元を掬われかねないと言うことを。
交渉の場に立てる機会をずっと伺い、準備していたお陰でこの場はどうにかなった。しかし、次の瞬間も自分が優位に立てているとは限らない。
相手は何せ国の二番手。メイニーの想像がつかないほど、数多の謀略の中を渡り歩いてきた者だ。
溜め息が、無意識に再びこぼれた。
そんなメイニーに、キーグは目敏く気がついて、余談のように問いかけた。
「小鳥ちゃんはさ。旦那の話を聞いても例えば、あんたの死んだ筈のお兄さんが生きているかもしれないって、全く思わないんだ?」
「ありえませんわ」
メイニーは不快に眉を顰ませながら、首を振った。
「あの時、バニエルお兄様の理論とお父様の経験則からの考察、カストロフお兄様の彗眼、あるいは実行を以てしても…………エルお兄様を、病から救えなかったんですもの。……私もそれは確認しています。生きているとしたら、それは、エルお兄様の姿をした別の何かですわ」
「ふーん。だってさ、旦那」
残念だったね、と。最後まで愉しそうに笑ったのは、暗殺者の男だけだった。