天狼星
遠吠えだ。
冬を控えた朔の夜には決まって聴こえる。一匹の咆哮を追ってまた一吠。更にもう一吠。
「気になるか」
何度目かの寝返りを打ったとき、隣の寝床から父が尋ねた。
「青白い一等星が輝く夜は特別だ」
「なぜ?」
「あの星は彼等の祖。あれは祈りの歌だ。天狼の御許へ逝く輩への」
「天に狼がいるの?」
十になった息子の瞳は好奇心できらめいた。
「そうだ。大きな白狼だ。彼女こそがこの森の狼たちの母。天空から我が子を見守っている」
「みんな母さまに会いたくないのかしら」
「会いたいだろうさ。けど、生きているうちは会えない。だから天に向かって吠えるのだ」
遠吠えがいつも物悲しいのはそれ故なのか。会いたくても会えぬ母を想って哭くから。
「母の側に往けるのは死した狼の魂だけだ」
狼は森の王だ。この森には狼よりも強い獣はいない。狼が命を落とすのは、群れから離れて餓死するか、 縄張り争いに敗れて噛み殺されるか。苦しまずに死を迎えられるのは群れの王に恭順した狼だけだ。
「肉体の束縛から解かれ、安息を得る」
「死ななければ安らげないなんて、かわいそう」
「そう思うのは、彼等に対して失礼だ」
父は息子の幼い純粋さを窘める。
「己が敗れても、群れに紛れて生きる方が良いと思うか?」
「だってその方が、仲間と一緒にいる方が安心できるもの」
飢えもなく、その日の命を繋ぐための凌ぎも必要ない。
「彼等は生来、孤高だ。己が闘いを挑んで敗れた相手に頭を垂れて施しを受けるのを良しとしない。その恥を曝すくらいなら、孤独を選ぶのさ」
「でもそれで死んでしまうのじゃあ、おしまいだ。恥を堪えれば生きられるのに」
父は苦笑する。
「お前は優しい子だ。仲間を立てて我慢ができるのだな。人間にとっては、それも必要なことだ。しかしそれは、人間が弱いからでもある。身一つでは生き抜けぬ弱い生き物だから、群れを成し、家を建て、温もりを求める。しかし彼等は、違う」
父の眼つきが鋭くなった気がして、息子は布団の中で身を竦ませた。
「独りで生きる術を知っている。この森の中で如何にして糧を得て、何処で身を潜めれば安全か。獲物のどこに牙を立てれば殺せるか。成長した狼は己の命がどれほど強いのかを知っている。独りで生きることのできるものは、群れの中でみじめに生きはしない」
群れを作るのは、幼子を育てる必要のある狼たちなのだと父は付け加えた。
「でも、飢えて死ぬ狼もいるでしょう?」
「それでも良いのだ、彼等は。糧を得られなかったのは己の命が衰えた証。ならば自然の摂理のままに、己の弱さを認め、死を受け入れる」
「死ぬのが怖くないの」
「そうだな。己の強さを知るものにとっては、死すべきときが解るだろうから。徒らに死を怖れたりはしない」
それに、と父が言い差すと、また一吠。
「天には母御がおられる。強く気高く生きればその生涯を労ってくださる」
「天に向かう日は決まっている?」
「月のない夜は天狼星の光が一際強い。故に、死した狼の魂は新月の夜に彼女を目指す。迷わず辿り着けるように。そして無事に道行を終えた狼は、彼女を囲む星々となる」
夜空に散りばめられた微かな星々。その明暗の違いはきっと、命の強さの違いなのだ。けれど皆、己の強さと弱さを弁え、死の訪れを受け入れた気高い魂。
息子は遠吠えの合唱に耳を傾ける。
「独りで死んだ狼のために、なぜ他の狼たちが歌うんだろう」
「生来孤高の彼等は、独りで死を迎えることの価値を知っている。群れに属するものも、群れを離れて生きるものの強さを知っている。だから、狼の生を全うした同胞を讃えるのさ」
側近くで誰が見ていなくとも、己を偽らずに生きる者には栄光が差す。
「ぼくの母さまも見てくださっているかしら」
息子は会ったことのない母を想う。
「ああ、きっと」
父が大きな手を伸ばして息子の頭を撫でてやると、擽ったそうな、けれど満足げな笑い声を立てて布団を被った。
しばらく経つと小さな寝息が聴こえてくる。
「——生きよ。優しくも強く」
父は傍らの子狼の毛並みを撫でながら、終わらない遠吠えを聴いていた。