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明朝、ティラナはウゴリーノ区の真ん中に位置する噴水に腰掛けていた。
ミサの時間よりうんと早く目が覚めてしまった。まるで主人が早起きするのを予測していたかのように、トキはコーヒーをティラナのベッドに運び、朝の挨拶をした。
コーヒーを飲みながら身支度を整えると、ティラナはトキを連れ自室のあるエリア塔を出て、広場や森の中を散策した。
「みんなは?」
「皆様区に戻られずに、こちらに泊まられたようですね。夜にシル様にお会いしましたし、キアラ塔も灯りが点いていましたので、レオ様とレナ様も」
「そう……」
母なる地球に限りなく近づけた、見せ掛けの空はいつも通りであった。申し訳程度の人工雲を浮かべ、まるで無限の高さに広がっているかのように欺き、みよ、これが青の青さなのだと人に知らしめる。いつもならこの空はティラナを肯定してきたが、今日はそう思えない。敵に監視されているような気がして胸がざわつく。
森で隔てられているウゴリーノ区は、いつ何時でも静寂に包まれている。辺りにそよ風に揺れる木々の囁きと、噴水の流れ落ちる音が響き渡る。
昨日のことを考えれば考えるほど、ティラナは絶望の淵に立たされた。
政府と修道星庁と論じ合うのが億劫だ。彼らはこの事態になんと結論を出すのだろうか。ろくでもない解決策を考案しだす予感がする。
クルクスの王として鎮座し、護るはティラナであるが、クルクスの舵を取るのは政府と修道星庁であるから、嫌でも彼らと向き合わねばならない。そうして協議を重ね、さらにティラナは敵とも対峙しなければならない。
オトナはいつも、ティラナを過保護に甘やかし、大切にしてくれるが、しかしいつのときも、絶対に意見を聞いてくれない。議会においては、ティラナたち王家はただの子どもだ。いつの日も、的外れだ、お喋りが過ぎる、そう言って笑い、司教や官僚たちは女教王や准王の口を封じる。彼らにとって十六歳なんて三歳児と変わらない、いつまでも何もできない赤子扱いだ。
何も喋らない方が賢くみえるような気がして、ティラナは子どもの頃に比べてだんだんと口数が減った。威厳とは、こういうものなのだろう。
大教会の鐘が鳴った。一時課が始まる。いかなくてはならない。ティラナは重い腰を上げた。苦手な司教たちの顔が頭に浮かび上がり、昨夜の威嚇閃光のようにパッと輝いて消えた。
森を抜けた先に待ち構える大教会は、女教王を守るように、見張るように、ウゴリーノ区の視界をすべて奪ってそこに聳え立つ。
教会の中に入ると、ロザリオの祈りも終盤だった。
この教会に通うのは、この官僚や警備軍、そしてその家族達だ。出勤前や、通学前に通うような真面目で敬虔な信者たちがひしめく。後ろの席だと、もう説教をする神父など豆粒にみえるくらい離れている。
ティラナに気付いた信者たちが、小声で「御機嫌よう、我が女教王」と挨拶した。
真ん中辺りの列に座る見慣れた金髪頭と赤髪をみつけた。ティラナは脇の通路からなんとなくその席に近付く。
さっそく居眠りしているシルヴィオと、ロザリオを手には持っているが、祈ってる様子ではなくただ前を向いているアイリーンを覗く。シルヴィオたちは昨夜同じエリア塔に泊まっていたはずだが、ティラナたちが森にいる間にすれ違ったのだろう。
「ティラさま」
アイリーンがティラナとトキの姿に気付いたのと同じころに、「歌いましょう」という助祭のアナウンスが流れ、信者たちは起立した。ミサの始まりだ。アイリーンはシルヴィオを強く揺すって起こし、ハッと目覚めたシルヴィオは慌てて立ち上がった。
アイリーンは長椅子の空いているスペースを指して言った。「あの、お隣どうぞ」
「えっ、あ、うん」
みなが入祭の歌をうたい、司祭が入堂しているなか、シルヴィオ、アイリーン、ティラナ、トキの順番で席を詰め、前を向いた。
今朝のミサは、マリオ司教である。通称四季神父と呼ばれ、その名の通り、司教でありながら休みなく四つの区すべてに通い、人々の悩みを小さなものから大きなものまで親身になって聞くので、クルクスの民から厚い信頼を受けている。民のための司教だ。ティラナはホッとした。彼は非常に温厚で優しい老人だ。この人のミサならやすらぎの中で祈ることができる。
ティラナの安堵した顔をみて、隣のアイリーンがクスリと笑った。ティラナの考えが手に取るようにわかるのだろう。ティラナは思わず聖歌集を手に取り、テキトウに開くと口元を覆った。
それは、栄光の賛歌を歌い、司祭が集会祈願を唱い終えて着席するときだった。ティラナの手が、アイリーンの手に触れた。ティラナはサッと避けたが、頰に熱が帯びるのを感じ早く引くように願った。
ティラナの頭にはその後、司祭の説教が頭に入ることはなかった。
ミサが終わり、信者たちは足早に去る。日曜日のミサならばこの後は広間でお茶会が始まり、みなゆっくりお喋りを楽しむが、平日の朝に行われるミサはそれがなく終わると忙しなく去っていく。
広い、壮大な聖堂には四人だけが残った。
十字架に張り付けられたイエスキリストは高きところに飾られ、スポットライトで照らされている。やはりこの神の子の姿をみると、心が洗われるようだ。小難しい説教を聞くより、ただずっと、ここからキリストの顔を眺めていたいと、ティラナは幼少の頃から常々思っていた。
ティラナが十字架をきるのと同時に、シルヴィオもそうした。ふたりは顔を合わせると、お互いに頷きあった。
「おまえたち」
入口の重い扉を開き入ってきたのは、マーク大司教、通称冬神父だった。(冬神父がいるように、春神父、夏神父、秋神父と呼ばれる司祭・司教たちがいるが、彼らの紹介は機会があるときに改めてしよう。機会があればの話だが)
彼は険しい顔でティラナたちに近づいた。いかなるときも、彼はそのような顔をしている。彼の眉間に皺を寄せる癖は、厳しい眼差しを作り出し、そうして四角い眼鏡がさらにそれを強調する。
ティラナのぶっきらぼうですぐ睨む表情は、彼が大きく影響していると言えるだろう。勿論、本人の性格によるものもあるが。
彼はティラナとシルヴィオの育ての親と言ってもいい、他の神父とは違って密接した関係であった。乳母で世話係のローザが母親とするならば、この老人が父親だろう。厳しい人だった。
「久しぶりだ」
冬神父が温度のない単調な声でそう言うと、トキとアイリーンが深くお辞儀をした。
ティラナが言った。「お久しぶりです、我が司教。お元気そうで」
「ああ」
彼は最後までティラナたちが戦闘機に乗ることを反対し、怒るので、一年前から意識的に避けていた。そして恐らく向こうもティラナたちを避けている。
しばし気不味い沈黙が流れた。
その沈黙を破ったのは、底抜けに明るい四季神父の声だった。「やあやあやあ〜、これはこれは。お久しぶりの顔だねえ」彼はすでに祭服を脱ぎ、ワイシャツに着替えていた。
今度はシルヴィオが言った。「お久しぶりです、四季神父。あまりミサに出ずにいてすみません」
「いいんだよ、今日こうやって顔だしてくれたからね。でも少しでもいいから毎日心の中でお祈りするんだよ。いいかい」
「はい」
冬神父がツンと顎を上げた。冷徹な冬神父と、温厚な四季神父は、昔からあまり親しくしていないようだった。