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ティラナとトキは新十文字学園を出て、同じくC都内にある巡査局に向かって歩んでいた。
ティラナとシルヴィオの乳母であり、王家監査役であるミセス鴇畑(ふたりはローザと呼んでいる)は、十メートルでも歩くなら車を使うように言うが、ティラナはそれを拒み続けている。
C都は緑が豊かで、道にはゴミの一つもない。歩くことで、気分転換になるだろう。そしてなにより、此処には限られた人間しか滞在できないから、ティラナに狼藉を働く人間もひとりだって存在しない。学園から巡査局への道のりは大した距離でもないし、つまり、車に乗る必要などどこにもない。
それでも政府は、女教王の身を日々起こりうる事故や危険から遠ざけるために監視したがる。
ティラナはそれが分からぬほど子どもではない、しかしそれを素直に受け入れられるほど大人でもない。ティラナはいつも感じている、エレナとレオナルドは、ティラナたちほど拘束されていないということを。それを羨ましく疎ましく思う年頃であるのだ。
巡査局で過ごす時間は、ティラナにとって息抜きできるときでもあった。訓練に参加しているときは、会議室で考えなくてはならない細かな事柄を忘れ、ただ一匹の獣になるように、闘うことだけに集中した。目的はただ一つ。戦艦の未来ではなく、現在を護るために。
二人が見上げた巡査局と呼ばれるこの建物には、飛行訓練機やジムがあり、屋上はライカモス練習場として開放されている。
これまで此処は警備軍の訓練所として、または彼らの休憩所となっていた(この隣に立つ学園の校舎よりも大きい立派な建物は、警備軍局だ)。
一年前の事件の後、警備軍内で宇宙巡査飛行隊なるものが組まれ、巡査局が与えられた。隊員以外の警備軍諸君は、穢れに敏感な司祭の静かなる狂気のごとく、ぱったりと巡査局に寄り付かなくなった。いまや、ティラナたち王家を除くとたった五人でこの局を使っている。
その巡査隊五人のうち最年長の郡山影久が、入り口でティラナとトキを迎えた。
隊員は瞬発力のある若手が選ばれたので、彼も最年長とはいえまだ二十六歳である。警備軍らしい筋骨隆々の身体つきでしかし他者にはないような爽やかさを纏う彼が、ティラナに向かい腰をおり恭しい挨拶をする。
「ティラ様、ようこそお越しくださいました」頭を上げると、今度はトキに向かって軽く手を挙げた。「よお、元気か? 兄弟」彼らは同郷の出身であることから、よく打ち解けていた。トキも頭を下げ「はい! 本日もお世話になります」と挨拶をした。
「どうぞ、我が女教王。今日はおひとりなのですね。シルは?」
「さあ」と呟くだけで郡山の方を見向きもしないティラナの代わりに、トキが素早く答える。
「シル様は補習の授業があるそうで、レナ様とレオ様も講義が続いているので、後から一緒にいらっしゃいます」
「そうかそうか。それで、ティラ様、昨日訓練実機の内容をアップデートしたので、是非みていただきたいのですが」
一行はエレベーターへと乗り込み、郡山とトキは訓練実機のある三階で降りようとしたが、ティラナは降りなかった。
「ティラ様?」
「飛びたい気分だから、ウォーミングアップ兼ねてちょっと回ってくる」
「お一人ではいけません、ティラ様……!」慌ててトキがティラナを制止しようとしたが、エレベーターが閉まる方が早かった。
焦りふためくトキの顔をみて、郡山は「お一人になられたいのだろう。暇になったな、茶でも飲もう」と言って豪快に笑った。茶という言葉を聞き付け、控えていた隊員たちも一斉に現れた。
ライカモスを背に着けると、まるで一匹大きな蝶の姿になる。
ライカモス、名の通り、白銀のウィングの色合い的に考えれば、蛾かもしれない。戦艦内の空を飛行することができるその機械は、エンジンを背負い、そこから主翼が伸びる。はためかせて、一気に地面から飛び上がると、もうそこはどの建物より高い。
学園の制服のままで来てしまったな、とティラナは思った。いつもは隊員用の制服に着替えるのに、今日は早まってしまったようだ。
学園制服のいくつかあるパターンから、ティラナはスカートではなく、ショートパンツを選択しているので下は問題無い。しかし上着をボタンが無いタイプにしているので、パタパタとはためく音がうるさい。
せめてこれだけでも脱げば良かったと考えつつ、ティラナは更に空高く舞い上がった。ぎりぎりまで、高く、高く、宇宙とフィールドの境目まで。
よくみえる。此処C都ばかりでなく、C都に繋がる四つの島も。市民が住まい暮らすその島は、四季区。進行方向前に秋区、右手に冬区、背後に春区、そして左に夏区。まさに、この戦艦は十字架の形を成している。
ふうっと大きく深く息を吐き、ティラナは腕を広げた。こうすると、まるで自分の身体自身がクルクスになったような感覚に陥る。
この戦艦の盲目の碧い眼、流れを操る心臓、選ばれし者たちに掲げられた脳味噌、それはこのC都。
手足の肉と筋、植物の根より細かな毛細血管、頑丈な爪、それは四季区。
ティラナは確認するように、一つずつ島の方向を向き、最後にティラナに与えられている特別区、冬を眺めた。
四人の王家はそれぞれ、一つずつ四季区を与えられている。そうしてそれを、故郷だと思うように言われている(四人はC都内にある王家敷地ウゴリーノ区で育ったのに!)。
ティラナには冬、エレナには春、シルヴィオには夏、レオナルドには秋……。現在、ティラナ以外は、自分たちの区で暮らしている。
ティラナの自治区である冬区を思うと、今は少し苦い思いになる。去年、一年間休学して冬区でシルヴィオと過ごしていた。嗚呼、あの滞在のせいで、レオナルドがあんな目に遭うとは、誰も予想していなかった。
過去を責めるのはやめよう。ティラナは首を横に振った。
気を紛らわせるためにどのくらい遊んでいただろうか、その場で回転したり、逆さまになって(まるで宇宙を歩いているみたいに)フィールドの上を歩いていた。
ふと優しく名を呼ばれ、ティラナの逆さまの頭が抱えられた。
「頭に血が上っちゃうわ、ティラ」
「……レナ」
風に靡き、栗色に近いブロンドの長い髪がティラナの視界を囲み、目の前にはエレナの顔だけがあった。
エレナの甘い漂うようなまどろみの息に包まれたような気がした。エレナの声は、(その姿をみたことはないが)母が歌う子守唄のように心落ち着かせるのと同時に、海底へ引き摺り込む人魚(いやはや、これこそ本でしかみたことがないが)の歌声のように色めく怪しさがある。
エレナがティラナの手を取る。「さあ、もう一緒に降りましょう」
「……ああ、うん」そう言ってティラナが素直に従うのは、いつもその瞳に魅入られるからだ。
その翠の瞳が一体何を考えているのか、ティラナにはわからない。読めない。いつもそこにはティラナの碧の瞳とは違う光が宿っている。
遺伝子操作により見目に違いはあるけれど、根本のDNAは同じであるはずなのだ。不思議で、だからこそいつも見入ってしまう。自分と同じ人間であるはずのこの女を。
降下しようとふたりが下に目を向けたとき、不意に夏区の方面に閃光が走った。