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教師は緊張した面持ちで、窓側の奥に座るそのひとの名を呼び、問に答えるように言った。その日の最後の授業、数学の時間だった。西陽が入り込む窓の向こうをみていたそのひとは、視線だけをギロリと教師に向けた。
季節は進級も間近な七月。このクラスになってからもう一年が過ぎようとしているのに、教師はいまだそのひとに慣れることができない。
教師だけでない。そのひとの存在はいつだって教室に緊張感を与える。その教室にいる生徒はみな、息を止めてお互いそっと目配せをした。
静まり返った教室で、そのひとのナイフのような鋭い視線をおもむろに受けた教師はたじろぎ、謝罪の言葉を口にするべきか、いや、それではさらに不快に思われるかもしれないから、どうにか話を変えるべきか頭を巡らせた。
不穏な静寂を破ったのは、明るい青年の声だった。白に近い金髪頭が立ち上がり(背の高い彼が立ち上がったうえに手を挙げると、さらに大きく感じる)、笑顔で教師に向かってアピールした。
「はい! 俺、分かります!」
教師は神の救いを聞いた羊飼いのように、……いや、それよりも水をようやく与えられた魚のほうが近った。まったくそのような顔をして「えっ? あ、じゃあ、うん! シル君に頼もうかな」と、すぐさまシルヴィオに笑顔を向けた。
廊下側の、同じく一番後ろの列にいるシルヴィオに対し、そのひとは短い髪を揺らしてバッと勢い良く睨みつけた。シルヴィオも負けじと睨み返し、同じ碧の瞳がぶつかり合う。シルヴィオの背後に立つ彼のサーバント、アイリーンが心配そうに交互をみつめる。
「ティラ様」
そのひとの名はティラナという。声をひそめつつ、ティラナを嗜めるように呼んだのは、その背後に立つ彼女のサーバント、トキ(鴇畑一祐)だった。
トキは眼鏡に西陽が反射して眩しいのか、それともティラナを授業に集中させる為か、窓を遮断するように無言で横にずれた。ティラナの舌打ちは再開された授業で掻き消され、おそらくトキだけが聞いていた。
女教王。それはこの戦艦クルクスがなによりも大切に育んできた、市民のための百合花。穢されてはならぬ、この戦艦の象徴と名誉。彼女が抱くは希望、背負うは歴史。市民にとって従うべき母であり、護るべき娘である。
市民は女教王を讃え、敬い、そして彼女の為に神に祈ることで、いつでも心に一つにしてきた。女教王への熱い信頼が、この戦艦の秩序の波を穏やかにする。孤立した島であるこの戦艦は、なによりもそれを護らねばならない。
さて、地球を出発し旅を続け七五四年(これをこの戦艦では復活歴と呼ぶ)、いつの日か気が付くと、クルクスの王家は四人、という定めを生み出していた。
女教王の血を絶やさぬようクローンという錬金術を用いて量産する過程で、予想外の問題や困難を乗り越え(これはあまり多言しない方が良い。何故なら市民は知り得ぬ情報であるのだから)、また世論なども受け入れ試行錯誤し、新たに女教王の男兄弟である准王という位も創ったりして、結果、人数は四、男女の比率も一対一であるのが丁度良い、ということなったのだ。
女教王の名はティラナ、准王がシルヴィオ、以下王家がエレナ、レオナルド。揺るぎない象徴となるために、彼らはその名を踏襲する。
踏襲前の子らは、勿論扱いは特別なものを受けるがしかし、決して王家とは呼ばれない。子一同が王家となるとき、今度は前代四人全員が王家から外れ、一般市民となり自由に暮らす。子らは通常、幼名を捨てその名を継ぐのだが、ただ、現王家はそうではなった。
前代四人が相次いで死に、産まれてすぐに踏襲したので、彼らにはこの名しかない。踏襲年、つまり生まれ年である七三八年が、歴史の上での彼らの唯一の名前であった。
授業を終え、足早に玄関へと向かおうとするティラナのあとをシルヴィオが追った。廊下で彼らが横に並ぶと、その一歩後ろには、主人らと同じようにふたりのサーバントも並ぶ。
准王の伸ばしている横髪がふわりと浮き、その顔は彼の姉へと向いた。
「ティラ! いつも言ってるけど、ああいう態度やめろよな。俺はみんなと仲良くしたいんだ」
「教師であっても、気安く名を呼ばれる筋合いはない。お前はお前で勝手に仲良くしてればいいだろう。私には関係ない」
「お前のせいで俺までみんなと距離置かれるんだよ。お前がわざと緊張させるから!」
ティラナはぴたりと足を止めた。
低く唸るような声で「女教王の威厳を保つためだ」と険しい顔付きで言った。「日常に潜む敵はなんだ、シル。私たちにとっての敵は? お前もよく知っている」
シルヴィオは僅かに慄きながら「……若さだ」と答え、それからすぐ作戦を変じるように、今度は眉を下げ、声変わりする前の子どものような顔で「でもみんなも、俺らも、まだ学生なんだ。学校くらいはそんなの関係なく楽しくやりたい」と言った。
こういったふたりの衝突は、一年前のある事件をきっかけに大なり小なり度々起きていた。事件に対してティラナが感じている焦りや苛つきは、日々では平常を装っているにしても、一緒に育った双子のシルヴィオにはよく伝わるようで、それが彼には無意味な忌避感を生ませたのか、(事件以降の政治に関して)ティラの意見には同調せずことごとく反抗している。今こうしているように、日常の些細なことでも。
同じ顔のふたりが正反対の面持ちをしているなか、中庭を挟んだ向かいの、上級生クラスの校舎からふたりの名を呼ぶ者たちがいた。ティラナとシルヴィオにかなりよく似た、しかしところどころ差異のあるふたりの生徒。そのうちの男子生徒の方が「ティラとシルは、今から練習?」と尋ねた。
シルヴィオが「ううん、俺は国語の補習!」と返すと今度は女生徒の方がこう返した。「わたし達も今日はこれから特別講義があるの! ティラ、練習はあとからシルと一緒に行くわ」
シルヴィオは頬を染めて、満面の笑みで身体を弾ませ、その縦に長い大きな身体でオッケーサインを表現してみせた。ティラナはそれを横目でみてため息を吐くと、向かいのふたりに向かって、小さく頷いてみせた。
さっきの言い合いなどとっくに忘れたシルヴィオは、息を巻き「なあ、なんで俺たち同い年なのに、レナもレオも大人っぽく感じるんだろう?」とティラナに尋ねた。「学年が上だと、やっぱりそう感じるのかな」
「お前があまりに子どもっぽいんだよ」
「えー、ティラと変わらないだろ」
「はあ?」
再び歩き出したふたりの足並みは、ゆっくりとしたもので揃っていた。彼らのクローンで、同じく王家の兄弟であるエレナとレオナルドの存在は、ふたりにとって心を落ち着けるための、唯一の手段でもあった(ただしこれは当人たちはまったく気付いていないのだが)。