プロローグ
あなたは激しい討論の末に、人類の原点を持ち出そうとして、しかしやめた。
これ以上あなたの言い訳に聖書を用いれば、きっとあなたは地獄に落ちる。討論の相手もあなたが言い掛けことが解ったようで、あなたを叱るその目を更に釣り上げた。(あなたはこう言い掛けた。「我々は皆、アベルを殺したカインの末裔である、彼を産んだのは泥から作られた男と、その男の肋骨から作られた女だ」これに対して、きっと相手はあなたにこう言うだろう。「お前は全ての罪を犯した」)
あなたの身体は震えていた。胸に恐怖の色が広がり、それはあなたの心臓の穴となる。相手の者は怒りを通り越し、まるであなたを嘲笑っているようだった。その残酷な口元の微笑をみて、あなたは漸く己の罪の大きさを知った。
「これ以上話すこともあるまい」
その者はあなたに背を向けた。あなたは己の手でぐっと口を抑え、お願い赦して! と叫びそうになるのを堪えた。代わりに、嗚咽が溢れる。
あなたは赦されない。例え誰かがあなたを赦そうとも、もうあなた自身があなたを赦さないだろう。それに何より、その者があなたを赦さねば何の意味も無い。
あなたはその者が塔から出て行く姿を上から見届けると、最上部にある部屋へと向かった。
時間は深夜一時過ぎ。一時間後には修道士が一斉に起床し、暁課の為に活動を始める。今あなたがいるこのウゴリーノ塔にも花を生けに来る。それは見回りを兼ねているのだ。二人一組となった見習いの修道士が、きっとあなたの元へ訪れるだろう。
あなたはその部屋に静かに足を踏み入れた。此処は他の部屋と違う。桃色と水色の星の飾り、またその同じ二色の雲が壁を彩り、空を描く。それは、あなたの子のための部屋。
中心に並ぶ二つの小さな寝台を覗き込んだ。すやすやと眠る、産まれたばかりの子がふたり。途切れそうで途切れないオルゴールの音色が鳴り続けている。母乳の鼻をくすぐる匂いと、なにかの花の香りがあなたの涙を拭うようだ。
愛しい、あなたの子ら。あなたの罪の血を、受け継ぐ悪魔の子ら。願わくば、この血に終わりを。
あなたはあなたの手を、あなたの子の片方にかけた。静かに目を覚ましたその子と、瞳が合う。あなたと同じ灰色がかった碧い瞳の子。ノドの地を流離いながら生きるであろう子よ、恨むな、此処で死んだ方が民衆とこの戦艦の為になる。
時があなたの背後を通り行く。……できない、どうしても。
あなたは見開いていた眼を閉じ、力なくだらんと手を下ろした。どんなに己を奮い立たせても、腹を痛めて産んだ我が子を殺めることはできなかった。
されどあなたは知っていた。あなたが手にかけずとも、この子らは自ら破滅に向かうだろう。そう、それはまるであなたたちのように。
あなたはもしもの為に用意しておいたあるモノを、胸元のポケットから取り出した。あなたは無意識的に想定していた、あなたがあなたの子を殺められないことを。だから何週間と前に、これを用意しておいたのだ。
あなたの涙は、あなたの熱を帯びた頬によって枯れた。あなたは二人の子の頭を撫で、そして、ひとりの耳の裏にそれを刺し込んだ。あなたが殺した、もうひとりのあなたを想いながら。
ああ、もう、修道士が起き始めたようだ。森の先にある大聖堂の光が灯された。あなたは子らの寝台に背を預け座り込み、己の首にナイフをあてがった。
そうだ、さっき、ひとつ間違えた。ノドの地を流離うのはこの子らでない、あなたたちでもなかった。この戦艦だ。既に何百年と、その果てしない地に迷い込んだ仔羊のようにウロついているのだ。
あなたを襲った不幸の全ては、おおよそこの戦艦が原因であるに違いない。罪はこの戦艦に染み込んでいる。
しかし、それはもう、あなたには関係のないことだ。あなたは部屋の隅にスイセンの花をみた。