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幻影  作者: 篠井 秋生
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アパートの部屋 その3 〜エリが残していったもの〜

どうやら人というものは、突然予想外の事態に遭遇すると思考も身体も固まってしまうものらしい。


一年前、チャイムに催促されて渋々ドアを開けたオレの前に、エリが立っているのを見た瞬間、オレの頭の中は『何故ここにエリがいるのか?』という疑問よりも、まずあり得ない状況に理解力が追いつかず、文字通り真っ白になってしまった。


ドアのノブをつかんだまま、石像みたいに突っ立ってるオレに向かって、エリがちょっと困ったような笑顔を浮かべたのを覚えている。


「元気?」


どことなく伺うような声の響きに我に返ると、内心の動揺を表すように、答えるオレの声はしぜん、大きくなった。


「『元気?』じゃないだろ⁈なんでエリがここに居るんだよ?っつーか、なんでここが分かったんだ⁈」


「あー、うん、それはあの…」


エリは視線をうろうろと彷徨さまよわせると、言いにくそうに口ごもった。


(ああ、そうか……)


「『なんで分かった⁈』もなにもウチの親父…だよな?此処の場所知ってんのはあの人だけだし」


「……うん」



実家を出るとき、あれほどみんなに居場所を教えるなと念を押したのに、よりにもよって親父は一番教えて欲しくない人物に口を割ったらしかった。


(くそっ!あんのバカ親父!なんでコイツに住所教えてんだよ!)


心の中で思い切り悪態をつく。

恐らく、エリに尋ねられてーーいや、エリだったから親父は教えたんだろう、そう思った。


長らくオレ達が付き合っていたことを知っていた親父は、明るくて社交的なエリを気に入っていた。

『別れた』と云った時は、いつも余り感情を顔に出さない親父が、珍しく残念そうな表情を見せていた。

あわよくば、と思ったかどうかは知らないが、とはいえ、それとこれとは話が別だ。


せっかく気持ちが収まってきていた矢先に、コレは無いだろう。


冷たいようだがその時のオレには、突然訪ねてきたエリを部屋に入れる気は無かったし、話をするつもりも全くなかった。

だから、出勤間近を理由にていよく断り、そのままドアを閉めようと思っていた。


だが、そのときエリが小さな咳を何度かして、よく見るとショートヘアから覗く耳たぶが真っ赤になっているのに気がついた。


ーーもしかして、暫く外に立っていたんだろうか。


そんな考えが頭をぎり、まるで見た風景のように、エリがドアの前に立ってチャイムを鳴らす手を逡巡させている姿が頭の片隅に浮かんだ。


相変わらず固まっているオレに、エリがぽつん、と呟いた。


「…私、中にはもう、入れてもらえないのかな?」


ハッキリとした口調なのに、声が微かに震えていたのは寒さのせいだろう。

綺麗に化粧した目元が僅かに赤くなっていたのも。


混乱してぐちゃぐちゃになった頭は、寒さも相まって使い物にならなくなり、大きな溜め息だけが口をついて出た。


「……オレに何か用があるのか?」


「…うん」


「……なら、入れよ。ただし手短かに頼む。あと一時間で仕事なんだ」


「……うん!」



部屋に入ったエリは、最初のうちこそ変なハイテンション、次にはだんまりだったが、やがて東京の店を辞めてきたこと、もう一度やり直したいこと、住んでいたアパートも引き払ってしまい、行く場所が無いことを告白してきた。


余りの事の成り行きに、オレはいた口が塞がらなかった。


「はぁ?一体なに考えてんだ、エリ。仕事、順調だったんだろ?店辞めたってなんで……。しかもアパート引き払ったって」


「あれから私なりに色々考えたの。私、自分のことばかりでリョウをかしすぎた。リョウの気持ちを考えてあげられなかった。でも今度は自分の気持ちだけを押し付けたりしない。やっぱりリョウと一緒に居たいんだ。だからお願いします。ここに居させて下さい」


そう云って頭を下げられてしまうと、オレには断るのが難しくなった。


実際のところ、エリに対して全く何も無いかといえば、気持ちは心の奥底に、まだ熾火おきびのようにじんわりと残っていた。

あんなに仕事第一だったエリが、一番大事だったものを蹴ってまでオレを優先したことも嬉しくない訳が無かった。


ただ問題なのはーーオレの気持ちが一年前とほぼ変わっていないということだった。



『この先、一緒に居たとしても、エリが望むようにはもう変われないかも知れない。それでも構わないなら』


ずるい言い方だった。

けれど、そう云ったオレの言葉に、エリは小さくうなづいた。




コンロにかけたやかんがけたたましい音を立てたので、ハッと我に返ると、白い蒸気がやかんの注ぎ口から勢いよく噴き出して、漏れたしずくがコンロの上に溜まっていた。

いつの間にかボンヤリと考えに耽ってしまっていたようだ。


急いで火を止め、彼女のカップをどうしようか視線を巡らせると、台所の隅に新しく広げられた半透明のゴミ袋が目に入った。


分別の注意書きがしてある薄いビニール越しに、花模様の茶碗や箸、皿の形が透けて見える。


エリが出て行く前に捨てていったものーーいや、残していったものということになるんだろうか。


雑貨や小物類、キッチンツール、靴やバッグ、それに洗面用具。

残していったものの中には洋服もあって、こちらは同居してすぐエリ専用にさせられた、元オレ用の小型の黒いチェストに入りっ放しになっている。


まだ一週間しか経っておらず、分別の日が来ないのでそのままにしてあるのだが、部屋の其処此処そこここに残されているエリの気配が視界に入る度に、自分でも知らず、溜め息が口をついた。


(もう、よそう)


オレは洗いカゴの中の赤いマグカップを手に取ると、広げたままのゴミ袋の中にそっと捨てた。


それから余分なカップがあったかどうか、シンク下の物入れを開けると、運良く随分前に商店街の福引きでもらった二客組みのコーヒーカップが、箱に入ったまんまの状態で見つかった。


そのうちの一つを取り出すと、手早く洗って湯気の立つコーヒーを淹れ、ローテーブルの横に座っている彼女の前に置いた。


「砂糖、いる?ミルクは?」


オレの言葉に彼女ーーユキは小さく首を振った。


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