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幻影  作者: 篠井 秋生
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アパートの部屋

雪が所々凍る暗い夜道を注意しながら歩いて、目指すアパートの前に辿りついたのは、それから十五分以上後のことだった。


「…ふぅ。やっと着いた。ここ、オレのアパート」


そう云って建物の前で立ち止まると、彼女はアパートの前の表札を読んで、それから少し不思議そうに首を傾げた。


「……ローラ…ハイツ?」


「そう、『ローラハイツ』。ビックリするだろ?初めて来たヤツは、みんな名前見てビックリするよ。どう考えてもここに『ローラ』は無いもんな?」


オレ達の目の前に建っている建物は、


『これこそまさにローラハイツ!』


などという煌びやかで新しい代物ではなく、むしろ『ローラ』などという華やかな名前を背負うには気の毒なくらい年季の入った、古びた二階建ての建物だった。


「えっ、と、なんで『ローラ』なんでしょう?」


それは至極もっともな質問だ。


オレがこのローラハイツに越して来た時も、全く同じことを思った。


此処に住み始めてまだ一年弱といったところだが、毎日外から帰ってくる度にツッコミを入れたくなるのは、もはやさがだろう。


どこをどう見ても、どう考えても、(名付け親の)大家を除いて、このアパートに『ローラ』なんて洋風の名前が似合うと思っている人間がいるとは思えない。


こういってはなんだが、


「ローラハイツ?はぁ?なにソレ?」


というカンジなのだ。

むしろ、『と○わ荘』とか『清風荘』とかの方が大抵の人間にはピン、とくるんじゃないだろうか。


外観は一言で云うと、刑事ドラマかなんかでよく容疑者が住んでるような、思わず「昭和かっ!」とツッコミを入れたくなるような造りだ。


今時あまり見かけない青い屋根、登る度にカンカンと金属音の響く外階段、二階の通路の手摺りは塗装の剥げた細い金属の棒で、まぁ、大丈夫なんだろうが、見た目怖いので余り近寄らないようにしている。


一階に四世帯、二階に四世帯の、計八世帯が入居出来るが、いま現在は一階に二世帯、二階にも二世帯と、実質半分しか入居者がいない。


外階段を上がって、左に進んだ一番端っこのドアがオレの部屋で、四畳半と六畳の和室が一部屋ずつと通路に面した小さな台所、それに風呂とトイレ付きで家賃は2万ちょい。

まぁ、周りに何も無いのがたまにキズだが、帰って寝るだけの生活を送るだけなら、そうそう不自由も感じないので、とりあえずここに落ち着いている、といったところだ。



「なんで『ローラ』なのかは、部屋入ってから説明するよ。ここ、寒みーし」


オレは階段を上がると、グラグラしているドアノブの鍵穴に、これまたオモチャみたいな小さな鍵を差し込んでドアを開けた。


靴二足並べたら一杯になるような狭い玄関で、履いていた靴を無造作に脱いだ後、邪魔にならないように端に寄せる。

冷え切ったPPの床を踏み、台所に付いている電灯の紐を目見当で引っ張ると、カチカチと微かな音がして明かりが灯った。


「ホント、狭いトコだけど」


オレが電気をつけるまで、ドアの外で立ったままその様子をジッと見ていた彼女は、一瞬、躊躇ったあと、玄関に足を踏み入れた。


「お邪魔します…」


ちょっと、恐る恐るといった感じで中に入ってきた彼女は、続けざまに明るくした部屋の中を不思議そうにためつすがめつしていた。


「あ〜適当にその辺座ってて。今、着替えたらお茶でも淹れるからさ」


「私、淹れましょうか?」


「気ぃ使わなくていいよ。それより座れるところ作った方がいい。ベッドの上のクッション、きれいだから座布団代わりに使っていいよ。あと、コート掛けるなら、そこのハンガー使って」


とりあえず云うだけ言って、ヒーターのスイッチを入れると、オレは風呂場に直行し、着ていた作業着を脱いだ。

脱衣カゴ代わりに下げてあるビニールの手提げ袋に脱いだものを全部突っ込んだ後、部屋着用のトレーナーとスウェットのズボンに着替えて、微妙な気分を変えようと顔を洗う。

ひとしきりバシャバシャと擦って濡れた顔を上げると、白い蛍光灯の光の下のそれは鏡の中で覇気の無い表情を晒していた。


(冴ねぇ顔……。ま、今更か)


それから茶を淹れるために台所に戻ってみると、結構な時間が経っているにもかかわらず、彼女は居間代わりの四畳半でまだ座りもせずに立っていた。


「なんだ、座ってれば良かったのに」


声を掛けたオレに彼女が言った。


「場所は作ったし、コートもハンガー借りました。後は部屋の中をちょっと拝見してました」


「改まって見るようなたいしたもん、別に無いだろ?」


「他所のウチの様子ってなかなか見られないから、ちょっと、個人的興味」


「に、したって何にもねーよ?」


オレは水を入れたヤカンをコンロにかけると、いつも使っている自分用の青いマグカップを洗いカゴから取り出した。


「ウチ、コーヒーと緑茶しかないんだけど、どっちがいい?」


「リョウさんは?」


「コーヒー」


「じゃ、私も」


「インスタントだぞ」


「はい」


同じものでいいと言われ、いつもの要領で同じ洗いカゴの中にあった赤いマグカップを取りかける。指先が触れる寸前でハッとして手を止め、少しの間視線を止めた。


オレの使っている青いヤツと色違いのそれは、一週間前に出て行ったエリが使っていた物だった。

まさか出て行くとは思ってなかったから、最後に使った後、いつものようにキレイに洗って伏せておいたのだが、以来、ずっとカゴの中に伏せっぱなしだ。


(さすがにコレは使えねーな…)


無意識に小さく溜め息が出る。

目に鮮やかなその色に、何故だか責められているような気分が戻ってきた。



最後に口喧嘩した晩、いつもはテンション高く応戦するエリはやけに静かだった。

いや、言っていることはいつも通り辛辣だし口が立つ女性特有の容赦のない内容だったのだが、アイツ自身の態度がまるで違っていた。

今まで何度話したか分からない会話の繰り返しに、双方ともいい加減ウンザリして強引に話を切り上げた後、いつもなら食い下がってくるエリが、小さくため息を吐いてポツリと呟いた。


「結局、あなたは…何も築こうとしてないのよね」


静まり返った部屋の中に、言い捨てられたようなその口調が妙に響いたせいもあるだろう。


エリの言葉は思いがけないほど深く、オレの胸に突き刺さった。


帰宅直後のことだったので、オレは汚れた仕事着のままだったが、テーブルの上に置いたばかりのサイフと煙草と部屋の鍵をポケットにねじ込むと、そのまま部屋を出て、その晩は駅前のカプセルホテルに泊まった。


翌日の朝、いがらっぽい気分で仕事に出かけて戻ってみると、いつもなら明かりのついている部屋の中は真っ暗で、エリの姿はどこにも無く、掛けてあったアイツの服とか靴とか鞄とかがいくつか無くなっていた。

それまで押入れに強引に仕舞ってあった、アイツ専用の「いつ、使うんだよ、このバカでかい鞄!」とツッコミを入れていた旅行鞄も無くなっていて、そこだけ可笑しいくらいぽっかりとスペースが空いていた。


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