きよしこの夜 その12 〜リョウの告白〜
「律が自分の分を作り終わって、皿をテーブルに置いたのと、オレが殆ど飲み込むようにして自分の皿を空にしたのは、ほぼ同時だったと思う。
オレは食べ終えた食器を片手に立ち上がると、急いで流しの桶にそれを冷やして、そのままアイツの顔も見ずに足早にその横をすり抜けた。
(ご馳走さん)
小さく礼を云って自分の部屋へ戻ろうとしたんだが、その途端に背後で律の慌てたような声がしたんで、つい、その場で足が止まっちまって……何だか分からないが、その瞬間、『しまった!』と思った」
「『しまった!』…ですか?」
後部座席から、少し不思議そうな声がした。
「どうして?」
「それについては後になって、イヤになるほど思い知らされることになる。ちょっとした予感みたいなものだったんだがーー今はとりあえず話を元に戻そう。
(兄ちゃん!)
(…………。ナニ?)
台所の入り口で足を止めちまったんで、仕方なしに振り返ると、自分で呼び止めたクセにオレが待つとは思わなかったのか、律は少し驚いた様な顔をして、こう云った。
(えっ…とさ、あの、実はちょっと話したい事があるんだけど…今、いいかな?)
(…………いいけど、何?)
(あ、あのさ、オレ学校の先生と就職の話の中で、渋谷にある『K』ってお店を勧められたんだ。兄ちゃん、そのお店…知ってる?)」
ーー『知ってる?』だって?その店を?
知らない筈が無い。
いやーー知らない筈が無かった。
『K』はこの業界では名前の通った、いわば『老舗』で、しかも、もう何年にも渡って優秀な美容師を排出している、超有名店だった。
『厳しいが、あそこで頑張ればひとかどの将来は保証される』
そう言われるくらい、技術の指導には定評があって、ヤル気がある人間には、どんどんチャンスを与えるというのも有名な話だった。
「…まだ学校に居た頃、オレも就職先の一つとして『K』を希望していたが、当然、その門は非常に狭く、選考基準がとても厳しかった事もあり、講師からは推薦に対しても予測出来る結果に対しても、色良い反応は貰えなかった。いわば、『片恋』の相手ってワケだ」
「リョウさんは…そのお店、受けなかったんですか?」
「いや…」
オレはフロントミラー越しにユキに視線を向けると、分かるように僅かに首を振った。
「ーー実際、諦めきれなかったオレは、ダメ元で履歴書を送った。だけど案の定、書類選考の段階で何十倍もの競争率をかいくぐる事が出来ずに落とされて、二番目に希望していた店に就職したんだ。つまり、面接にも漕ぎ着けられなかった、ってワケ」
ーーそれなのに。
「律は、続けてこう云ったんだ。
(兄ちゃん、先生がそこの書類選考に通ったから、ぜひ面接を受けた方がいいっていうんだ。だけどオレ、学校を卒業したら、父さんに色々教わりながら、一刻も早くウチの店を手伝いたいと思ってて……見てると父さん一人じゃ大変そうだし…それで、その…兄ちゃんにちょっと相談したいって思ってて……)
律はーーーーオレがその店に就職を希望してた事も知らないし、ただ単にーー純粋にーー進路を相談したいに違いない。
それはアタマでは解っていた。
だけどオレは……オレの胸の中にはその時、かつて感じた事もないドス黒い何かがみるみるうちに拡がって、自分自身でもどうしていいか判らないくらいの激しい怒りがこみ上げてきたんだ」
怒り。
そう、あれは紛れもなく『怒り』の感情だった。
しかも理不尽極まりない類いの。
ハンドルを切りながら当時の事を思い出し、胸の中がみるみるうちに冷えていくようで、ひどく息苦しかった。
その時の自分がどんな表情をしていたのか、考えたくもない。
いつの間にか握りしめていた拳が、その為に微かに震えていたことも。
「口の中はいつの間にかカラカラに乾ききっていて、話し始めると上手く呂律がまわらないような気がした。
(………じは)
(え?)
声が掠れたせいで聞き取りにくかったんだろう。
オレが口を開くと、律は小さく尋ね返した。
(親父は…何て云ってんの?)
オレが尋ね返した事で相談に乗ってもらえると思ったのか、律はそれまで強ばっていた表情を、そのとき少しだけ明るくした。
(父さんは、せっかくのチャンスだし、店は暫く自分一人で大丈夫だから心配するなって。それより今は外に出て、経験と技術を身につけて来い、って云ってる。せっかくのチャンスだからっていうんだけど、でも面接を受けても受かるかどうか分からないし、別にオレは何処でも勉強出来ると思うんだ)
ーー何処でも?
(どうせ技術を磨くなら、父さんの所を手伝いながら頑張った方が良いんじゃないか、って思ってて…)
(でも、学校の講師が推してくれてるんだろ?あそこの面接が受けられるってことは、ほぼ見込みアリってことだ)
オレが答えると、律はちょっと不思議そうに尋ねてきた。