きよしこの夜 その7 〜リョウ〜
「アイツ、あんまり物怖じしないタイプだったからさ……初めてオレん家に来た時も、オレのことはそっちのけで、親父とふたり仲良く盛り上がったりして、付き合ってる頃は、オレが居ても居なくても結構平気で家に来てたりしてたんだよ。時間があるときはメシ作ってくれたりなんかしてさ……もともと気がきく方だったから、まぁ、なんやかんやオレ達の面倒をみてくれてたワケなんだけど、気がついたら、いつのまにか親父のお気に入りみたいになってて…。親父にしてみると、同じ美容師ってこともあって付き合う相手としては余計に良いと思ったのかも知れないな。だから、オレ達が別れることになった時、一番残念がったのは他ならぬ親父で、いつもはオレに関する事なんてなんにも訊いてこないクセに、その時は珍しく理由を知りたがって、よくオレに話しかけてきたりしたよ」
「リョウさん…」
「ん?」
「リョウさんは……その…お父さんに話したんですか?……エリさんと別れることになってしまった理由を」
ユキの問いに、オレは首を振った。
「いや……オレは何も云ってない。親父には…そのことについては何も云わなかった…」
いまだに感じている後ろめたさを表わすかのように、会話の最後が揺らいで途切れる。
(……あの頃、エリと別れた理由を親父に云わなかったのは、『云わなかった』んじゃなく、正確には『云えなかった』んだ…)
当時のことを思い出し、ざわつき始めた気持ちを落ち着けたくてわざと会話を止めると、意識的なのか、無意識なのか、ユキはそれ以上会話の筋を引き戻そうとはせず、そのまま静かに食事を続けた。
追求されなかったことにホッとして、思わず小さなため息が漏れる。
オレは湯が沸くまでの間にシンクの中の食器を洗うと、頃合いを見計らってユキに声を掛けた。
「……今、食後のコーヒー淹れるから。それで、どう?ケーキもまだ食えそう?」
オレの言葉にユキはコクン、と頷いた。
「はい、大丈夫です。食べられます。ちゃんとその分の容量は空けておいたので。ちなみにリョウさんの方はどうですか?」
「あ〜、オレ?そうだな…少し…だけ貰おうかな。結構、腹一杯で」
オレが苦笑しながら答えると、ユキは椅子から立ち上がって、食べ終えた食器を持って来た。
「あ、それシンクの所に置いといてくれればいいよ。それより、そろそろ湯が沸くから、ケーキの皿、用意してくれるか?」
「あ、はい。それじゃ、私、ケーキを切りますね」
ユキは棚に置いてあった皿を取り出してテーブルの上に置くと、冷蔵庫を開けて昨日のケーキの残りを取り出した。
そしてオレがコーヒーを淹れている間にそれを綺麗に切り分けると、用意した皿の上に手際よく乗せた。
食事の済んだテーブルの上に、コーヒーとケーキが並ぶ。
ユキのケーキには、昨日取って置いたチョコレートのクマと雪だるまの飾りを忘れずに乗せた。
「……やっぱり、食べちゃうのは勿体ない気がします…」
飾ったクマと雪だるまを少し困ったように見つめながら、遠慮がちにケーキの端っこをフォークで突っついているユキの姿を見て、オレは思わず口許が綻ぶのを感じた。
ささやかな幸せ。
そんな言葉が胸を過ぎる。
此処を出てしまえば、ユキのこんな表情を見る機会はもう二度と無いのかも知れないーー。
そう思うと、オレはユキが目の前で見せている柔らかな表情から、暫く目を離すことが出来なかった。
「いただきます」
一口で食べるには大きいケーキの欠片を半ば強引に頬張りながら、オレはユキに先程から考えていた予定を告げた。
「……オレさ、コレ食い終わったら駅前に出掛けてくる。クルマ借りたり、なんやかんやで二時間くらいかかると思うから、その間、アンタは此処で待っていてくれ。出掛ける準備をしておいてもらって、それでも時間が大分あると思うから、今のうちに少し休んどくといいよ。予定では六時くらいに出発しようかと思ってる。その頃には陽も落ちてるだろうし、向こうへの到着時間もちょうど良いと思うんだ。それでどうだろう?」
「はい、大丈夫です」
ユキは持っていたフォークを置くと、オレに向かって深々と頭を下げた。
「…宜しくお願いします」
「了解。じゃ、そうしよう。…あ、ほら、頭下げなくていいからケーキ食って、食って」
オレは自分の分のケーキを三口で食べ終えると、カップに半分ほど残っていたコーヒーを一気に飲み干した。
「ご馳走様でした。あ〜、美味かった!で、まだ食べてるのに悪いけど、出掛ける前にちょっと一本だけいいか?」
オレは食器を片してから、手近にあった煙草の箱を手にしてユキに見せると、コンロの前に立って取り出した煙草に火をつけた。
止まっていた換気扇を回して、吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出すと、コーヒーでも完全には消えなかった甘い余韻が、口の中から瞬く間に霧散する。
甘いものを食べたせいで、より一層強く感じる煙の苦味に少しだけ顔をしかめながら、オレは胸に溜まり始めていた言葉をポツポツと口にした。
さっきまで大きく波だっていた感情は、ほんの少しだけ治まっていた。
「さっき…親父にはエリと別れた理由を教えなかったって云っただろ?当時はさ、そんなのは云うような事でも無いっていうのが、心の何処かにあったから云わなかったんだけど、いま思うと…ホントの所は『云えなかった』っていうのが、正しいんだよな」
「え?」
ユキは、少しだけ驚いたような声を出すと、顔を上げてオレを見た。
「オレが働き出してまもなく、高三になった律は新しい進路を決める時期に差し掛かってさ……アイツ、真面目だったし、頭も良くて成績優秀だったから、『大学の推薦を間違いなく受けられる』って教師からも太鼓判を押されてたんだ。実際ーー本人もそのつもりで、オレは詳しくは訊かなかったけど、主に理系の学部を幾つか希望してたようだった。夏頃には休みを利用して大学側が主宰するオープンスクール…?っていう学校見学会みたいなやつにも参加してて……だから、オレも親父もてっきりそのままその方向で進むんだろうと思っていたんだ。それなのにーー。アイツ、いよいよ進路を決定するっていう土壇場になって、大学には進学しない、専門学校に行くことにしたから、って言い出したんだよ」
「専門学校…ですか?」
「ああ」
オレはユキから視線を外して頷くと、近くに置いてあった空き缶を引き寄せて、灰皿代わりに、開いていた飲み口に灰を落とした。
「ーーそれも美容師の専門学校に。オレの行ってたトコとは、違う所だったけど、そんな話、オレも親父も寝耳に水だった」
会話がわずかに途切れたのを見計らったかのように、回っていた換気扇が、一瞬、ブゥン、と低い音を立てる。
どうやら外は風が吹き始めたらしい。
意識をほんの僅か外に向けると、台所の窓に嵌められた年代物の磨りガラスの向こうで、ヒューヒューという微かな泣き声めいた音が聞こえてきた。
「…すごくビックリしてさ。特に親父は、律を大学に行かせたいと思ってたから相当ショックだったらしくて、だいぶ説得もしたし、家計も心配ないって言ったけど、アイツの決心は変わらなかった。そういうトコ、結構頑固だったよ。美容師になることについては、かなり前から考えていたんだと、そのとき律は言っていた。『ハサミを握った事は一度も無いけど、将来は店を手伝いたいんだ』って。律は律なりに、親父と母親が始めた店の将来について考えてたんだよな。でも本当に突然だったから、親父はともかく、オレはそこまで考えてやるだけの気持ちの余裕がなかった。というより、オレはそのとき…」
「?…リョウ…さん?」
吸った煙がヤケに苦い気がして、オレは顔を思い切り顰めた。
会話を切って煙草を揉み消し、よれた吸い殻を缶の中に落とし込むと、急に乱れたオレの様子を見て、ユキが怪訝そうに声を掛けてきた。
表情を歪めさせたのは、口の中に感じた煙の苦さのせいじゃなく、胸の中に未だに満ちている後悔という名の苦さのせいだ。
その苦さは煙草の煙のように時間が経てば消えてしまうどころか、むしろ時間が経つにつれてハッキリとオレの胸の奥に刻み込まれていったものだった。
「リョウさん?」
オレは椅子の背に掛けていた上着を手に取ると、着ていたシャツの上に羽織りながら口を開いた。
「…最初は反対していた親父も、最終的には律の専門学校行きを承諾した。そして、いざ進む方向が決まると、親父の態度にも変化が現れた。あんなに大学行きを望んでいた親父だったけど、やっぱり息子が店を継ぎたいと思ってくれていたってことが、本心では嬉しかったんだろう。律が専門学校に通い始めて、学内のちょっとしたコンテストで賞を貰ったりするようになると、親父は目に見えて嬉しそうにしていた。律の意外な器用さを内心、得意に思ってたのかもしれない。仕事の合間でも、何かとアドバイスをするようになった」
話している顔をユキに見られたくなくて、オレは足早にテーブルの横をすり抜けると、三和土に置いてあったショートブーツに足を突っ込んだ。
「リョウさん」
背中越しにユキの声が聞こえる。
振り向いて見なくても、その声音で今どんな表情をしているのかは分かった。
「……律が対外的なコンテストで初めて賞を獲った時、親父は満面の笑みで律を労った。本当に嬉しそうだったよ。その表情を見た時、オレはそれまでに薄々気づいてはいたけれど見ないようにしてきたものを、見ざるを得なくなったーーようやく悟ったんだ。『オレでは親父にあんな表情をさせられないんだ』って。どんなにオレが有名な賞を獲っても、店の将来を真剣に考えても、親父があんな表情をすることはない。何故ならオレは『律』じゃないからだ」
「リョウさん」
椅子を引く音がして、すぐ真後ろにユキの気配を感じた。
「律が悪い訳じゃない。親父が悪い訳じゃない。それは分かっていた。けれど、その時オレは、律を疎ましく思う気持ちが思いがけないほど強く自分の中に存在しているのに気づいちまった。アイツはあんなにオレを慕ってくれていたのにーー」
立ち上がって振り返ると、ユキは何も云わずに黙ってオレを見つめていた。
「ーーいつの間にかオレはアイツを厭わしく思うようになっていたんだ」
オレはユキの視線を避けるように背を向けると、玄関口のドアを開けた。
やはり外は風が少し吹いていて、昼間だというのに信じられないほどの冷たさが頰を刺す。
「……行ってくるよ。続きは帰ってから話すから。少し…頭を冷やしてくる」
オレはユキの方を見ることなく、後ろ手にドアを閉めると、上着のポケットに手を突っ込んでアパートの階段を降りた。
一段一段降りる度に、カンカンという甲高い金属音が人気のない辺りに鳴り響いて、明るい昼間だというのに、ひどく淋しい気持ちになった。




