きよしこの夜 その1
ーーカタン、と何処かで微かな音がしたような気がした。
居間兼、寝室がわりの四畳半に置いてあるローテーブルの横にゴロリと転がっていたオレは、それを機に腫れぼったい目を無理やり開けると、壁にかかっている時計を見上げた。
時刻は午前五時を少しまわっている。
点けっぱなしにしていた明かりのせいで部屋の中は明るいが、外はまだ明けない夜の暗い闇に包まれている筈だ。
(……気のせい、か?)
オレは息をひそめると、少しのあいだ周りの音に耳を澄ませた。
暫くそのまま様子を伺ったものの、辺りは静まり返って、なんの気配もしない。
(やっぱり、気のせいか……)
オレは短く息をつくと、胎児のように丸めていた身体をゆっくりと伸ばした。
ヒーターのおかげで全く寒くなかったにもかかわらず、何故か横になってから、頑なに丸まっていたらしい。
神経が緊張していたせいで、知らず知らずのうちに全身に力が入っていたのだろう。
そのせいで身体がガチガチに強張って首と肩が固まり、起き上がると、こめかみがズキズキと脈打つ。
(イテテテ……)
何かに支えて貰わないと、とても起き上がっていられそうになく、仕方なしにテーブルに肘を付くと、オレは少し強目に目頭を揉んだ。
身体に貼り付いている重だるい感覚が、不快な気分を増長するようでひどく煩わしい。
眠れはしないが、それ以上横になる気にもなれずテーブルに突っ伏すと、オレは再度目を閉じた。
相変わらず辺りは静まり返っている。
それからどれ位経った頃だったのか、ようやく肩の力が抜け、冷たい感触に触れた額が慣れかけた時、今度はハッキリと台所の方で音がして、オレは、ハッ、と顔を上げた。
ーーカタン。
台所と居間の間を仕切るガラス戸の向こうに、明らかな人の気配を感じ、身体のあちこちの痛みも忘れて、考える間もなく立ち上がる。
「渡井さん!」
大股でガラス戸に近づき急いで戸を開けると、明かりも点いていない台所横の暗い玄関のドアの前に、ユキの姿があった。
居間からの明かりを背中に受ける格好で、ちょうど靴を履き終えたところだったのだろう。
ここに来た日の服装をして、肩からはあのショルダーバッグを掛けていた。
まるで初めて会った日と同じーーけれど一つだけ明らかな違いがあった。
(髪がーー)
昨日までユキの長く綺麗だった髪は耳より少しだけ下の辺りで、バッサリと切られ、ひどく短くなっていた。
恐らく束ねていたすぐ上の辺りを、適当に切ったのだろう。
よく見れば分かるような雑な切り方だったが、たったそれだけの変化なのに、一瞬、まるで別人が立っているような錯覚をオレは覚えた。
「……やっぱり、出て行くつもりだったんだ」
オレの声にユキは僅かに沈黙した後、振り向かずに答えた。
「……ごめんなさい、リョウさん。こんなにお世話になったのに、お礼も言わずに黙って出て行こうとするなんて。……でも私、どうしても行かなければならない所があるんです」
気丈なユキらしく丁寧でしっかりとした口調だったが、どこか辛そうな声だ、とオレは思った。
「ーー知ってる。と、いうか漸く分かった。アンタ、昨日の話があっても無くても、ホントはここに初めて来た時から、今日出て行く事を決めてたんだよな?」
オレの言葉を聞くと、驚いたようにユキは振り返った。
短くなった髪のせいで、大分雰囲気が変わっている。
「どうして…」
「『知ってるのか?』って?それに答える前に訊きたい事がある。アンタが逃げてる相手はやっぱり『警察』……なのか?」
オレの言葉に、ユキは僅かのあいだオレの顔を見つめた。
その瞳の中に、未だ迷うような色を見せながらも、もうこれ以上隠しておくことは出来ないと、心のどこかで判断したのだろう。
視線を外すことなく、黙って小さく頷いた。
「…………リョウさん、本当は分かってたんですよね?昨日の裡に」
「ん……」
オレは込み上げてくる苦い思いに耐えながら、短く答えた。
その表情がヘンだったんだろう。
こんな状況だというのに、ユキは少しだけ微笑んで言葉を続けた。
「直ぐに分かりましたよ?だって、リョウさん、嘘つくの、ものスゴく『ヘタ』なんですもの。だから……今度は私が尋ねてもいいですか?リョウさんは『何』を『何処』まで知っているのか」
「オレが知ってる事なんて、ほんの僅かな事だけだ」
オレは自戒を込めて口を開いた。
「…でも確かにウソをついていた事が幾つかある。一つは、昨日の忘年会で同僚のおやっさん達がしていた話。警察が捜している人間の特徴をそのとき聞いた。若い女性、長い髪、そして……手首にある小さな痣」
ユキが痣のある方の手首を、コートの袖の上からもう片方の手で隠すように掴んだ。
恐らく無意識の仕草だったのだろうが、それが答えなのだと思うと胸がズキリ、と痛む。
「それから、アンタが行こうとしている所ーー。『D村』だよな?確か隣の市にあるテーマパーク。……ゴメンな。この間見ちまったんだ、そのバッグから覗いていたチラシ。何だろうと思って、悪いとは思ったけど、つい気になって見ちまった。あんなにカッコつけて『詮索しない』なんて言ってたクセに。本当にゴメンな」
オレはユキに向かって頭を下げた。
「『D村のカウントダウン・イルミネーション』。そこにアンタは行こうとしてるんだろ?」
オレの問いには答えず、ユキは黙って少しのあいだオレを見つめた。
その様子から、答えてくれるつもりがないのだろうとオレは一瞬、諦めかけた。
けれど、ユキは言わないとオレが引かないと思ったのだろうか。
やがて小さく息をつくと、静かに口を開いた。
「リョウさん、もう少しだけ私に協力してくれませんか?」
「協力?」
尋ね返したオレにユキは頷いた。
「このまま何も見なかったことにして私を行かせてくれませんか?……リョウさんのいう通り、私は今夜、D村に行きたい。どうしても行きたいんです」
懇願するような口調だった。
「今夜、あのイルミネーションを見る事が出来たら…もう、思い残すことは何もない。その為に今まで必死に時間を稼いだんです」
「オレは……オレはさ、アンタが何をしたのかも知らないし、通報する気も無いよ。でも『どうしてなんだ?アンタは一体何をしたんだ?』ってオレが訊いても……きっとアンタは答えてくれるつもりは無いんだろうな」
「リョウさん……」
(どうして、そんなに)
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。でもこれ以上、此処にいると、リョウさんにも迷惑がかかってしまいます」
ユキは頭を下げると、言い募った。
いつしか涙声になっていた。
「そんな事、絶対に嫌なんです。こんなに良くして貰ったのに、何もお返し出来ないのに…」
(ユキ……)
「これ、リョウさんから預かっていた鍵……」
ユキは手の甲で両目を交互に擦ると、コートのポケットから見覚えのある鍵を取り出した。
「これを使うのは、ここから出て行く時だと決めていました。私を信用してくれて、これを預けてくれてすごく嬉しかった。結局、使わずにお返しすることになってしまいましたけど、本当にありがとうございました」
差し出されたユキの手の平の鍵を、オレはジッと見つめた。
これを受け取れば、ユキはそのままこの部屋を出て行くのだろう。
そう思うと失うものの大きさに、胸が苦しくなった。
取っている行動が間違っていると分かっていても、こんなに苦しい思いをするくらいなら、いっそ、何処までも間違っていてもいい。
ーーそんな風に思った。
オレはオカしくなっているんだろうか?
「…なぁ」
涙で目の縁を赤く滲ませたユキの顔を見ながら、オレは語りかけるように呟いた。
「……イルミネーションを見る為に出て行くにしては、時間が早過ぎるとオレは思う」
「リョウ、さん…?」
ユキはオレが何を言っているのか分からないような表情で、ジッとオレを見つめている。
「だから、夕方になったら出発しよう。クルマ借りたり、変装したり、準備もあるし、な?」
「リョウさん?」
オレはユキに笑いかけた。
その顔を見て、オレの意図することが分かったのだろう。
ユキはダメだ、というように首を大きく振った。
「そんな…そんなのって……ダメです!リョウさんに迷惑が……」
「迷惑かどうかはオレが決める。それにオレはもう決めた」
オレは鍵を握っているユキの手ごと握ると、ユキに伝わるよう、ハッキリと云った。
「オレが決めたんだ。アンタをD村に連れて行く。一人になりたければ、オレは絶対邪魔しない。約束するから」
安心して欲しくて笑いかけたのに、ユキの両目からは何故かぽろぽろと後から後から涙が零れた。