予兆 その3
点いたままのテレビを消して台所に戻り、隅にあった椅子に腰掛けると、オレは湯呑みを手に取って温かな甘酒を少しずつ啜った。
台所にはまだ火の気の余韻が残っていて、寒くはなかったが、一人になると途端に温度が下がったように思え、オレはいつの間にか、ありもしない寒さから身を守るみたいに背中を丸めていた。
周囲からは殆ど音が消えている。
時刻は深夜一時を過ぎて、大抵のものが寝静まったのだろう。
ユキが入った部屋も静まり返り、物音一つ聞こえては来なかった。
(あんな顔するなんて、な)
少し前の、同時に口を開いた時のユキの表情を思い出して居ても立っても居られない気分になると、オレは近くにあった煙草に火をつけた。
立て続けに数回続けて煙を吸い込み、吸ったり吐いたりを繰り返しているうちに、波立った気持ちは少しずつ収まってきたが、だからと云って何が軽くなるワケでも無い。
むしろ、目の前で確認した事実に、気持ちは重くなっていく一方だった。
ーーやっぱり、あれはユキの事だったんだ。
互いの視線が絡み、ユキの瞳の奥を覗いた時、今度こそオレはそう確信した。
言葉では上手く説明する事は出来ないが、あの瞳を見た瞬間、ユキが何を考えているのかが、手に取るように分かった気がしたのだ。
目に見えない感情が流れ込んできた、とでもいえばいいのだろうか。
そんな経験は初めてで、差し詰めテツなら
「それじゃ『サトリ』じゃないっスか、リョウさん」
とでも云うだろう。
オレに超能力があるとは思えないが、あんな寄る辺ない表情と瞳の色を見ればオレでなくとも、テツにだって分かったに違いなかった。
(刑事…か。大体、警察が出てくるような案件て……何なんだよ)
近くにあった灰皿を引き寄せて吸い終わった煙草を押し付けると、オレは苛立ちながら二本目の煙草に火をつけた。
頭の中の考えに、余りに気を取られていたせいだろう。
最初の一吸いがおろそかになって気管支を直撃し、思い切り噎せ返る。
ひとしきり咳込んで目に滲んだ涙を手のひらで拭うと、オレは殆ど吸っていない煙草を灰皿に置いた。
立ち昇る細い煙越しに、ユキの入っていった部屋の襖が見え、無意識に視線がそこで止まる。
恐らくユキは眠ってはいないだろうと思った。
今頃何を考えているのだろう。
開くはずのない襖を見ながら、そう思う。
最後の話題が自分の事だと、あの反応を見る限りでは察した筈で、だとすれば、自分の周囲が徐々に狭まっていることも、充分理解しただろう。
(もし、逃げ続けるつもりなら、何か考えているよな?まだ逃げ続けるつもりなら……イヤ…だけど、ちょっと待てよ?)
何かが頭の隅に引っ掛かって、オレは自分の中の頼りない記憶の糸を辿っていった。
初めてテツの店でユキと会った時の事を思い出す。
あの時、ユキは軽装で、持っていたのは小さめのショルダーバッグ、ただ一つだけだった。
どんなに切羽詰まっていたとしても、逃亡を続けるつもりなら少しは着替えとか何か身の回りの物を持ってくるんじゃないだろうか。
野郎ならともかく、今どきの、ましてや妙齢の女性なのだから。
(もしかして、逃げ続けるつもりじゃないんだろうか?じゃあ、なんでユキはわざわざここに留まってたんだ?)
警察の話が衝撃的過ぎてすっかり思い込んでいたが、初めてその考えに至り、オレは目からウロコが落ちたような気がした。
今まではずっと逃げ続けるつもりなのだろうと思い込んでいたけれど、それはオレが勝手にそう思い込んでいただけで、もしもそうでないのなら話が大分変わってくる。
(理由……ユキがここに留まっていたかった理由。もしかしたらそれは……)
バラバラと自分の中で散らばっていた色々な欠片が、少しずつ頭の中で組み合わさり始め、それをオレは確認するように何度も何度もひねくり回した。
ーーユキにどんな事情があるのか、とか、何の罪を犯したのか、とか。
そういう事を、きっと本当は心の何処かでずっと気にしていた。
けれど、生活を共にするうちに、その人柄の良さや優しさを知って、手に入れた訳でもないのに失くしてしまうのが怖くなった。
ユキがこの生活をどう感じていたのかは、正直なところ分からない。
だが、オレは恐らく心のどこかでいつの頃からか、この不自然ながらも穏やかな生活を出来る限り続けられたらいいのに、と思い始めていたんだろう。
(ああ、そうか…そうだったんじゃないか。バカだな……オレは)
襖から視線を外して、いまだ細く煙の立ち昇る煙草に目をやると、口許に苦い笑みが浮かんだ。
(今頃気づくなんて。今更…自覚するなんて、鈍すぎるにもほどがある)
オレは手のひらで両目を押さえると、胸に溜まっているものを吐き出すように、深い溜め息を吐いた。
真っ黒な暗闇が視界を覆うと、束の間、平衡感覚を失って、酒に酔った時のような酩酊感を目の奥に感じる。
ーーもう認めるしかないんだろう。
そう思った。
オレはーーたとえユキがどんな人間だったとしても、好きなんだ、という事を。
そうして、目の前から居なくなる事が嫌なのだ、という事も。
どのくらいそうしていたのか、顔を上げると灰皿に置いた煙草は殆ど吸われぬままに長い灰となり、糸のように細い煙を上げていた。
それを無造作に灰皿に押し付けて揉み消すと、オレは湯呑みに残っていた、すっかり冷えてしまった甘酒の残りを飲み干した。
儚い甘さが口の中でゆっくりと消えていく。
夜明けまであと数時間ーー酷使した頭は確かに疲れて居る筈なのに、眠りは少しも訪れてくれそうにはなかった。