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幻影  作者: 篠井 秋生
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予兆 その2

「ケーキ、とっても美味しかったです」


使った皿やカップを、流しの水桶の中に浸していると、背後のテーブルの上で残ったケーキを皿に移し替えていたユキが、嬉しそうに呟いた。


余り大きな声では無かったのに、ハッキリと耳に聞こえたのは、夜も更けて辺りがしん、と静まり返っていた所為せいだろう。


食べ始めたのが遅い時間だったから当然といえば当然なのだが、時刻はいつの間にか深夜零時を三十分ほどまわって、十二月二十五日ーークリスマス当日になっていた。


ケーキを切り分けていた時には、始まったばかりだったニュース番組が、気がつくと食べ終える頃にはとっくに深夜番組に切り替わっていて、いつ変わったのかもオレの記憶には残っていなかった。


「…なんやかんやで、イブを通り越して二十五日になっちゃったな。本当はこんな遅い時間に食べさせるつもりじゃなかったんだけど。明日の朝、もし胃もたれしたらゴメン」


起き抜けの自分の姿を想像し、すでに半ば消化不良の状態を感じながらペコリ、と頭を下げる。

すると、ユキはラップをかけていた手を止め、こっちを振り返って慌てたように口を開いた。


「大丈夫ですよ、リョウさん。私、胃もたれなんてしませんから。甘い物は『別腹』なので、すぐ消化します」


「それ、ホント?」


オレが疑いの眼差しを向けると、珍しくユキはキッパリとした口調で言い切った。


「はい、本当です。と、いうか、少なくとも私はそうです」


「なら、いいんだけど。オレはたぶん……もたれるな。イヤ、絶対もたれる。だって、すでにもたれてる気がするし」


オレの答えに、ユキは一瞬目を丸くすると、何故だかくるりと背を向けて俯いた。


「?」


不思議に思い見ていると、やがてくつくつと笑う声と共に、その背中が小刻みに揺れ始める。

どうやら云ったことの何かがユキのツボに嵌ったらしい。


「何だよ、そんなに笑われること云ってないと思うけど」


少し拗ねたような物言いをすると、目尻を手の甲で拭きながらユキは振り返り、とりなすように頷いた。


「そ、そうですね…スミマセン。ちょっとリョウさんの言い方が面白かったので」


なおも笑いの止まらないユキの頭をオレは拳で軽くコツン、と小突いた。


「痛」


「笑い過ぎ。っていうか、笑い上戸過ぎ。ホント、最近気付いたけど、笑い始めると止まんないよな、アンタ」


苦笑しながら流しに向き直ると、オレは洗剤のついたスポンジで濡れた皿を擦った。



ーーこんな風に笑うようになったのに、な。


屈託なく笑っているユキの笑顔を見て、オレはあらかじめ決めていた決心が鈍りそうになるのを感じ、皿を擦る手に余分な力が入るのを感じた。


あれだけ考えて決心したというのに、此処に来てもまだ心の何処かで、安寧を望む声が何もかもを無かったことにしようとしていて、自分の中にあるその感情の強さに少し驚く。


「リョウさん、洗い物、私やりますから」


洗い物を始めたのを見て、冷蔵庫にケーキを仕舞ったユキがそう云いながらこちらに来たので、オレは泡だらけのスポンジを持った手で制すると、明るく聞こえるよう、ワザと砕けた口調で話しかけた。


「ダイジョーブ。すぐ終わるから気にすんな。それより『胃がもたれる〜』なんて言ってるくせに矛盾するようなんだけど、洗い物はオレがやるから、その間にもう一杯だけ、甘酒温めてくんない?」


オレの言葉にユキはパァっ、と表情を輝かせると笑顔で云った。


「お口に合いましたか?」


「うん。美味かったよ。甘さもちょうど良かった。オレにはケーキよりむしろ……」


言いかけて口をつぐむ。


「はい?」


よく聞こえなかったのか、ユキが少し怪訝そうな顔をした。


「いや、何でもない。ゆっくり飲みたいので、結構熱めにお願いします」


オレがその場で丁寧にお辞儀すると、


「了解です」


と、ユキは嬉しそうにコンロの前に移動して、ガスの栓を捻った。


ボウッ、と微かな音がして、火が着いたのが分かる。


挿してあったお玉をゆっくりと回し始めると、ユキはいつになく弾んだ様子で鍋の中を覗いていた。


深夜の狭い台所に温まり始めた甘酒のいい香りが漂い始め、薄ら寒かった気配を少しだけ遠のかせる。

先程までの混乱した想いが少しずつ静まっていく中、代わりに何かを失う予感が徐々に胸の中に満ち始めていた。



「……そういえば、今日、忘年会の時に訊いた話でちょっと変わった話があって」



あれほど切り出したくなかった話題を、結局切り出したのは、この辺で言わなければ言えなくなる、と、自分に限界を感じたからだった。


「はい」


「現場の作業員のおやっさんの知人で、駅前でタクシーの運転手をしてる人の話なんだけどさ」


「それって久我さん?…の、ですか?」


ケーキを食べている時に話した忘年会の話が印象的だったのか、ユキは唯一覚えたらしい久我さんの名前を口にした。


「いや、違う人…。一昨日おとといそこに……刑事が来たんだって」


「…………」


一瞬ーーそう、ほんのわずか空気が張り詰めて、甘酒をかき混ぜていた手が止まった気がした。


オレは水の中からもう一枚皿を取り出すと、変わらぬ態度を保ったまま、泡だらけのスポンジでゴシゴシと表面を擦った。


一旦、話し始めれば、言葉はイヤになるくらいスラスラと口から出てくる。


溢れてくる、と云った方がいいかも知れなかった。


「何かの捜査っぽかったって云ってた。その人、そんなの初めてだったらしくてさ、結構、びびったらしい。人を……捜してる、って話だった」


オレは二枚目の皿を一枚目の上に重ねると、コーヒーカップを続けて洗った。


「珍しいよな。刑事なんて。オレ、会った事もないわ。けど、確かにびびりそうだよな、急に来られたりしたらさ」


泡を流そうと湯を出すと、ザーッ、と騒がしい水音にしん、としていた空気が薄まる。

オレがワザと音を立てながら、食器を濯いでいると、ユキが静かに尋ねてきた。


「……どんな人を、捜していたんですか?」


「うん?」


心臓が、ドクン、と大きく鳴った。


「その警察の人達、どんな人を、捜してるって云ってましたか?」


「気に…なんの?」


手を止めてユキの方を見ると、ユキは鍋の方を向いたままこちらを見ようともせず、掻き混ぜている手も止めなかった。

一見すると、鍋の中を気にしているような様子だが、でも本当は何も見ていないのが雰囲気で分かる。


表情からはすでに笑みが消えていた。


「気に、なるんだ?」


「それは…気になります。私も警察の人って、見た事ないし」


「そっか、そうだよな…」


オレは流しに視線を戻すと出しっ放しになっていた湯を止めて、溜まっていた桶の水を一気に流した。

排水口が許容量以上の水を流されて、何度か大きく不快な音を立てる。


「ーー最後まで話を聞いたけど」


オレはユキに背を向けるカタチで濡れた手を拭きながら続けた。


「どんな人を捜してたのかは……分かんなかったよ。そこまでは聞いてない。質問しに来たのは若い男と年配の二人組だったらしいけど、そもそも何の事件で来たのかすら、云ってなかったみたいだから」


声は今のところ何とか平静を保てていた。

だが顔は……表情を見られたら、恐らくユキには嘘をついているのがすぐにバレるだろう。

意識して息を整えると、指先がほんの僅か震えた。


「そうなんですか」


背後で聞こえた声はいつもと変わらず、手を拭き終わって向き直るとちょうどユキが火を止めたところだった。


「リョウさん、甘酒、温まりましたよ」


ユキは白い湯気のたつ鍋から甘酒を湯呑みによそうと、オレに向かって差し出してきた。


「どうぞ」


差し出された湯呑みを受け取る。


すると、僅かに触れたユキの指先は暖かな湯呑みを持っていたにもかかわらず、凍えるように冷たくーー微かに震えていたような気がした。


「なぁ、あのさ、オレ、アンタに……」


「私、そろそろ……」


オレが口を開きかけたのと、ユキが何か言おうとしたのが同時に重なり、ハッ、としてオレたちはその瞬間、同時に黙り込んだ。


ほんの数秒の奇妙な間が空き、重なった視線が目に見えない神経のように互いを探る中で、ユキはオレの中に『何か』を見たのだろうか。


機先を制するようにさりげなく口を開くと、小さくお辞儀をした。


「リョウさん、ごめんなさい。大分遅くなっちゃったので、私、そろそろ眠くて」


「えっ?ああ、うん…」


柔らかい口調ではあったが、有無を言わさぬような響きに押され、オレは思わず湯呑みを手にしたまま、部屋の方に戻るユキを見ていた。


「お先に休ませて貰いますね。ごめんなさい。あ、それとケーキ…」


襖を閉める直前、ユキは振り返るとオレに向かってもう一度お辞儀した。


「本当に嬉しかったです。……ありがとうございました」


そう云って顔を上げたユキの表情は笑顔だった。


けれど、甘酒を温めてくれ、と云った時の無邪気な輝きは、もうどこにも見えなかった。


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