予兆 その1
「ただいま」
ドアの鍵を開けて中に入ると、外の暗さが嘘のように部屋は明るく、暖かな空気が凍えた全身を押し包んだ。
「お帰りなさい、リョウさん。外は寒かったでしょう」
声を聞きつけて玄関口まで出て来たユキは、台所で何か作っていたらしく、コンロにかけた鍋からは白い湯気が上がっていた。
「お帰り、早かったんですね。もっと遅くなるかと思ってました。どうでしたか?忘年会。盛り上がりましたか?」
「ん?ああ。盛り上がったよ、おやっさん達」
オレは答えながら中に上がろうとしたが、感覚がないほどかじかんだ足のせいで、履いていたブーツがなかなか脱げなかった。
「あ〜、チクショウ、脱げねぇ」
ガチガチに固まっている身体で屈むのが面倒で、つい、行儀が悪いと分かっていながら、足から振り落とすように脱ぎすてる。
すると、その仕草が可笑しかったのか、見ていたユキが肩を震わせてクスクスと笑った。
「なに?」
「だって…リョウさんたら、小さい子供みたいだから」
「そうか?」
バツの悪い気分で苦笑すると、オレはすっとばした靴をきちんと揃えて、入り口に置いてあるユキの靴の横に並べた。
(…やっぱり、間違いなんじゃねーのかな)
台所に上がりながら、冷え切った上着を身体から引き剥がすように脱いでいると、またしても何十回目かのその考えが頭を擡げた。
ユキはコンロの前に戻って、少し屈みながらガスの火を小さく絞り、鍋の中を注意深く覗き込んでいる。
こうして穏やかなユキの姿を間近で見てしまうと、やっぱり店での話は到底信じられない。
目の前で無邪気に笑っているユキの姿は、どこにでもいる普通の女性で、事件とか警察とかいう、ある意味物騒な言葉とは結びつけようにも結びつかなかった。
「…今日さ、オレだけちょっと早く抜けさせて貰った。宴会はまだまだ続いてたんだけど、あの人達、底なしの『ザル』だからタイミング逃したら、たぶん今日のうちに帰って来れないと思ってさ。恐ろしいだろ?いいトシのくせに『鉄の肝臓』の持ち主ばっかりなんだよ。オレのデリケートな肝臓じゃ到底太刀打ち出来ないから一足早く帰ってきた。…そういえば、何か、作ってんの?いい匂いがしてるけど」
冷え切った上着を椅子の背もたれに掛けて、コンロの側に寄り鍋の中を覗き込むと、白く柔らかな色合いの液体が甘い匂いを立ち昇らせていた。
「コレって、甘酒?」
「はい」
ユキは頷くと、挿してあったお玉でくるくると中をかき混ぜた。
「この間、粕汁を作った時に酒粕が余ったのを思い出して作ってみたんです。リョウさんお酒を飲んで来ても、この寒い中を帰ってくるし、温まって貰えるといいな、と思って。あ、でも甘酒、お好きでしたか?苦手な人も居るから…」
ちょっと心配そうな表情でオレを見たユキに、オレは努めて自然に笑いかけた。
「ああ、オレは結構好きだよ。最近は機会が無くて口にしてないけど、小さい時は、今時分、お袋が作ってくれたヤツをよく飲んでた。そういえば最後は弟と取り合いしてたな」
「リョウさん、弟さんがいるんですか?」
ユキが少し意外そうに尋ねたのに、オレはハッ、として我に返った。
「あ?うん、まぁ。……あ、それよりコレ、お土産だ」
オレは手に持っていた手提げ袋を持ち上げると、ユキの方に差し出した。
「お土産?」
「ケーキ。今日、クリスマスイブだろ?一緒に食べようと思って買って来た」
「ケーキ…」
ユキは受け取った手提げ袋を見つめると、呟いた。
「アンタがどんなのが好きなのか、全然分からなくてさ。最終的には店の人のオススメになったんだけど、せっかくのクリスマスイブだし、良かったら、せめてケーキだけでもって思って…。ん?でもアレッ?もしかして甘いもん、嫌いだった?」
ケーキの箱が入った袋をじっと見ているユキの姿に不安になり、思わず尋ね返す。
すると、ユキは首を振って明るい声で答えた。
「いいえ、甘いものは大好きです。クリスマスケーキなんて、すごく嬉しい。ありがとうございます、リョウさん」
「そりゃ、良かった」
オレはホッと胸を撫で下ろすと、袋を指差した。
「味も気に入るといいんだけどな。開けてみてよ」
「はい」
ユキは笑顔で頷き、紙袋から取り出した箱をテーブルの上に大事そうに置くと、綺麗に結ばれていたクリスマスカラーのリボンに手を伸ばした。
丁寧な手付きでリボンを解くと、上に掛かっていた雪模様の包装紙を外して、ゆっくりと蓋を開ける。
「わぁ…」
薪を象った真っ白いケーキが現れると、ユキは小さく声を上げた。
「可愛い…」
オレはジッとケーキに見入っているユキの側に寄ると、店の人から聞いた説明を同じように繰り返した。
「フランスの、クリスマスケーキなんだってさ。『ビッシュ•ド•ノエル』って名前で、他にも色々種類はあったけど、コレはホワイトチョコレートの味だって。一番、クリスマスっぽいケーキだったんで選んでみたんだ。まぶしてある削ったホワイトチョコとか、かかってる粉砂糖とか、何だか雪みたいで綺麗だと思ってさ」
「この上の飾りも可愛いですね」
ユキはケーキの上にちょこん、と載った小さな砂糖菓子の雪だるまと茶色いチョコレートのクマを指差した。
「あ〜、ソレね。アンタが好きそうだと思ったんだ、そういうの。気に入った?」
「はい」
オレが尋ねると、ユキは本当に嬉しそうに、こくり、と頷いた。
(……マズイな)
オレは抑え込んだはずの動揺が、再び胸の中でざわめきはじめたのを感じて、思わず拳を握りしめた。
ーーケーキを食べたら、話を切り出す。
それが部屋に戻ってくる前にオレが出した結論だった。
恐らく、話を切り出したら、ユキのこの無邪気な表情を見ることは二度と出来なくなるだろう。
そう分かっていたから、せめて最後になるかもしれない今夜は和やかな雰囲気でケーキを食べて過ごしたかったのだ。
固く決心したつもりだったが、それでもあんな無邪気な表情を見せられて、これ以上話していたら、今、この場であの話を確認したい気持ちが溢れそうになった。
無理やり保っている平静が崩れそうで怖ろしく、オレはやむなく、くるり、とユキに背中を向けると、椅子の背もたれにかけていた上着を引っ掴んだ。
「え、と……それじゃ、オレちょっと着替えてくるわ。戻ってきたらそのケーキ食おう。ちょっと待ってて」
「あの…リョウさん?」
着替えようと脱衣所に向かおうとすると、ユキが急にオレの名前を呼んだ。
「ん?なに?」
「い、いえ、あの……何でもないです。コーヒー、淹れますね」
「うん」
オレは返事をして脱衣所に行きかけ、言い忘れたことを思い出して、足を止めた。
「あ、そうだ。オレ、ケーキ食べる前にせっかくだからアンタの作った甘酒を少し飲みたいな。外、メチャメチャ寒かったんだ。……あんまり寒くて、帰って来る間に飲んだアルコール、全部冷めちまったよ」
「分かりました。温めておきますね」
「うん。…よろしく」
オレは脱衣所に入って後ろ手に戸を閉めると、そのまま戸に寄りかかって、大きくため息をついた。
全身の力が抜けて、身体の芯がぐにゃぐにゃになったような気がする。
表情は強張っていなかっただろうか。
変な態度をとってはいなかっただろうか。
あまりに強く気を取られていたせいで、そんな直前のことが頭の中からすっぽりと抜け落ちていて、思い出そうにも全く思い出せなかった。
身体に力が入らず、ふいにひどい徒労感を感じたが、いつまでもこうしているワケにもいかない。
あまり時間がかかればユキも不審に思うだろうし、要らぬ心配もするだろう。
オレは仕方なく凭れていた身体を無理やり起こすと、のろのろと部屋着に着替え、バシャバシャと水を跳ね散らかしながら無造作に顔を洗った。
水を止めて濡れたまま顔を上げると、鏡に映った表情は我ながら酷いものだった。