夜の底
人気のない住宅街の道を歩いて自分のアパートにたどり着くと、見上げた二階の部屋には明かりが点り、閉ざされたカーテンの合わせ目からは、僅かに明るい光が漏れていた。
オレはアパートのすぐ横にある私道の砂利を踏みしめて、その輝きを見つめると、しばらくの間そこに佇んで、部屋にいる筈のユキのことを考えた。
戸外の凍てつく夜の空気に、吐く息は煙のように白く、寒さはジワジワと身体に染み込んでくる。
飲んだアルコールはそこそこの量だったはずなのに、どこに行ってしまったかと思うほど身体は冷え切っていた。
本当は一秒でも早く部屋に帰って、ユキの顔を見て安心したかったが、店で訊いた松田さん達の会話が脳裏に甦り、何かがオレの足を引き止めた。
あれがユキのことだと言う証拠は無い。
あれはただの世間話で、仮に警察が誰かを捜していたのが事実だとしても、それがユキかどうかは分からないだろう。
(……だが、もしユキのことだったら?)
帰り道のあいだ中、ずっと頭の中を占めていた考えが、性懲りも無く浮かび上がり、オレは見上げていた窓から無意識に視線を下げた。
あのあとーー松田さん達の話を聞いてしまった後、居ても立っても居られなくなったオレは、結局、みんなへの挨拶もそこそこに店を後にした。
またしても眠ってしまった菅野の近くに水を置き、一応声を掛けて、部屋の隅に置いていた上着を急いで着込んでいると、その様子に気付いたのだろう。
久我さんが立ち上がって、オレの側までやって来た。
「どした?リョウ君。何だか顔色が悪いみたいだが」
五十センチと離れていない至近距離で話している筈なのに、心配そうな久我さんの声が、何故だか少し遠くに聞こえる。
「具合でも、悪いんか?」
顔を覗き込んだ久我さんに、オレは内心の動揺を押し隠すと口を開いた。
「ーースイマセン。オレ、ちょっと調子悪いみたいで。早いんですが、これで失礼します。……本当にスイマセン」
目を合わせられずに頭を下げると、久我さんは少し慌てたように胸の前で手を振り、急いで言葉を継いだ。
「そりゃ構わんよ。けど、帰り、一人で大丈夫か?クルマでも呼ぶか?」
「いえ」
久我さんの提案にオレは首を振った。
今の、この状態ですぐに部屋に戻る事は無理だ。
少し頭を冷やす時間が必要だろう。
「…大丈夫です。歩いて帰ります。具合悪くなりそうなら、早めにタクシー捕まえるんで」
「…そうか?なら、気をつけてな。あ、大事なもん、忘れんようにな」
「大事なもの…?」
何だか頭がボンヤリとして、会話の意味がすぐに掴めない。
久我さんの言葉の意味が分からず、ピンと来ない素振りを見せると、久我さんはそんなオレの覚束ない様子を見て心配になったのか、珍しく眉根を寄せた。
「ケーキだよ!ケーキ」
「あ!」
「大事なもんだろ?…おい、伝ちゃん!彼、帰るから預かったケーキ、出してやって」
「あいよ」
オレの目の前でカウンターの主人に声を掛けると、久我さんは促すようにオレの背中をそっと押した。
ケーキを受け取り、みんなに挨拶をして店を出ると、久我さんはわざわざ入り口まで見送りに出てくれた。
「本当に大丈夫か?」
背中を丸めて、腕組みしながら心配そうに尋ねてくる久我さんに、これ以上迷惑を掛けたくなくて、オレは努めて冷静を装い笑顔を作った。
「はい。何か…スイマセン、見送りまでして貰って。つーか、久我さん、寒いから中に入って下さいよ。風邪ひいちゃいますから。オレなら大丈夫ッスから」
「そうか?」
「はい」
久我さんは、ほんの僅かのあいだオレの様子を伺って大丈夫だと判断したらしい。
組んでいた腕を解くと、オレの肩を叩いた。
「わかった。…じゃ、リョウ君、また来年な」
ニカッ、と笑った久我さんに頭を下げて踵を返すと、二、三歩あるいたところで、ふいに久我さんの声がした。
「リョウ君、暗いから気をつけてな。メリークリスマス!」
思わず足を止めて振り返る。
久我さんは視線の合ったオレに手を振って、店の中に入っていくところだった。
カラカラと音を立てて閉まった戸を少しの間その場で見つめ、オレは冷気が突き刺すように冷たい凍った夜の道を、早足で歩き出した。
一本裏の道から駅前の大きな通りに出るまではほんの僅かな道のりで、出た途端に明るく立ち並ぶ店々や、クリスマスを意識したイルミネーション、クリスマスソングが賑やかに溢れ、いつもより少しだけ着飾った人々が雑多に往き来していた。
その流れに乗って無意識に足を進めると、身体は操作されている機械のようにただただ無意識に家路を辿り、一歩一歩、歩みを進める度に、店で訊いた会話がぐるぐると頭の中を巡った。
(…手首のこの辺って云ったって……今の季節じゃ見えねえじゃねえの。袖で隠れちまってるだろ)
こめかみの辺りにキリキリとした痛みが生まれ、気分が悪くなりかけているのが分かる。
(だから知り合いもそう云ったんさ。そりゃ、そうだよなぁ!わざわざ袖捲って確認なんて出来ねぇでしょ。そう云ったら、『それはそうなんですが』だってよ)
(なんだぁ?そりゃ)
考えるのを止めたいのに、勝手に会話が浮かんでは消える。
(したら、一昨日ってことはまだこの辺り、調べてるんかな?)
西宮さんの問いに松田さんは何度も小さく相槌を打っていた。
(かもしんねぇな。ああいうのは徹底的にやるんだろ?『しらみ潰し』っていう言葉、ドラマなんかじゃ良く使ってるもんな。まぁ、それが仕事だから当然といやぁ、当然なんだろうけど。今日もその辺りを廻ってんじゃねーか?)
(そうかもしんねぇな。ま、そう思うとこの年の瀬の寒い中、ご苦労なこったよな)
(全くだ)
松田さんが会話の最後を締めくくるように、大きく頷いていた姿が目に浮かんだ。
こうしてアパートまでたどり着き、部屋の窓を見上げていると、以前の自分では気付こうとしなかったことが、幾つもあることが分かる。
戸外の暗く凍てつく夜の空気の中に居ると、僅かに漏れている部屋の明かりが、ひどく貴重な暖かい輝きに思えてくる。
以前、恋人だったエリが部屋を出て行って、明かりの点いていない暗い窓を見上げた時、寒々しい部屋は嫌だと思ったが、同時に仕方がないとも思っていた。
心の何処かに寂しい気持ちはあったけれど、その時は薄情なようだが、独りに耐えられないかも知れないと感じた事はなかった。
ーーけれど。
あれからまだ幾日も経たない筈なのに、今、見上げている窓の明かりが消える事を、オレは心の何処かでひどく怖れている。
長くは続かない生活だと分かっていながら、一分でも一秒でも長く続くことを願っている。
ーーそれは何故なんだろう。
どこから来たのかも分からない。
名前も本当なのかどうか分からない女。
分かっているのは、若くて、綺麗で、礼儀正しく、右の手首に小さな痣があるということ。
そして誰かにーー追われてるということ。
(確かめないと)
そう、心の何処かで声がしていた。
どうするかはともかく、訊いてしまった以上、もう見て見ぬ振りは出来ないだろう。
(ユキ……)
一旦、大きく波立ってしまった感情は、もう以前のように容易には収まりそうになく、暗い夜の底にいる冷たさに白い息を吐きながら、オレはずっとそればかりを考えていた。