波紋 その3
忘年会の会場となった『呑み食い処でんすけ』は、駅前の広い通りを一本裏に入って少し歩いた所にある小さな居酒屋で、座敷が一つとカウンターが数席のみのこじんまりとした店だった。
約束の時刻よりも三十分ほど遅れて到着すると、軒下に大きな赤い提灯がぶら下がっている店先には『本日貸し切り』の貼り紙がしてあって、中からは聞き覚えのある笑い声が、幾つも引き戸越しに聞こえてきた。
「遅くなりました、すみません」
ケーキの箱を片手に中に入ると、会はまだ始まったばかりだというのに、すでに出来上がりかけているらしい人がチラホラと見てとれる。
一体、どんな飲み方をしてるんだ、と呆気にとられていると、座敷の上座に座っていた久我さんが大きく手招きしながらオレを呼んだ。
「よお、やっと来たな、リョウ君!遅い遅い!もう始めちゃってるぞ!」
「すみません、ちょっと買い物に手間取っちゃって」
久我さんはオレが持っていたケーキの箱を指差すと、カウンターの中にいる店主らしき人に向かって声を張り上げた。
「伝ちゃん、その箱、預かってやって!リョウ君、席、ここ!オレの隣ね」
「いや、オレ端っこでいいんで。……って、アレ?菅野⁈」
「あ〜、白井さん……」
場の盛り上がりに気を取られて、すぐには気づかなかったのだが、よくよく見ると、座卓の隅に突っ伏すようにして既に潰れかけているのは、他ならぬ菅野だった。
まさか居るとは思わなかったので、つい、話しかける声が大きくなる。
「どうしたんだよ。お前、不参加じゃなかったのか?」
「そうだったんですけどね〜、昨日、白井さんが帰っちゃってから久我さんが『出ろ、出ろ』煩くて。まぁ、デートの予定も無いし、来たのはいいんですけど、オレ、あんまり酒強くないんで」
見たこともない程、真っ赤な顔をした菅野は、よく見ると顔どころか首の方まで真っ赤になっている。
黒縁メガネの奥の目も、眠そうにトロンとしていて傍目には今にも眠ってしまいそうだった。
昨日、菅野と久我さんの中華まん対決の決着がついた後、オレは預かっていた鍵を久我さんに返して、二人よりも一足早く帰宅の途についた。
というのも、あのあと菅野と久我さんは互いの闘争心に火がついたらしく、何故かボーリングに行って決着をつけると言いだしたからだ。
当然のことながら、その場にいたオレも誘われたのだが、さすがにその体力が残っていなかったのと、もらったテツのところの牛丼を早くユキに届けてやりたくて、遠慮させてもらった。
たぶん、その時にそういう話が出たのだろう。
「…菅野、俺が呼んだんだよ。予定無いっていうし。まさかあんなに弱いとは思わなかったから、予想外だったんだけど」
少しすまなそうな顔で頭を掻いている久我さんの隣に座り込みながら、オレは遠慮がちに尋ねた。
「どれくらい、飲ませたんですか?」
「え〜っと、ビールをそこのコップで軽く一杯とレモンサワーを半分だけ、だけど」
「それは、菅野が弱い」
オレの即答に苦笑いすると、久我さんは目の前にあった空のグラスにビールを注いでくれながら云った。
「ま、少しほっとけば、復活するだろ。駄目なら帰りは俺んちのクルマで送っていくし。とりあえず乾杯するか」
そう云って、久我さんはガヤガヤしている店内に向かって、声を張り上げた。
「リョウ君が来たんで、仕切り直し!みんな、今年もお疲れさん!乾杯!」
「乾杯‼︎」
グラスを合わせて飲んだ一瞬だけ店内はしん、と静まりかえり、すぐにまたガヤガヤと会話が始まる。
「そう言えば、昨日、牛丼、ご馳走様でした」
ビールで喉を潤した後、久我さんに小さく頭を下げると、久我さんは胸の前で手を振った。
「あー、いや、こっちこそ助かったよ。ありがとうな。毎年、なかなか掃除まで行き着かなくてな。それより彼女、機嫌損ねなかったか?昨日、今日と彼氏をコッチに引っ張られて、怒ってないといいんだが」
「大丈夫ですよ」
心配顔の久我さんにオレは笑いながら伝えた。
「オレは早く帰るつもりですけど、今日も『せっかくだからゆっくり楽しんできて』って出がけに云ってましたから」
「そっか。ならいいんだが」
ビールをグイッと飲んだ久我さんに倣うように自分もグラスを傾けながら、こういう所が久我さんの憎めないところなんだよな、と内心オレは思っていた。
大人げなくふるまい、一見好き勝手しているように見えて、意外と細かいところを気にかけているーー。
ふと、実家にいる親父の事が脳裏をかすめた。
「……そういや、なんで遅れたんだ?」
ふと、思い出したように尋ねられて、オレは我に返った。
「え?ああ、すみません。間に合うように家は出たんですけど、その……ケーキ屋でちょっと手間取って」
「何だ、何処そこの有名店の、あのケーキを買って来て、とでも云われたか」
久我さんは悪戯っぽい表情を見せると、オレに目の前に並んだ料理を勧めた。
「違いますよ。オレが目移りしたっていうか、迷っちゃって。ケーキなんてあんまり買わないし、色々ありすぎて何がいいんだか見当もつかないし…。ついでに言うと、名前もややこしくて」
「あー、それにはオレも同感だ。舌噛みそうな名前あるよな」
そういうと久我さんは愉快げに笑った。
「オレは明日、予約した店に取りに行かされるんだ。面倒くさいから昼間行ってきてくれ、って言ったら、『仕事の帰りに寄ってくれればいいでしょ!』って女房に怒られた」
「ちなみに何のケーキにしたんですか?」
オレの問いに、久我さんはグラスのビールを飲み干しながら答えた。
「…いたって普通の、苺のケーキだよ。明日は娘夫婦と孫も来るからな。『白くて苺の乗っかってるの』って、孫のご要望だそうだ。オレは生クリームは苦手なんだがな」
「そうですか」
今年もケーキが殆ど食べられないと文句を言いつつ、そのくせひどく孫のことを可愛がっている様子が垣間見えて、オレは自然と笑顔になった。
「で、そっちは何にしたんだ?やっぱり苺か?」
「そうしようと思ったんですけどね…」
店頭でのやり取りを思い出し、気恥ずかしさが蘇って、オレは意味もなく手の甲で頰を擦った。
「…二人しか居ないし、あんまり大きいケーキは食べきれないからサイズの小さいのを捜したんですけど、クリスマスイブのせいか、苺の丸いデコレーションは大きいのしか無かったんです。で、ショーケースの前で固まってたら、売り場の人が『こちらもオススメですよ』って小さめのロールケーキを勧めてくれて。なんて言ったかな?『薪』をイメージしたケーキでフランスのクリスマスケーキらしいです。確か『ビッシュ何とか』って名前の」
「『ビッシュ何とか』?なんだ、ソレ?」
オレ自身よく分かっていない説明に久我さんが首を捻る。
名前が思い出せずに、うーん、と唸っていると、寝ているとばかり思っていた菅野が座卓に突っ伏したまま、こちらを向いて、
「ソレ…『ビッシュ•ド•ノエル』ですよ…リョウさん」
と言った。
「あ、そうだ!ソレ!ありがとな、菅野」
オレが礼を言うと、菅野は片手の親指を立てて、突っ伏したまま、くるりと反対を向いてしまった。
「なんだ、アイツ起きてたのか」
「いや、寝てましたよ」
オレの返答に久我さんが肩を竦める。
「とにかく、その『ビッシュ•ド•ノエル』ってヤツにしました。いろんな味があるらしいんですが、オレが買ったのはホワイトチョコのクリームと苺をスポンジで巻いたヤツで、売り場の人いわく、『今年一番のオススメ』ってことでしたよ」
「そりゃ、旨そうだな。俺もそっちが食いたいわ」
「まあまあ。あ、久我さん、グラス空いてるじゃないっスか。ほら、どんどん飲んでくださいよ」
オレは久我さんのグラスにビールを注ぎ足した。
空になった瓶を座卓から下ろして端によせ、近くに置いてあった新しいビールの瓶と交換する。
ふと、視線を感じて久我さんの方を見ると、久我さんは何故かジッとオレを見ていた。
「なんスか。オレの顔に何かついてます?」
「いや…息子と飲むってこんな感じなのかな…と思ってな。オレんち、娘一人だろ?息子がいればいつでもこうやって男二人で飲みに来れるんだが、娘じゃな」
「娘さんのご主人と来ればいいじゃないですか」
やんわりと告げると、久我さんは苦笑を浮かべて首を振った。
「娘婿とは上手くやってると思うが、そういうんじゃないんだよな」
「はぁ」
分かるような分からないような説明に生返事を返すと、久我さんは急に明るい声で云った。
「そういや、リョウ君、明日からバイト休みだったか?」
「はい」
「じゃ、年末年始は久々に実家に帰省するんか。いいなぁ、リョウ君の親父さんは。息子と酒が飲めて」
「いえ…そうしようと思ったりもしたんですけど…」
その先を言おうかどうか迷って、オレは結局ごまかせずにはっきりと云った。
「今年は止めました」
「なんで?親父さん、寂しがるんじゃないんか?」
「どうですかね。たぶんオレが帰るなんて全く期待してないんじゃないかな」
思ったよりアルコールが回っているらしく、つい、本音が口をついて出る。
オレの言葉を聞いた久我さんは、ちょっと驚いたように目を見開いた。




