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幻影  作者: 篠井 秋生
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赤い蝶々 その1

「そんじゃ、お先に失礼します」


プレハブ造りの休憩室でヘルメットを脱ぎ、手早く上着を着替えると、まだあれこれ雑談している仲間の間をすり抜けて、オレはひとあし先に外に出た。


時刻は六時を少し廻っている。


すでに辺りは暗く、寒さは一段と厳しさを増して、疲れた身体に迫って来た。


(あー、腹減った。今日の夕飯、何にすっかな?鍋とかいいかもな。暖まるし)


頭の中で夕食の献立を考える。

今日は駅前のスーパーで買い物をしていかないと、冷蔵庫の中には碌な食材がない筈だ。


買う予定の物をブツブツ呟きながら、外に停めていたスクーターにキーを挿し込む。

ハンドルに掛けてあったヘルメットを被っていると、ふいに背後から声を掛けられた。


「おう、なんだ。今日は早いじゃねーか、リョウ君」


振り向くと、現場主任の久我さんが、まだ作業着姿のまま立っていた。


「お疲れさまっス、久我さん。これから駅前で夕飯の買い物していかなきゃなんないんスよ」


そう言って肩をすくめたオレを見て、久我さんは精悍な顔にニヤリ、と悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「何だよ、まだ正式に所帯も持たないうちから、もう彼女の尻に敷かれてんのか?リョウ君。長く一緒に暮らすなら、最初が肝心なんだぞ」


「カンベンしてくださいよ、久我さん。食いたいモンがあるから、それで買い物するんですって。別に尻に敷かれてるワケじゃないですよ」


「そりゃ、どうかな?」


久我さんは顎に手を当てると、オレの顔を見ながら首を捻った。



現場主任の久我さんは六十代間近の気のいいおやっさんだ。

小柄で痩身。

一年中、屋外労働をしているせいか、色が浅黒くて精悍な感じのする人で、笑うと目尻にイイ感じのしわが寄る。


オレがアルバイトに来た当初から何かと親切にしてくれて、この仕事が続いているのも、久我さんの存在が大きかった。


「ま、『仲良きことは美しきかな』ってことだけどよ。……そういや、ウッカリしちまったんだが、三日後の忘年会、お前出るんだろ?」


「あー、『忘年会』っすか。そうっスねぇ……」


どうするか迷っていた案件だったので、つい、煮え切らない口調で答えてしまうと、久我さんは、やおら、伸びあがってオレの首に腕を回し、グイグイと引っ張った。


「ちょっ!ちょっと、苦しいですってば!」


「お前が出ないと、俺、泣いちゃうよ?今回は幹事もやらされてるし、俺、現場が忙しい中、段取るのスゴイ大変だったんだから。なぁ〜、来てくれよ〜、リョウ君。な?リョウ君ってば」


「あー、もうっ!そうっすねぇ。…ちなみに誰が参加予定なんです?」


仕方なく、参加する人を尋ねると、久我さんは、子供みたいに手の指を折りながら数えた。


「……俺とタカちゃんとまつやんにコウジ…あとハジメちゃんかな?あ、あとカンちゃん、大丈夫って云ってたな。シンジも来るみたい」


「ちょっと待って下さい。それって……オレ以外、みんな妻帯者のおっさんじゃないですか!」


「そりゃ、そうでしょ。24日はクリスマスイブだもん。独身者で彼女持ちが参加するワケないじゃん」


「『じゃん』って……。オレだって、そうでしょうが!」


「リョウ君は別。安定のカップルなんだから、二人きりのクリスマスは二十五日にでもやってよ。イブは寂しいオジサン達と親交を深めようや。な?」


「『な?』って言われても……」


(安定のカップルどころか、とっくに独り者になってるっつーの!)


そうとも云えず、ぐっ、と言葉を呑み込む。

久我さんは直接エリを見た事は無いが、オレが彼女と住んでいる事は以前話したので知っていた。

ただ、テツ同様、すでに破局した事はまだ云っていなかったので、当然オレがエリとクリスマスを過ごすと思ったんだろう。


「なに〜、『クリスマスイブは早く帰ってきてね?』とか云われちゃってる?『ご馳走作って待ってるわ』とか?」


その瞬間、ユキの事が頭の隅をかすめた。



ユキがオレんで一緒に生活するようになって、すでに四日が過ぎていた。


最初の日、仕事が終わって帰宅してみると、冷蔵庫の中にあったものでユキは夕飯を作って待ってくれていた。

ロクなものが入ってなかったにもかかわらず、ユキが作ってくれた食事はキチンとしていて、とても美味おいしかった。

オレがそれを告げると、ユキは少しはにかんだような笑顔を見せた。


「喜んで貰えて良かったです。それで、あの、もし良かったら、此処にいる間、私に家事をやらせて貰えませんか?御礼の代わりにもなりませんが、させて欲しいんです」


有難い申し出だったからオレとしては願ったり叶ったりだったけれど、気を遣わせているならそれもどうかと思い、オレはユキにその事を伝えた。

するとユキは、珍しく勢い込んだような口調で即座にそれを否定した。


「やらせて欲しいんです。私、料理も家事も好きだから。それに、気も紛れるし…」


当然かもしれなかったが、ユキはその日、一歩も外には出ていなかった。

二日目、三日目もそうだった。

渡した合鍵はちゃんと持っていたが、それは着替えの入っている黒いチェストの上に置かれた彼女のハンカチの上にそっと置かれていて、使った形跡は見られなかった。

多分、今日もそうだろう。


一日中、誰も居ない部屋の中にずっと一人でいるのは、状況的にキツイものがあるような気がする。


だから、独りよがりな考えかもしれなかったが、オレはこの三日間は出来るだけ早く家に帰るようにしていた。


(クリスマスイブ、か……)


別に、ユキとは恋人同士でもないし、前もってその日に何か約束をしていた訳でもない。

もちろん、朝早く出かけようが夜遅くに帰って来ようがそれもオレの自由で、だからそんな風に勝手に気を回しているのはただの自己満足と云われればそれまでなのは分かっていた。

充分に。


けれどオレが帰宅すると、出迎えてくれるユキの顔が少し嬉しそうになるのに、ある時オレは気がついた。

自惚れではなく、それは確かなことだった。

恐らく、一人きりの寂しさや不安から解き放たれた開放感、誰か他の人間がいる安堵感みたいなものがあるんだろう。

取り立てて饒舌になったり、はしゃいだりする訳ではないが、何となく雰囲気が明るくなるのを感じた。


だから自分勝手な考えかもしれなかったが、イブの日にはケーキを買って帰って、楽しい夕飯を過ごしたらどうだろう、そう密かに計画していた。


二人で夕飯を作って、ケーキを食べる。


(一年で、一番華やかで、一番みんなが幸せそうに見える日だよね。)


そうオレに云ったのは誰だっただろう。


「……だいたいなんで、よりにもよってクリスマスイブなんかに忘年会やるんですか。日にちをずらせばもっと人集まるでしょうに」


考えが纏まらず、オレは少し八つ当たり気味に久我さんに云った。


「あー、まぁ、そうなんだけどよ、おっさんはクリスマスイブが寂しいから忘年会というものをやるのだよ、『若者』のリョウ君」


久我さんの言葉に溜め息が出た。


(仕方ないな。他ならぬ久我さんの誘いだし。断るワケにもいかないか)


オレは根負けして、両手を挙げた。


「分かりました。参加しますよ。ただ、最後までは付き合えません。途中で抜けてもいいんなら」


「おっ!さすがリョウ君。そうこなくっちゃ!」


久我さんは途端に首に回していた腕を外すと、ホクホクとした様子でオレの手を握り、ブンブンと振った。


「そんじゃ、そういう事で」


くるり、と踵を返した久我さんの背中に、オレはもう一度念を押すように、声を掛けた。


「ほんとに、途中で帰りますからね、ホントですよ!久我さん!最後までは付き合えませんよ!」


「ハイ、ハイ」


久我さんはこちらも見ずに手を振ると、建物の中へ入っていった。


またしても予期せぬ溜め息が口をつく。


「……買い物してサッサと帰るか……」


オレは労働の後の疲労感とはまた違う疲れを感じながら、スクーターのキーを回してエンジンをかけた。

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