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*乳房

作者: ととのえ

生々しい表現がありますので、苦手な方はご注意下さい。

 時刻は午後十一時であった。

 少し歩こうか、という夫の一声に従い、桜子は夜の散歩に出掛けていた。風呂から上がったばかりの火照った体には夜風が気持ちよく、椿油をしみ込ませたつげ櫛で梳いた桜子の髪の毛は、暗闇でも艶々していた。

 桜子の住む屋敷は山の中にあった。巨大な平屋は麓の集落から離れるようにしてひっそりと建っており、ここらにいるのは桜子の家族か狐狸しかいない。

 母屋から出て更に数分歩くと、集落が見渡せる小さな丘につく。高さこそない、傾斜の緩やかな丘だ。しかしそこからは月がよく望める。夫はそこへ桜子を誘ったのだ。

 桜子は先日、この浅間家に嫁いだばかりであった。夫の名前は浅間宗次郎といった。学者の職に就いており、週に三、四回大学へ講義に出掛けては弁舌を振っている。家には宗次郎を慕う学徒からの手紙がよく届いた。温厚で人望のある宗次郎と、楚々とした桜子の結婚を、周りの皆が祝福した。桜子の父母はこんなに良い人と家に嫁げることはそうそうない、大変名誉なことだと桜子に重く言い聞かせたし、浅間家の者もこんなに良いお嫁さんなど今時珍しいといって、宗次郎に桜子を大事にするようにと口を酸っぱくさせていた。桜子も、己は大層恵まれた身分にあるのだなと自覚していた。

 けれど何故だろうか。婚姻の儀を執り行ったのを境に、絶えず重い不安のような、違和感のような心地が、桜子の心の片隅にずっしりと存在しているのだ。否、正しくは、それは遙か昔から桜子の胸の内にあったのだ。それが今回の結婚を切っ掛けに、より存在を大きく確かなものへと変化してしまったのだろう。

 桜子の頭は、幸せよりも漠然とした不安でいっぱいであった。近頃は見える景色もなんだか曖昧で、薄ぼんやりとした色素としてしか認識ができなかった。見えるものすべてが目の前で起こっていることではなく、まるで映画の映像のような非現実として受け止められてしまうのだ。

 己は夢遊病に罹ってしまったのだろうか。桜子は、幻のようにぼうっとした宗次郎の背を追う。丘に出る為には雑木林を抜けねばならなかった。桜子は鬱蒼とした木々の中、ひたすらに足を動かして宗次郎の三歩後を着いていった。足場は悪く夜で視界もきかないが、慣れた道だ。宗次郎はたまに枝に気を付けて、やら、虫がいるよ、やら桜子に声を掛けた。桜子もはい、はい、と返事をする。

「そういえば、山下の家に子供が産れたらしい」

「本当ですか。それはいいことですね。お祝いを贈りますか」

「それは君の仕事じゃあないよ。女中にやらせればいいんだ。君は妻だろう」

 月は出ていたが、夜の林は暗かった。幾重に重なった木の葉が、地面に月光が注ぐのを邪魔しているのだ。ここ辺りは昼でも薄暗い。目線の先、直ぐ近くに宗次郎がいるというのに、桜子は一人でいるような心細さを感じていた。踏む土や葉は湿っている。ぬるく湿度を孕んだ風が、桜子の髪を濡らした。それは雨が降り始める少し前の合図であった。

「振ってくるかな、」太い樹の音を跨ぎながら、宗次郎は心配気であった。

「傘を持ってくるべきでしたか」

「いや、いいよ。降ってきたら急いで戻ろう」

 夜露を含んだ木の葉が揺れて、宗次郎の肩を濡らす。桜子は己が責められているような気がしてならなかった。



 ほんの数日前のことである。

 桜子はがらんどうに広い自室に、一糸纏わぬ姿で一人立ち尽くしていた。目の前には祖母の形見の姿見が置いてある。

 電球の弱い光で、室内は薄らとした明るさに包まれていた。鏡と書斎机以外は何もない部屋は、夜になると一層物寂しくなる。静謐に満ちた部屋の中で、桜子の肢体は白くぼうっと浮かび上がっていた。照明のせいか、桜子の肢体は陰影が濃く乳房や尻が実物以上に豊満なように見える。

 そっと胸を撫でてみる。確かなふくらみがそこにある。

 そっと腹を撫でてみる。この腹に、もうじき命が宿るのだ。皆から望まれた、いのちが。

(子供が子供を産んで、果たしていいのだろうか)

 周りの者は皆、宗次郎と桜子の子を今か今かと待ち望んでいた。親戚の中には下卑た質問を投げかける者もいる。桜子は自信がなかった。今まで桜子の母親や父親、教師などは《汝姦淫すべからず》と口を揃えて言ってきたと云うのに、ここにきて生殖と云う行為を推し進めてきたのだ。桜子は変化に戸惑う他ない。赤子を産む前には性行為が必要なのだ。そしてそれは皆の忌むべき行為なのだ。なのに皆赤子は欲しがるのだ。薄気味が悪かった。子を孕むにはまぐわいが必要であると分かっている筈なのに、結果だけを持ち上げて課程は知らんぷりして、まるで口にも出さずけろりとしているのだ。

 

 いつからだろう。自分の体に違和感を覚えはじめたのは。


 十二、十三の頃だったと思う。腹の痛みで目が醒めたのだ。

 桜子は気怠い体を引き摺って、姿見の前まで移動した。寝巻を脱ぎ去って、早朝の冷えた空気に裸体を晒す。まだ幼さの残る、くびれのない肉体であった。桜子は己の乳に手を滑らせる。ちくりとした痛みが走った。圧迫する度、張った乳腺が刺激されて痛みを伴うのだ。

(そういえば友達が、月経中は胸が張って痛いと言っていたっけ)

 ぐ、と手のひら全体で押すと、僅かばかりの脂肪がぐにゃりと曲がり、ひときわの痛みが走る。そこで空恐ろしさを感じ、桜子は嘔吐した。そのまま床布団に倒れ込んだところで、桜子の母親が駆け付けた。桜子の母は桜子に何が起こったのか瞬時に察したようで、手際よく汚れた敷布を取り換えて、桜子自身は床に寝かせた。内股が湿っぽくて気持ち悪いと訴えれば、水で濡らした布を渡された。傷つけないように、そうっと拭いなさいとのことであった。桜子は言われたとおりにする。白い綿布に、僅かばかりの経血がついた。それは桜子にとっての初経であったのだ。

 念のためにと母が医者を呼びつけたところ、初老の町医者は月経による体調不良だろうと言った。桜子の身体は鈍痛で火照っているのに、芯の部分はすうぅ、と冷えていた。

 己の肉体にすら裏切られた、と、桜子は思った。辛うじて膨らまない乳が桜子を守る唯一の幼さだと感じていたのに、当たり前に乳は育つのだ。

 桜子は、当時己はまだまだ子供だと思っていたし、まだまだ子供であって然るべきなのだろうとも思っていた。しかしどうしたことだろうか。周りはいつしか、桜子のことをお嬢ちゃん、ではなくお嬢さん、と呼ぶようになったのだ。桜子の思う何倍もの速さで、世界は桜子を大人へしようとしてくる。

 それから暫く経った頃、桜子の躰には第二の変化が起きた。棒切れのようだった手足に沢山の肉が付き、腹にはたっぷりとだらしない贅肉が付いた。それに続いて乳房も尻も大きくなった。むくんで醜い体を、桜子は姿見に晒して見つめ続けた。

 それからまた暫くすると、不思議なことにするすると桜子は痩せていった。手足もすっかりすらりとして、盛り上がっていた頬も人並みになった。ただ、手足や腰は細くくびれても、胸と尻についた脂肪はそのままであった。ここにきても、桜子の身体は桜子を裏切ったのだ。

 桜子は最後まで抗い続けた。体が女になっても、心は変わらずにいたかった。中学を卒業し、大学へと入る頃には友達らはこぞって恋文を書いたり同級生の男子と帰路を共にしていたが、桜子はそのどちらもしなかった。ただ、母親の云う通りに、髪だけはきちんとして、邪魔な産毛だけはきちんと剃り落した。その姿を、今時珍しいと云って当時桜子の教師であった宗次郎が見初めたのだ。

 

 やがて丘に着いた。緩やかな崖の下、集落の灯りが見える。木々が開けているお蔭で、夜空が良く望めた。今宵は朧月のようだ。チラチラと煌めく星々の間を、灰色の雲がゆっくりとした速度で流れている。月光のお蔭で宗次郎の姿もよく見えた。浅蘇芳の着流しを着ている。それは桜子の見立てたものであった。彼はかつてからこういう性分がある。大した行事でもないのに、桜子と出掛ける時はいつも彼女の見立てた服を身に着けるのだ。

 俺はお前のものだとでも言いたいのだろうか。桜子は、浅蘇芳の着流しが宗次郎と云う人間をがんじがらめにしているように思えてならなかった。まるで所有印のようだ、と桜子は月を見上げる。自分自身すら碌に扱えていないのに、宗次郎を手に入れた気でいるのか。

 桜子は銘仙の着物を身に纏っていた。実家から持ってきたもので、宗次郎の見立てたものではない。宗次郎が選んだ振袖は先日袖を切られて留袖となった。

 今でもその時のことを鮮明に思い出せる。女中らが器用な手つきであれよあれよと着物を誂えていく様子に、また桜子は空恐ろしさを感じたのだ。

(あのう、あたし振袖のままじゃだめですか)

(何を云っているの。あなたはもう宗次朗さんと結婚なすったんでしょう)

(そうですけど、でもあたし留袖はまだ早い気がするんです)

(そんなこと、)女中は笑った。(とにかく着てくれなきゃ困ります)

 

 着る服さえ自由ではないのだ。

 切った袖は赤子の産着にすると女中は云った。まだ産れてすらないと云うのに。


 宗次郎は呑気に月を眺めている。雲の隙間から月が覗くたび「おお、」と感嘆の声を上げた。冷えた風がゆるく吹いてきて、桜子は僅かばかり身を震わせる。

 浅間宗次郎という人間は、籍を入れてからもまるで人が変わらなかった。大学時代に出会ってからかれこれ五年の月日が経つが、相変わらず桜子に気長に惚れてくれている。

 ふと、桜子は、宗次郎は自分と同じ困惑を抱えているのではないかという淡い期待めいた考えを抱いた。

 宗次郎は他の人間とは違い、子供やら何やらを云ったことがなかった。それは宗次郎自身も早すぎる子供の話に、知れず嫌悪から三歩手前の違和感を感じているからではないのだろうか。考えてみれば自分ら夫婦は床も一緒ではないのだ。布団の中で組み伏せられたこともない。桜子はまだ、破瓜の痛みを知らなかった。

(嗚呼、けれど)

 一度だけ、宗次郎の変化を目の当たりにしたことがある。その時桜子は宗次郎の晩酌に付き合っており、鈴虫の音を聴きながらぼんやりと酒を注いだり注がなかったりしていた。

 桜子は湯上りの身体で、簡単な寝巻を巻き付けただけの格好であった。身体は水分をふくみ艶々として、頬は朱に染まっている。濡れた長い髪も結わえずにそのままであった。

 あとは寝るだけということで、桜子自身気も緩んでいたのだろう。ふと宗次郎の方を見ると、桜子のはだけた襟の隙間、鎖骨の下の乳房を透かし見るかのように、じっと目を細めていたのだ。背徳と罪悪を覚え、咄嗟に桜子はさり気なく衣服を正した。宗次郎も、こともなげに視線を庭へと移す。

 宗次郎の変化は、その一瞬で終わる。


 悪い夢だったのだ。それきり宗次郎は桜子の身体に視線を這わせることもなかったし、相変わらず他の皆のように子作りをしようだのと言い出すこともなかった。その一件はなんだか薄ぼんやりとした白昼夢のような感覚で、今でも桜子の頭の隅に曖昧に残っている。実感の沸かない思い出であった。

 不思議なことに桜子は宗次郎の変化を目の当たりにしたにも関わらず、嫌悪や違和感を抱くことはなかった。それは宗次郎の変化を垣間見たのが、言葉ではなく視線だったからだろう。視線は身体に訴えてくるが、言葉は心に語りかけてくる。言葉は桜子の最後の砦である心を、女のそれに変えようと常に企んでいるのだ。

 いっそのこと何も考えず、ただ周りの云う通りに子供を作ればいいのかもしれない。考えることを止めれば幸せになれる。そうは思うが、考えることを止めたらいよいよ自分は人間から遠ざかってしまう気がしてならなかった。

「……宗次郎さん、」

 桜子の声は静かであったが、静かな夜によく響いた。木霊のような声の名残が聴こえる。

 宗次郎は優しい男だ。それでいて聡明だ。女中が不注意で宗次郎の着物に茶を零したことがあっても、笑って許すような男であった。それでいて学会では若くしての天才だともてはやされるような人間であった。桜子は宗次郎に、己の抱えているこの違和感を全て曝け出してみてはどうかと思う。

「どうした、」

 桜子に呼びかけられた宗次郎は、首を傾げて桜子の言葉を待っている。桜子は何回か金魚のように口を開いたり閉じたりした。その時、遠くから遠雷が響いた。気付けば空は厚い雲で覆われていて、宗次郎の姿も闇にまぎれて見えにくくなっていた。雨の降りだしは近かった。再び冷たい風が吹き付けて、桜子は身を震わせる。

「寒いだろう。こっちに来なさい」

 大人しく、桜子は数歩歩み出て宗次郎の隣に立った。桜子は嫌な予感がした。

 彼は学者として生きている人間だ。力仕事は普段しない。むしろ桜子の方が毎日の炊事や洗濯やらで体を動かす機会があった。なのに何故だろう、宗次郎の腕は、桜子のそれよりもっとずっと固く丈夫で、しっかりとした筋肉がついていて、大きいのだ。

 雨の匂いが強くなる。秋特有の夕立だろう。ましてや山の天気は変わりやすく、晴れから豪雨に変わることも珍しくはないのだ。

 やにわに空がぴかりと光り、桜子の視界が焼ける。それから低い地鳴りのような雷鳴が響いて、頬に大粒の雨がかかる。風が強く長く吹く。辺りの木々がざわざわとざわめく。宗次朗の腕が、桜子を強く引き寄せた。


「俺たちの子供は、どうしようか」


 *

 瞬間、咄嗟の慄きに反射して、

 桜子は有らん限りの力で、宗次郎の背を押した。

 *

 


 雨粒が葉を叩く音が聴こえる。宙が一瞬明るくなり、近くの木に雷を落とした。鋭い雨粒であった。既に地面は多量の水で溢れかえっており、小さな川のようになっていた。着物は水分を含みじっとりと重い。肌に纏わりつく感触が不快であった。

 桜子は荒い息を弾ませて、崖の下を見るように暫くじぃっとしていたが、やがて屋敷への道を歩き始めた。ゆっくり、ゆっくりと、まるで白昼夢を見ているかのような心地で。実感の沸かない思い出のような気持ちで。

 道はぬかるんでいた。桜子は正しく一人きりで、枝や泥に気を付けながら林の中を歩いた。

 雑木林がひらけてくる。母屋の灯りが見える。それを見てようやく、桜子は走り出した。

 雷は鳴る。


                                      終



緩い丘では人は死にません。

桜子は今でも苦しみ続けています。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 三人称ながらも桜子の主観で書かれているため、桜子に寄り添って読むことができる点が良かったです。 情景描写と桜子の心理のリンクは流石だと、思いました。 [気になる点] いくつか変換ミスがあっ…
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