後編
少女の家に少年がやってきてから、早数週間が経った。少女はあれから一度も町には行っておらず、お菓子作りもあまりしなくなった。材料を買うお金はあるものの、町に赴くことに抵抗があった。少年は追放されている身のため、当然町に行くことはなく、少女に木の実や獣の狩り方を教わっていた。
少年はすぐに上達し、狩りに関しては少女よりも上手になった。狩りは二、三日に一度だけ行い、その度に少年はいくらかの獲物を仕留めてきた。
「ごめん、今日は兎一羽しか取れなかった」
帰ってきた少年は申し訳なさそうに言った。少女は「わたしがいないとまだまだね」と、笑いながら応える。
少年は苦笑して、兎を捌くためにまた外へ出て行った。その後を黒猫がついて歩く。
少女は自分の進むべき道をまだ決めかねていた。いつまでも中途半端なままではいられない。そして人として生きるにしても、この町で住むことはできないのだから、別の町へ旅をしなければならない。
「さて……」
とはいえ、魔女として生きるにはどうすればいいのか、それさえも少女にはわからないのだった。何か儀式的なことをする必要があるのか、それとも気の持ちようなのか。少女は自分自身のことさえも、全く知らない――わからない。
「そろそろ決めなくちゃいけないわね」
つぶやいて、少女は外へ出た。すこし歩くと、そこでは兎の皮を木に吊るしているところだった。よく見ると、これまでとった獣の皮もあった。どれも綺麗に削がれていて、どうやら綺麗に体から剥ぐことができた毛皮だけを残しているようだ。
「それ、どうするの?」
「これかい? 防寒具になるだろうと思ってね。きみは今まで動物の毛皮はどうしていたんだい?」
「その辺に捨てていたわ。森の肥やしになってもらって、木の実をつけてもらわなくちゃいけないから」
「そのあたりは価値観の違いだね。どうする? 防寒具にするかい? それとも肥やしにするかい?」
「せっかくだから防寒具にしましょう。すこしくらいなら、わたしたちがもらっても怒りはしないでしょう」
「怒るって、誰が」
「森や獣。ここに住む生き物たちよ」
少年にはその感覚がよくわからなかったが、それが森に住むことなんだろうと納得した。自分はこれからそういう考え方も身につけていかないといけない、そう肝に銘じる。
「それで、お肉のほうはどう?」
「うん、そろそろいい感じに焼けるんじゃないかな」
少年の足元では兎の肉が焼かれていて、香ばしい香りが鼻孔をくすぐった。黒猫は自分で獲って来ていたらしい魚を頬張っている。魚ばかりで飽きないのかと思ったが、猫の舌に焼いた兎の肉は熱すぎるのかもしれない。
家の中に移動するのも億劫で、ふたりはそのまま兎の肉を食べることにした。そこに少女が摘んできた木の実を添える。
ふたりは黙々と肉を頬張っていたが、やがて少年がぽつりぽつりと話し始めた。
「ぼくさ、本当は漁師になりたかったんだ」
少女は少年の話に耳を傾けながら、また肉を食む。
「ダメだったけどさ。今回とは関係ないところで……きみに隠したってしかたないか、実はね、ぼくは魔女憑きって呼ばれるのは初めてじゃないんだ」
「そうなの?」
「うん。一回目はまだ『子どものすることだから』っていう理由で許されたんだけど、それでも生活に支障は出た。仕事はもらえないし、多くの人からは無視されるしね」
少年は肉を頬張り、たっぷりと時間をかけて飲み込んだ。
「だからさ、ちゃんと相手をしてくれるのはきみしかいなかった。露店でお菓子を売ってるきみしかいなかった」
「わたしもそれほどちゃんと相手をした記憶がないわ」
早く帰れ帰れと思いながら、毎日のようにやってくる少年を見ていた記憶がある。
「まあね。それでもぼくにとっては十分だったのさ」
「その結果がこれでは意味がないでしょう? あなたはもっと考えることを覚えたらどうかしら」
「ぼくには肉体労働のほうが似合ってるのさ」
そう言って少年は肉を掲げる。少女もそれには笑うしかなかった。
「それで、あなたはこれからどうするつもりかしら」
「どうって?」
「いつまでもここで生活するわけにもいかないでしょう? 他の町に移動するなり、旅人になるなり、考えなくちゃいけないことはあるわ」
「それもそうだけど、きみはどうなんだい? ずっとこの森で生活を?」
「まさか。わたしも考えているわ。悩んでいるけれど」
少年の表情がやや険しくなった。
「それは人として生きるか、魔女として生きるかってこと?」
「そうよ。わたしはまず自分が住む世界を決めなくてはいけないわ」
少年は直感として、彼女が人として生きることを選ぶようには思えなかった。それをするには彼女はすでに、人と違う生活に染まりすぎていた。いや違う。きこりなんかはおそらくこういう生活をしていることを考えると、彼女の価値観はすでに町に住む人とはかけ離れている――そう言ったほうが正確なのかもしれなかった。
少年はそれをこれまでの生活で嫌というほど知った。
「ぼくは……そうだね、毛皮の加工が終わったら他の町に移るよ」
「そう。なら、そうね、ひとまず最寄りの町まで移動するのには付き合ってあげるわ。わたしがどちらの道を選ぶにしてもね」
「それはありがたいね」
少年が笑うと、黒猫も鳴いた。
男たちが集まり、町の講堂は何やら重苦しいで満ち満ちていた。
「魔女とはいっても、たかが小娘一人だろう? 大した抵抗などできんよ」
商人風の男が言う。
「そういう言い方をするなら、小娘であっても人外だ。人外がどんな力を持つのか、想像もできないな。最近にも子どもがひとり憑かれたばかりだ」
向かいに座っていた男が言う。商人風の男は、ぐっと言葉をつまらせた。
「待て待て。そもそもアレは魔女じゃない。人でも人外でもない、ましてや魔女なんかでもない中途半端な子どもだ。簡単な作業さ」
若い男がそう言うと、空気がすこしだけ軽くなった。誰もが人外に対する恐れを持っているのだ。いくら言葉でそれを取り繕おうとも、そう簡単に恐怖心は拭えない。
「だが場所は? あの森だ、そう簡単に棲家を見つけ出せるか?」
「森で獣の毛皮を干しているのを見たヤツがいる。その付近にいるのは間違いないだろう」
「そうか。ならあとは人員だな。自警団と……あとは有志を募るか」
「そうだな」
「決行は?」
「次の雨の日がいいだろう」
「夜か?」
「いやどうだ、人外は夜こそ活発なのではないのか?」
「だがあの小娘は昼ごろに露店をしていたではないか」
「あれは我々の時間に合わせていただけだろう?」
「だが人か人外かが中途半端なら、あながちそうとも言えないかもしれないぞ?」
「こんなこと議論しても無駄だ。決め打ちしかあるまい」
「明朝だ」
「よし明朝だ。明朝に決行だ」
「次の雨の明朝、我々の平穏を取り戻す」
「平穏を!」
「平穏を!」
少女が答えを出せないまま、また数日が過ぎた。
「今日も冷えるわね」
「そうだね。まだ加工は終わらないから、もう少し毛布一枚で我慢してもらうしかないね」
「構わないわ。急ぎの仕事で雑なものを作ってしまうのは、毛皮に対して失礼だもの」
テーブルには作業途中の兎の毛皮があり、あと一息というところまで作業は進んでいた。この調子で行けば、あと数日もあれば完成するだろう。
「今日はもう寝ましょう。疲れを取ることは重要よ」
「そうだね」
ふたりはボロ布のベッドにふたりで入り、ふたりで一枚の毛布に包まった。冷え込む夜になると、ふたりは自然とそうするようになっていた。少年は寝付けない日もあったが、最近はかなり慣れて、ふだんと変わらず寝付けるようになっていた。
「にゃあ」
ふたりが包まる毛布の上に、黒猫がのっそのっそと歩いてきて、ちょこんと座った。それからもう一度鳴いて丸くなった。
ふたりは黒猫を撫で、静かに寝入っていった。
夜も深まってきた頃、外から雨音が聞こえ始めた。それにいち早く気づいたのは少女で、雨音で目を覚まして起き上がった。雨はあまり強くないが、これから本格的に降り出すだろうということはすぐにわかった。
「しかたないわね。魚を捕りに行きましょう」
このくらいの雨なら、今から行けば捕まえるために川に入っても問題はないだろう。朝まで待って増水していたら目も当てられない。困るのは少年だが。
少女が服を着てマントを羽織り、ドアを開けると、足元で「にゃあ」と鳴く声がした。少女は微笑んで、黒猫を抱いて森の中を歩いて行く。 雨はしとしとと降り、森を濡らしている。少女は足を滑らせないように、慎重に進んでいく。
小川に着いた時、少女は重大なミスに気づいた。こんな夜中に小川に来ても、そもそも魚影が見えないではないか。
「ねえ、ご主人さまの分も獲って来てくれないかしら」
黒猫は「やれやれ」というように鳴いて、ちゃぷちゃぷと川に入っていく。
程なくして、黒猫は一匹の魚を加えて上がってきた。上がってきた黒猫は魚にかぶりつき、そのまま完食してしまった。そして満足そうにごろごろと鳴いて、大きくのびをした後、今度は億劫そうに川へと向かった。
やる気の問題なのか、さっきよりもたっぷりと時間をかけて、黒猫は魚を加えて出てきた。それを少女の前に置くと、少女を置いて先にに歩き出してしまった。
雨の勢いが強くなり、大粒の雨が少女を遠慮無く叩く。
「帰ったらあのお寝坊さんを起こさないと」
魚を取って、早足で黒猫を追いかけながら言う。
黒猫に追いついて、
「あなたはこんなにしっかりしているのに、どうしてご主人さまはあんなに寝坊助なのかしら」
そう聞くと、
「にゃあ」
と、どこか諦めたように鳴いた。
「……待って、止まって」
少女は素早くその場にしゃがみ、黒猫の前に手を伸ばした。黒猫もすぐに立ち止まり、耳を動かしてまわりの音に集中している。
「……不自然に騒がしいわね。早く戻りましょう」
森がざわついている。いつもと違う森の雰囲気に、少女は嫌な予感がしてならなかった。
少年は不穏な気配で目を覚ました。となりに少女の姿はなく、黒猫さえもいない。寝坊したのかとも思ったが、外はまだ暗いままだ。しかも外から何やらざわついた雰囲気が伝わってくる。それは何も雨音だけではないだろう。
「……嫌な予感がするね」
少年は獣を捌くために使っているナイフを取り出し、部屋の隅で息を潜めた。杞憂ならよし、だが……悪い予感とは当たるものだ。
勢い良くドアが蹴破られ、どかどかと不躾な足音が部屋中に響いた。侵入してきたのは見覚えのある顔ぶれで、片手にランタンを持ち、片手には短剣を持っている。中には猟銃を持つ者さえいた。
「おい、誰もいねぇぞ」
「しかしここで生活していることは間違いないな」
「バレてたのか?」
「馬鹿言うな。ここ最近は町に入ってきていないだろ。どうやって情報が漏れるんだ」
「隠れてるかもしれねぇ。ひとまず探せ。外のやつらはこの辺りを探せ。離れすぎるなよ」
少年は彼らの目的を察し、ぐっとナイフに力を込めた。
「おい、まだこの毛布は温かいぞ」
「近くにいるな。探せ」
ひとりの男が近づいてくる。
少年は身を潜め、もっと近づいてくるのを待つ。息を潜め、身を潜めて気配を薄くする技術はこれまでに身に着けていた。あとは一撃で獲物を仕留めるのみ。
「かはっ――」
間合いに入ってきた男の喉を裂き、少年は飛び出した。返り血を浴びて、彼の半身が真っ赤に染まる。
「いたぞ!」
ランタンの明かりに照らされる。
「こいつ、魔女憑きのガキだ!」
「そいつも殺しちまえ!」
少年は構わず男たちの懐に潜り、ひとり、ふたりと的確に喉を裂いていった。
「こいつ――がっ」
またひとり、男の喉を裂く。この暗闇の中、男たちは少年の動きにまだ対応しきれずにいた。対する少年は、もうこの場所でずいぶんと過ごした。どこに何があるのか、どれほどの距離なのかは把握している。
少年は少女がいつも持っているナイフを抜き、男に向かって投擲した。それは胸に刺さり、男は呻いてうずくまった。
男たちの場所はランタンの明かりで簡単にわかってしまう。
「ちょ、調子に乗るなよ! このクソガキ!」
男は少年に猟銃を向けた。気づいた少年はすぐにその場から飛び退いた。
そして、それと同時に銃声が響いた。
「今の声は……」
突如響いた銃声と悲鳴に、少女はさらに足を速めた。
息を切らせて、必死に走る。黒猫は少女より先行し、それでも離れ過ぎないくらいの絶妙な速さで走っている。気味が悪いくらいに利口な猫だ。そして何より、普段から剣呑な輝きを放つ目が、今は見慣れた少女が見ても身の毛が逆立つような危うい光を放っている。
少女の家のまわりには、なぜか明かりが灯っていて、男たちの怒号や悲鳴が響いていた。そしてその男たちの壁の中から、ひとりの少年が姿を現した。少年は腕を負傷しているらしく、左手をだらんと垂らして、右手に握るナイフを男たちに向けて振り回している。
「そんな……」
男がひとり倒れた。ランタンの明かりが飛び散る血潮を照らす。何人かの男が逃げ出していく。
「何をしているの!」
思わす少女が叫んだ。
男たちと少年の動きが止まり、少女に視線が集中する。
「わたしの家で、一体何をしているのと聞いているの!」
少女の問いには答えず、かわりに男たちがざわつき始めた。
「……魔女だ」
「ヤツを殺せ!」
「俺たちに平穏を!」
男たちが一斉に少女に向かってかけ出した。もはや少年のことなど誰も見てない。何かに取り憑かれたように、一心不乱に少女に迫る。
「逃げろ! 早く!」
少年が叫ぶ。
だが少女は逃げず、じっと男たちを睨みつけている。
「逃げろよ! 馬鹿!」
少年は後ろから男を切りつけながら、少女の方へ向かって走る。
その時、またも銃声が響いた。
「あ……」
ばたり、と。
少年が倒れた。
悲鳴はなく、力なく、前のめりに――倒れた。
少女には時が止まったように感じられた。
しかし男たちはそんなことは意に介さず、少年の死など気にも留めず、ひたすら少女に向かっていく。
少女の双眼が怒りに燃えた。黒猫が飛び出すよりも早く、少女の叫び声が森に響いた。
「あなたたち……ここから生きては帰さない!」
瞬間、この雨の中、突如として少女の家が燃え始めた。その炎は弱まる気配を見せず、この雨の中にあってむしろ勢いを増している。それはさながら意思を持つ蛇の如く天に昇っていく。
「な、なんだよ……半人前なんじゃなかったのかよ」
「嫌だ、嫌だ! 死にたくない! 死にたくない!」
男たちは明らかに狼狽し、パニックに陥っていた。少女が一歩歩くと、男たちの悲鳴が響く。
「うわあああああ!」
完全にパニックに陥った男が少女に飛びかかった。が、少女が手を下すまでもなく、黒猫が男に襲いかかり、体の至る所に噛みついていた。男の悲鳴が轟いて、他の男たちは一目散に逃げ出した。
少女はそれをひどく冷めた目で見つめ、倒れた少年のもとへ向かった。少年はすでに息をしておらず、彼のまわりには赤い水たまりができていた。それは雨に流され、かなりの広範囲に広がっている。
「……ごめんなさい。わたしと関わったばっかりに」
少女は少年の手からナイフを抜き取り、猫に執拗に襲われる男の前に立った。男は痛みにのたうちまわっていて、もうまわりの状況など見えていないようだった。いつの間にか男の右耳がなくなっていた。
「大丈夫よ。みんな、あなたの後を追ってきてくれるわ」
静かに、少女は男の喉を裂いた。
少女は全身に血を浴びて、それを雨が洗い流していく。それはさながら赤い涙を流しているようだった。
「ねえお寝坊さん、あなたのために捕ってきた魚、無駄になっちゃったわね」
少女は地面に転がっていた魚を取り上げ、少年の前に置いた。
「あっちに行ってから食べなさい。お腹も空いているでしょう? わたしといた時のように我慢する必要なんてないわ」
それから少女は立ち上がり、少年の死体をじっと見下ろした。
「にゃあ」
そんな少女の足元で黒猫が鳴く。
「あなた、これからどうするの? もしよかったらわたしといっしょに行かない?」
そう言うと、黒猫は少女の足にすり寄った。
少女は黒猫を撫でて、森の外へ向かった。雨でぬかるんだ道は歩きにくかったが、それも少女にとっては慣れたものだった。だが慣れない者もいて、少女は道中で見つけた男をひとり残らず殺して歩いた。完全に戦意を失った男を殺すことは、兎を狩るよりも簡単だった。
少女はそのまま歩き続け、気づけば町の前に立っていた。町はいつもと違う、奇妙な喧騒の中にあった。怒号や悲鳴が飛び交い、外に出ている人の多くは大きな荷物を持っていたり、あちこちへ走り回っていたりととにかく忙しない。
「そう……」
少女が町に踏み込むと、すぐに町の人が気づいて悲鳴をあげた。少女は構わず通りを歩く。彼女が歩くと、その脇の建物が次々と燃え上がっていった。
「おかしいわよね。つい先日まで暖炉の火をつけるのがやっとだったのよ?」
何の感慨もなさそうに少女は言う。その目には何の感情も映っていなかった。それでも強いて言うなら、ただただ虚しい目をしていた。その目は何も見てはいない。
まだ夜明け前の町は、昼のように明るくなっていた。火はとなりの建物に延焼し、少女が次々に発火させるのも相まって、すぐに町全体に燃え広がった。木造の建物は面白いほどに燃えて、火の海とかした町から住人は我先にと逃げ出していく。
もはや少女に武器を向ける者はおらず、誰もが逃げることに必死になっていた。少女もあえてそれを追いかけることはせず、無感動にそれを見送った。
やがて少女が町を燃やすことをやめると、振り続ける雨が町の火を消していった。少女は完全に火が消えるまで町にいて、燃えて崩れた瓦礫の上に腰を下ろした。そこから見る町はもうすでに町とは呼べなくなっていた。ただただ瓦礫が積み上げられているだけだ。
黒猫も少女も、何も言わずに――あるいは、何も言えずにただ町を見ていたが、不意に少女が「ふふ」と笑った。
「おかしいな……昨日までは人間としても生きられると思っていたのに。だから悩んでいたのに」
少女にはもう選択をする余地などなかった。これだけのことをしておいて、なお人として生きようなどとは虫が良すぎる。こんなことは人外の所業だ。人のやることじゃない。
「あるいは、人外、魔女になるっていうのはこういうことなのかもしれないわね」
少女のつぶやきは雨音にかき消され、すぐに消えてなくなった。黒猫は少女を見上げて「にゃあ」と鳴いた。
「ねえ」と、少女は黒猫を撫でる。「地上にいるからこんなに苦しいのでしょう? こんなに悲しいのでしょう? わたしが火を扱ってしまえるから、こんなことになるのでしょう?」
黒猫は喉を鳴らして応えた。
「わたしは苦しいのも悲しいのもいらないわ。でもここで死んでしまうのは不誠実だわ」
それは誰に対する誠実さなのか。
巻き込んでしまった少年に対してか。
殺してきた男たちに対してか。
この町の住人たちに対してか。
あるいは自分自身に対してなのか。
少女自身にもよくわからなかった。
少女は空を見上げる。そこは黒い雲が覆いかぶさって、青空なんてその面影すら見せてくれない。少女が立ち上がるのを拒むように、激しく雨を打ち付けるだけだ。
「空は自由だって、人は言うでしょう? わたしといっしょに本当かどうか確かめてみない?」
黒猫は鳴いて、少女の足元に寄った。少女は黒猫を抱いて、町の外へ出て、森の中へ消えた。
ひとつの町を焼き払った火事から何度か日は巡り、その町があった場所のはずれの森で、ひとりの魔女が旅の支度をしていた。彼女は黒のシンプルなドレスを着て、身の丈ほどの箒を持っている。
「さすがに買い換えるしかないわね。これはみっともないわ」
ドレスも箒も魔女の手作りで、一見するとそうでもないが、細かい部分でほころびや歪みがあった。
「あら……どこに行ってしまったのかしら」
魔女は相方がいないことに気づき、しかし、どこにいるのかをわかっているかのような迷いのない足取りで歩いて行く。
そこにはひとつの墓があった。墓とはいってもそう立派なものではなく、土が盛られ、そこに石が並べられ、木が一本突き立てられているだけのものだ。そしてその前には黒猫が上品に座っていて、その鋭い目で墓を見つめている。
「もう行きましょう。地上も悪くはなかったけれど、箒にまたがって空から見下ろす世界もきっと悪くはないわ」
そう言うと黒猫は魔女の足元へ擦り寄り、じっと彼女を見上げた。魔女は箒にまたがり、黒猫を抱くように箒の上に乗せた。
人とは違う言葉を魔女がつぶやくと、その体はふわふわと浮かんだ。
「あなたには悪いけれど、わたしは逃げることにするわ。痛いのも苦しいのも悲しいのも、もういらないの」
もう人には届かないほどに浮き上がった魔女は、その墓に向かって話す。
「さようなら、お寝坊さん。また会いましょう」
そして彼女たちは夜の闇に消え、それを見送る者はいなかった。