ハルのユキ
「神様、いるならどうか時を止めてください」
それが私が生きた人生の最期のネガイ。
「またね、ハルカ」
それが私の放った最期のコトバ。
体が重い。瞼が思うように開けられない。
大好きな、大好きなハルカの声が聞こえるのに、答えてあげることができない。
泣いているのに、私の手でぬぐってあげることもできない。
悲しいのに、涙もでない。
私の体は重い病魔に蝕まれていた。余命半年だと告げられた。
突然のことに私はもちろん、両親ですら声がでなかった。
心臓が耳の近くにあるように、大きな音を立てている。こんなに元気なのに、私は死んでしまうのだろうか。
「先生、どうにかならないんですか? この子、結婚するんです」
両親の必死な思いが伝わってくる、掠れた声が聞こえた。
返ってくる返事はなく、医者は無言で首を振る。それが答えだった。
私はなぜか、そこでそうかと納得してしまった。
死ぬのが怖くないといえば嘘になる。
けれど彼を、ハルカを残してこの世を去ってしまうのが一番怖かった。
「ねぇお母さん、お父さん。このことハルカには黙っていてね」
「あんた何いって」
「そうだぞ、ハルカはお前の」
「うん、だからだよ?」
私の一番大好きな人。大好きないとこのお兄ちゃんで、将来を誓った大切な彼。
大学に入学したての私より、ずっと大人で頼りになる存在だ。
二十五歳になるハルカは、日に日にかっこよくなっていく。少し明るめの茶色い髪は触ってみるととても気持ちよくて、黒ではなくこげ茶の目はいつも私を見守ってくれていた。
告白したのはもちろん私から。
七歳も離れているから私が高校一年生だったときは、もうすでに大学四年生だった。
周りには、可愛い女の子がたくさんいて。私なんかとても子どもじみていて。近くにいるのに、遠いような気がして涙がこみ上げてきたのを今でも鮮明に覚えている。
「ハルカ、好きなのっ」
勢いでいってしまった一言。今から思えばずいぶん恥ずかしいことをしてしまったような気もするが、それもいい思い出である。
あのときのハルカは驚いた目で私を見ていた。断られると思い、ぎゅっと目を瞑るが返ってきたのは、優しい抱擁と耳元で囁く俺も好き、という一言だった。
付き合って三年たつ。
その間に、私たちは色んなことをした。
プレゼントを交換したり、色んなところに遊びにいったり、初めてのキスをしたり。
悲しいこともあったけれど、嬉しいこともその分たくさんあった。
そんな私に彼が昨日くれたのは、嬉しいモノだった。
「俺と結婚してください」
夜景が綺麗な橋の上でのプロポーズ。私が小さい頃にいった憧れのプロポーズを覚えていてくれたのだと思うと、嬉しくて涙がでてきた。そんな私をみてどう思ったのかハルカは慌てて持っていたハンカチで優しく涙をぬぐってくれた。
あのとき私ははい、といったのに、このままじゃすぐにハルカを残して死んでしまう。
私は両親と先生に一言断ってから診察室をあとにして、鞄の中から携帯を取り出した。
アドレス帳を開き、ハルカを見つける。メールの文章に、ごめんね、と一言書いて送信した。何を書いたらいいのかわからなくてたった四文字だけになってしまった味気ないメール。自分に嫌気をさしながらも、ハルカの電話番号とメールアドレスを消去する。はい、とボタンを押すのに涙が出てきた。
涙がおさまるのを待って診察室で待つ両親と先生のところへ戻ると心配していたのか母が抱きついてきた。私はそれを受け止め、抱きしめ返す。
あと何回このぬくもりを感じることができるのだろうか。
そう思い、そっと目を閉じた。
それからの五カ月はあっという間だった。
体力はすぐに衰え、車イスなしでは移動すらすることができない。食事ものどを通らず、体重もすっかり落ちてしまった。
私は習慣となりつつある、携帯のメールを見る。登録されていないメールアドレスからだ。でも、このアドレスは誰か知っている。
――ハルカだ。
あのメールを送ったあとすぐに電話がきた。出たい衝動にかられるがそのたびに我慢をした。ハルカは先の短い私ではなく、誰かと幸せな人生を歩んでほしいから。ハルカの隣は私がいい。けれどそれは私のわがまま。ハルカを悲しませたくない。
電話はそれから毎日きた。一日午前三時に一回。そしてメールは返さなくても一日少なくて三十件はくる。
それは日常的なメールだったり、私を心配するメールだったり様々だ。でも、共通点は最期に必ず会いたい、好きだという言葉をいれてくることだった。
「私も会いたいよ、好きだよ」
でも、それを神様は許してくれない。
健康な体だったら、走っていけるのに。大好きって大声で叫べるのに。
私は枕元に携帯をおき、ベッドの近くにある本棚から一冊のアルバムを取り出して、開いた。小さい頃から今までのハルカと二人で映った写真だ。
一つひとつ丁寧にみて、ページをめくっていく。そして白紙のページにぶち当たる。
ここには幸せな写真が入るはずだった。
「ごめんね、ハルカ」
「何がごめんねなんだよ、ユキ」
「ハル、カ?」
「俺以外に見えるか?」
「ううん」
写真越しではない本物のハルカがそこにいた。目をこすってみるが、それは消えない。
「おばさんたちに聞いた」
苦い顔をしてハルカはこっちへ歩いてきた。
病院の一室。白い空間が全てだった景色が一瞬で色づく。
「なんで黙ってた」
近くでみるハルカは、苦い顔ではなく泣きそうな顔をしていた。
「私はもう、死んでしまうから」
半年という短期間で私を忘れるなんてことはできないから、せめて好きだった感情を少しでも忘れてほしかった。
最期につらいのは私ではなく、ハルカだというのを知っているから。
表情に出ていたのかハルカは痛いくらいに私を抱きしめてきた。
「毎日くるから」
ダメ、といわなければいけないのに、私は泣いて頷くことしかできなかった。
最期の日は唐突にやってきた。
医者に宣告されて半年がすぎた頃。
その日はハルカとハルカの両親、そして両親がそろってやってきた。
ちょうどいいと、その日ハルカと私の携帯で二枚ずつ写真をとった。一回目は全員で、二枚目はハルカと二人きりで。
そのあとたわいもないことを話しているうちに、視界がなぜか真っ白に塗りつぶされてしまった。耳も遠くなり、ハルカの叫ぶ声が遠くから聞えない。
体は動かず、重力に逆らうことができずベッドに体を打ちつけた。元々いつそうなってもいいようにベッドは柔らかな素材で出来ているため、体が痛くなることはなかった。
体から生きるために必要なものが抜けていくと同時に、頭が冴えてくる。
ああ、もう死んでしまうのかと。
あれほどハルカの前で死にたくないと思っていたのに、神様は意地悪だ。でも私はその怒りがわくと同時に嬉しさもこみあがってきた。
最後の最期にハルカに会えたという嬉しさだった。
(神様、いるならどうか時を止めてください。力を振り絞ってでも伝えたい言葉があるんです)
巻き戻してくれなんて、贅沢なこといわない。死へのカウントダウンさえ少しだけでいいからとめてほしい。
その願いは届いたのか、世界の音だけが私のもとへ戻ってくる。
私とハルカの両親がすすりなく声と医者が私を呼び掛ける声。看護師が駆け回る足音。そしてハルカの必死な叫び声。
冷たかった手が暖かい手によって、少しだけ体温を取り戻す。その手の感触はよく知っているハルカの手だ。
もう瞼を開ける力さえ残っていないから、何も見えないがハルカが涙をこぼしているのは分かる。私の頬に落ちてきているから。
大好きな、大好きなハルカの声が聞こえるのに、答えてあげることができない。
泣いているのに、私の手でぬぐってあげることもできない。
悲しいのに、涙もでない。
(神様お願いです。この短い寿命を言葉に変えさせてください)
何度が口をぱくぱくと動かすが声が出ない。
その動作にハルカは気がついたのか、ハルカが近づく気配がした。
小さな、耳を澄ませなければ聞えないような声しか出ないが、必死に言葉を紡ぐ。
結婚できなくてごめんね。
好きだよ、愛してる。
幸せになって。
絶対に生まれ変わって会いにいくから。
全てを言い終わると同時にハルカの涙が私の目に零れおち、涙を流す体力もない私の最後の涙となってくれた。
唇に落ちる優しい感触。
「いってくれるよね、お前。俺も好きだよ、これからもずっと。ユキが会いに来るのずっと待ってるから」
私はその言葉に笑顔で頷いた。
(いってきます)
機械のピーという音とともに、私は青く広がる空の上に飛び立った。
後ろは見ないように、振り返らず滲む空に向かって。
「ただいま」
その言葉を告げる日のために。