腹減った
どこかの寂れた田舎に、ある爺さんがいた。その人に家族はなく、友人もいない。だけど、山だけは持っていた。爺さんはその山に、周囲から見捨てられた俺達を拾い、この場所に住まわせてくれた。狭い小屋、しけた飯、俺達を満足させるような扱いはしなかったけどな。そして、山の葉が紅くなり、夕日に照らされて、山が赤々と染められた頃。爺さんは俺達に飯をやる途中に俺のタックルでぶっ倒れちまった。わざとじゃない。ただ、飯が早く欲しかっただけだ。なぜなら、俺達は犬だから。さて、今日の飯はどうするか。
俺は周りを見回した。小屋にはサイレンのようにけたましく鳴き喚く茶色のチビ犬。鎖を引っ張りながら少しでも飯を食らおうとする黒でやたらでかいデブ犬。そして、黙ってその様子を観察する利口なシロ犬が俺だ。爺さんはそれぞれをチビ、クロ、シロ、と呼んでいた。外にも放し飼いの犬がおり、鳴き叫ぶ声が外から響く。
俺も爺さんがずっこけた拍子に投げ飛ばした飯を鎖をギリギリまで引っ張ってでも食べた。飯は茶色の糞のように乾燥していて味気ない。それでも、俺はクロと争うように食った。この小屋の中での楽しみは腹いっぱい食うこと。それだけだからな。
「クロ、ボクにもおくれよ」チビがやっと意味のある言葉を吠えた。
クロはその声に豚のように鼻を鳴らしながら吠える。
「ふざけんなよ! チビ! お前と違って、大型犬はエネルギーがいるんだよ。エネルギーが。誰がやるか。欲しけりゃ奪え。ボケェ」
クロはそう吠えながら。爺さんの持っていた飯を全部食っちまった。地面にはクロのよだれが垂れ流され小さな池ができている。よだれは爺さんの顔にもかかったが、爺さんは何も言わず、動かなかった。
死体だった。爺さんは本当に死んでしまった。俺はそう再認識した。
「そもそも、シロがお爺ちゃんを殺しちゃったからいけないんだ」
「俺のせいだって言うのか! チビ!」
威嚇するとチビは小さくなって寂しそうな声で鳴き、
「もう、ここから出たいよ。マドカの所に帰りたいよう……」と吠えた。
人にはわからないが、犬の鳴き声は様々だ。何か意味のある言葉を吠えたり、ただ、感情だけが先行して意味不明な言葉で鳴き叫んだりする。チビはいつも飼い主が傍にいない寂しさだけで鳴き叫んだ。この犬は元々、飼い犬だったらしい。爺さんはそのことを知らない。先週、見つけた時には首輪がなかったのだから。もちろん、俺には関係ない話だ。しかし、小屋の外に出たいのは、俺も同じだった。爺さんが死んだ今、俺達を養ってくれる人は誰もいないのだから。飯がなくなるのがわかると、俺達は眠り始めた。
日はもう沈んだようだ。扉から出る冷たい空気が背中を撫で、俺は寒さに震えながらできるだけ扉から離れ、隅まで鎖を引っ張り、小さくなった。鎖は外気で冷え、皮膚に触れると痛かった。小屋には二つの扉があり、俺とクロはその近くで、繋がれている。チビは場所がいいのかすぐに寝たようだ。
「たく、呑気なもんだぜ。ああ、寒い……」クロも寒さで眠れないらしい。クロは続ける。
「あのチビ。まだ御主人様が自分を待っていてくれると考えてるらしいが。甘ぇよ。人なんて飽きたらすぐに捨てるんだからよ」
「お前にも似たようなことがあったのか?」俺が聞くと、クロは途切れ途切れに鳴いた。
「買われたのか。貰われたのか。俺は気付けば、ある嬢ちゃんの誕生日プレゼントとして育てられたよ。最初はあんなにかわいがってくれたのに、いつのまにか、エサを貰うだけになってな。最後は引っ越しをを理由にその辺に捨てられたのさ。その時に爺さんに拾われたんだ。勝手なもんだぜ」
「一体、爺さんはなんで俺達をこんな所に囲ったんだろうな」
「爺さんの家族を見たことがなかったし、寂しかったんじゃないか? 結局、お前に殺されちまって踏んだり蹴ったりだけどな」
「わざとじゃなかったよ……」
そう、わざとじゃなかった。似たようなことをして、爺さんが笑って俺を叱ったことがあったし。あんなことで、死ぬなんて思わなかった。俺が寂しさを込めて吠えると、
「もう老いぼれだったんだな。あいつは、お前のせいじゃねぇよ」クロはそう鳴いた。
そういうことを話していると、俺はだんだん眠くなった。寝ると、気づけば、日が昇り、体が温まった。そして、また飢えがやって来た。目を開けると、デブ犬が爺さんの死体に顔を埋めていた。何かを食す音が聞こえる。
「何をしているんだ。クロ」
クロは俺の声に気付いて振り向いた。口からは血をよだれと共に、滝のように垂れ流し、地面に小さな川ができていた。
「腹が減っちまってどうしようもねぇからよ。食ってんだ。お前もどうだ」
昨日、飯を独占したことに罪悪感を抱いたのか。俺とチビに半分ずつくれた。俺は迷わず、飢えに任せてむさぼった。チビは怯えた声で鳴く。
「おかしいよ。わけがわからないよ。どうして君達はなんの疑問も持たずに食べてんのさ。仮にもボク達にエサをくれた人なんだよ。しかも、君達は僕と違って、何年もあの人のそばにいたんじゃないか」
チビの鳴き声にクロはうっせぇ、と吠え、こう続けた。
「悪いが、俺達はチビと違って、食うことしかねぇんだよ。何日も、何日も、小屋の中で、これしか俺達を満たすのがなかったんだ。食いたくなけりゃその辺の虫にでもくれてやれ! 」
クロの鳴き声にチビは委縮してしまい、死体には口をつけなかった。俺はすかさず、鎖をギリギリまで引っ張って、それを奪った。
こうして、腹が満たされた俺達はまた眠り、気付けば夜になった。外から聞こえ続けた犬達の遠吠えはなぜか消えていた。際限なく爺さんの死体を食ったせいか首輪はきつく、息をするのが苦しかった。しかし、頭の中にあったのは……
「腹減った」クロと俺は同時に吠えた。俺とクロの視線は、自然にチビに向けられる。小さな茶色い犬。その肉は柔らかそうだ。だが、チビを食おうにも鎖が邪魔をして、牙が届かない。
チビは俺達の飢えた視線に気付かず、かゆみを感じたのか。頭に前足をこすりつける。その時、チビの首輪が外れた。
「やった! 外れた! これでマドカの所に行ける! 」
チビは歓喜の鳴き声を挙げる。俺とクロはそれぞれ、近くの扉の前に立った。
「何だよ。通してよ。ボクがマドカの所に行けないじゃないか」
俺は考えた。二つの扉、チビがどっちかに近づいたかによって俺がチビを食うか。クロが食うのかのどちらかが決まる。俺は声を和らげて吠えた。
「別に邪魔はしないよ。ほら、こっちに来るといい。俺が扉を壊してやろう」俺が吠えると、クロも負けじと吠える。
「おいおい、そんな急ぐことはねぇよ。今日はもう寒いだろう。俺の体で冷えた体を温めてやるよ」
チビは俺達から異常な様子を察したのか。なかなか動かなかった。
そして、壁際に着くとそこから隙間を見つけ、潜り込んでしまった。この小屋は新しくない。彼の小さな体ならわずかな隙間でも通れた。
「おい、こら戻ってきやがれ! こんちくしょう!」クロの叫びもむなしく、チビはどこかへと消えた。
チビが消え、クロは血走った眼でこちらに向かった。勢いで鎖が根元から引き抜かれる。チビを食そうとした牙は俺に向けられた。俺もそれに対抗する。その時である、外から誰かの足音がし、俺達は扉に身構える。扉が開いた。現れたのは二人の男だった。爺さん以外の人であった。
「おい! 近隣の苦情どおり、ここにも犬がいたぞ。捕まえろ! 」そう言うと、男は俺達を捕まえた。俺達は鎖に繋がれていて、身動きが取れなかった。
そして、今、俺達は牢屋の中にいる。男達の会話によると、保健所という所らしい。保健所の中には俺とクロ以外の犬がたくさんいた。生きたい思いで鳴き叫ぶ犬。既に死んだかのように黙っている犬。そういった奴等がたくさんいた。クロは俺と向かい合う形で別の牢屋に入っていた。
「俺達、殺されるんだとよ」クロが鳴いた。
「前々から。山に犬の鳴き声がしてうるさい、と思った連中がいたそうだ。飼い主が死んでからは特にな。ここではそういった犬や猫を収容して2、3週間後に引き取り手がいない奴を殺してるそうだ。本当に勝手なもんだぜ」
そう鳴いて、俺達はさっき、保健所の女に渡された飯を口につける。赤みのかかった肉か魚かを練り固めたような円形の物体。口に入れると舌に溶け、鼻から心地良い香りが突き抜けた。うまかった。今まで食べたことのないうまさだった。
「うまい。これが毎日食えるのか。こんなものがある暮らしなんて考えたこともなかった」
「ボケェ。俺が嬢ちゃんに飼われてた時はこんなもんじゃすまなかったぜ。こんなん、生ゴミだよ。生ゴミ」
「そうか。こんなん食えるんだったら、飼い犬として生きてみたかったな」俺がそう鳴くと、クロは目を潤ませてチビ、と鳴き、吠えた。
「あいつ。ちゃんと飼い主の所に戻れたかな。色々あったが、俺はチビを食っちまわないで本当に良かったよ。あいつは何もしてねぇ。何も食ってねぇ。だから……ここに来ないでくれ」クロはそう鳴くと、黙ってしまった。
それから、3週間。俺達は何も吠えず。静かに死んでった。