おじさんの羽
冬木昭彦の仕事は、交差点に立つことだった。
オレンジ色のベストを着て、朝と夕方の決まった時間に、手を上げたり下げたりする。それだけで、一日分の賃金になる。
四十五歳、独身。
日雇いの仕事を転々として、今は交通整理がいちばん長く続いていた。続いているというより、ほかに行くあてがなかった。
安アパートの部屋では、日がな一日スマホを握っていた。匿名で言葉を打っては送る。画面の向こうの誰かが反応し、波のように文字が流れていく。
車の列も、コメントの列も、昭彦は眺めるのが好きだった。自分が手を上げるだけで車が止まる。自分が一行打つだけで空気がざわつく。世界の端が、ほんの少し動く気がした。
ある朝、ベストを脱いだとき、背中に違和感を覚えた。
かゆみとも痛みともつかない、引っかかるような感覚だった。
背中に手を伸ばすと肩甲骨のあたりで、硬いものに指が当たった。
鏡の前に立ち、背中をひねる。
左右の肩甲骨の下辺り、皮膚の下から、白っぽい何かが盛り上がっている。
風呂にしばらく入っていないせいで、デキモノでもできたか……。
ボサボサの頭を掻き、しかたなくシャワーを浴びて、布団に入った。
翌日の仕事中、交差点に立っても、車の流れが頭に入ってこない。
背中の違和感だけが、ずっとそこにあった。
その夜、背中に突き刺すような痛みが襲った。
背中に手を回すと、生暖かいものが手に触れる。
血だ。
慌てて鏡をみやると、皮膚を突き破って、血まみれの鳥の羽のようなものが出てきていた。
昭彦は痛みと恐怖で気を失った。
目を覚ますと、痛みはなくなり血も止まっていた。服や床に着いた血の量からして、それほど出血はなかったのだと、安心もした。
だが、背中の異物は鏡に映らなくても確認できるほどに大きくなっていた。
「羽だ……」思わず声が漏れた。
血を洗い流し、再び鏡の前に立つ。
デキモノがあった背中の二カ所に、五十センチほどの羽が生えていた。
意識を当てると羽は反応した。耳に力を入れると少し動くような感覚だった。
「なんだよコレ」
昭彦は慌て、ジャケットを取り出し羽織り、最寄りの診療所へ向かった。
途中でスマホを開き、〝背中、大きなデキモノ〟で検索をかける。
──女性患者の臀部から、尻尾状の突起物。
──除去手術失敗。病院側を家族が提訴。
短い見出しと、ぼかされた写真。
──違法な臨床試験が原因か──
昭彦は、駅の階段を上る途中で足を止めた。
出所が不明な記事だったが背中が、急に重く感じられた。
病院に行けば、同じように扱われるのではないか。
珍しい症例として、集められ、切られ、失敗すれば「仕方がない」で終わるのではないか。
昭彦は、来た道を引き返した。
アパートに戻り、カーテンを閉め、そのまま仕事に行くのをやめた。
膝を抱え、布団にくるまり震えた。
ふと、若い記憶が脳裏をかすめる。
若気の至りで済ませるには、あまりにも苦い記憶……誰よりも目立つことを考え、行動した結果、虐めの対象にされ不登校に陥った過去。それから慎ましく生きることを心がけ、日陰を歩いてきた。
こんなもの……誰かに見られたら、おもちゃにされるに決まっている。
SNSで陰から攻撃することを生きがいとしていた身として、震えが強まった。
数日が過ぎて食べるものがなくなり、しかたなくコンビニへと向かう。
背中の羽はさらに大きくなっていて、隠すために大きめのジャケットを羽織り、大きなリュックを背負った。
誰とも目を合わさぬよう、急ぎ足で歩いた。
レジで会計を済ませ、部屋に帰る。
道中、誰も自分にスマホを向けることはなかった。
〝中年〟〝背中に羽〟そして住んでいる地域でネット上を探ったが、自分に当てはまる内容はなかった。世界は至って普通だった。
自分はまだ陰の存在だと安心したが、同時に寂しさも感じた。
そして、「また痛い目を見たいのか」と自制した。
通帳の残高を確認し、また日雇いの仕事を請け負った。
仕事は普通にできた。誰も自分のことなんて気にしていなかった。
ただの着太りする中年ぐらいにしか思っていないんだ……そう思うようにした。
そうすると、背中の羽とも向き合うことができた。
いつの間にか、背中の羽を自由に動かせるようになっていた。
意識が羽と繋がっている感覚を確かに感じた。腕が四本ある感覚だ。
羽にくるまり暖を取ることもあった。思った以上に暖かかった。
目一杯に広げると既に自分の身長よりも長くなっていたが、折り畳むとコンパクトになった。大きめのズボンを掃き、ジャケットを着れば、違和感なく外に出ることができた。
これまでと同じ日々が続いた。
ふとテレビをつけると、渡り鳥のドキュメント番組が流れていた。昭彦は思わず手を止めた。
画面の中で鳥たちは、海の上を一本の線のように進んでいる。空は晴れてばかりではない。斜めの風が叩きつけ、波の白が跳ねる。翼は優雅ではなく、必死に空気を掴んでいた。落ちないために動いているだけに見えた。
途中で一羽が遅れた。
けれど隊列は乱れない。群れは進み、遅れた鳥は何度も羽ばたき直し、やがて画面の端で小さくなって消えた。
「自然は厳しい」そのナレーションに、昭彦は消えていった鳥に思いを馳せた。
鳥たちには越えるべき線がある。海峡、山脈、見えない境目。越えられなければ死ぬ。越えたからといって褒められるわけでもない。生き残っても、また飛び続けなければならない。
人の世界と同じだ。
昭彦は思った。
鳥が飛ぶのは、憧れのためじゃない。落ちないためだ。褒められるためじゃない。生き延びるためだ。
自分の人生はどうだ?
叩かれるのが怖くて止まった。止まっている間、匿名で誰かを叩いて、飛んでいる気になっていた。海に消えていった鳥と自分を重ね、涙がこぼれた。
この惨めな気持ちから抜け出したい、そう思った。
どうすればいい──
その問いに応えたのは、背中の羽だった。
大きな羽を羽ばたかせると、部屋中の埃が舞い上がった。
この羽で空を飛ぶことができれば、俺は変われるんじゃ──
それから昭彦は暇を見つけると、飛ぶための練習をした。
冬空の下、人気のない山へ向かい、山肌を駆け下りながら羽を羽ばたかせる。
だが、空気の抵抗は確かに感じるが、一向に飛べるという感覚はつかめなかった。
体重のせいだと思い、ダイエットに取り組み九十キロから七十キロ台にまで落とした。
筋力が羽を動かすための力に繋がっていることに気づき、日々トレーニングに明け暮れた。
手応えは確かにあった。
だが、一年経っても飛ぶことはできなかった。
「意味がねぇじゃねぇか、こんなもん」そう吐き捨て、羽をむしり取ろうとしたが、痛みで身悶え止めた。
羽は確かに自分の一部になっていた。
飛ぶために足りないこと──
頭に浮かんだのは、渡り鳥の姿だった。
死ぬのを恐れず飛び続ける覚悟。越えねばならぬ線。
気付いたら、五階建ての雑居ビルの屋上に上がっていた。
夕日の沈むころ、赤く染まった空、真下では街が賑わいを見せ始めている。
そこで、昭彦はジャケットを脱ぎ捨て、羽を大きく広げた。
「死ぬ気になれば飛べるかもしれねぇ」目は虚ろだった。
ここで飛べば、新たな人生がここから始まるのかもしれない。
注目を浴びるかもしれない。
漫画やアニメで観てきたヒーローになれるかもしれない。
「俺は変われる」
靴を脱ぎ捨て、屋上のフェンスを乗り越えてパラペットに立った。
「ねぇねぇ、お母さん。大きな鳥さん居るよ」
隣の高層マンションから声が聞こえた。
見上げると、雑居ビルから五階層ほど高い部屋のベランダの柵の隙間から、小さな子が昭彦へ視線を送っていた。
「危ないから中に入りなさい」母親らしき女性が叫んだ。
「ええーでも、すごく大きくて、すごくかっこいいよ」
子供は昭彦から目を離さなかった。
昭彦もまた、視線を逸らせずに居た。そして手を振り、フェンスの間からジャケットを拾い上げ恥ずかしそうに着た。
ここで飛び降りて飛べなかったら、きっとあの子のトラウマになってしまう。
場所を改めよう。そう思いフェンスに手をかけた瞬間だった。
悲鳴が聞こえた。母親の声だ。
見やると、ベランダの柵を上る子供の姿が見えた。
昭彦は考えるより先に動いていた。
マンションと雑居ビルは隣接しているが、一メートルほどの隙間があった。
そのまま地面まで落下すれば即死。
間に合う。間に合え。そう言い聞かせ、昭彦は無我夢中で走った。
昭彦は、落ちてくる子供をパラペットの縁で受け止めることができた。
だが、落下の衝撃とバランスの悪い足場で体勢を崩す。
昭彦は咄嗟に地面を蹴り、通りの方へ飛んだ。そこなら羽を広げることができると思った。
「ここで飛べなきゃ意味がねぇだろ」
昭彦は叫んだ。そして羽を大きく広げた。
だが、飛ぶことはできなかった。
羽の付け根が痛み、ただ重力に引かれて落ちていくだけだった。
それでも、子供を抱いた腕は緩めなかった。
そして羽を畳み、子供を包み空中で体を反転させた。
その直後、強い衝撃と息が潰れる感覚が襲い、視界が白くなった。
目を覚ましたとき、天井は白かった。
消毒薬の匂いが、遅れて鼻に届く。
体を動かそうとして、背中の違和感に気づき手を伸ばすが、全身の痛みでビルから落下したことを思い出した。
そして、背中には何もなかった。
医師は静かな声で説明した。
身につけていた〝衣装〟がクッションとなって一命を取り留めた。複雑に骨折した背中が完治する保証はない。と。
昭彦は、その症状よりも、背中の羽が〝衣装〟と判別されていたことに落胆した。
「これじゃあ、ただの、コスプレおやじじゃないか」
希望を見いだそうと藻掻いた体の一部が綺麗さっぱりなくなった。
入院費と手術費の請求書だけが残った。
それでも、数日後、病室に助けた子供とその両親が訪ねてきた。
羽と昭彦がクッションとなって、奇跡的に子供は無傷だったと言われた。
両親は何度も頭を下げ、子供は小さな声で礼を言った。
昭彦は、うまく返事ができなかった。
ただ、「よかったな」と、それだけを言った。
数ヶ月後、退院してしばらく経った頃、昭彦は街角のモニターで自分の羽を目にした。
ガラスケースの中に広げられ、学術的価値があるだの、現代のヒーローの象徴だのと説明されている。
少し調べたら、事後処理中に誰かが羽の異変に気づいて調査を行い、遺伝子的に地球上のどの生物とも一致しない構造が見られ、子供を救った奇跡の羽として標本とされた。そういううさんくさい記事が並んでいた。
だが、どの記事にも昭彦の名前はなかった。
昭彦は実物を見に行った。
人々は立ち止まり、写真を撮り、羽を見上げ目を輝かせていた。
子供を助けたのは、イケメンのヒーロー、あるいは絶世の美女、天使だったなど、コメント欄を賑わせていた。
昭彦は人混みを抜け、その場を離れた。
アパートに戻り、窓を開ける。
外には、いつもと変わらない空が広がっていた。
背中に意識を集中すると、肩甲骨が少し動いた。
昭彦はしばらく空を見上げ、それから静かにスマホを起動した。




