なーろっぱ世界の短編 婚約破棄とか聖女とかドアマットとか転生とか
最初から友情などなかったのです ~元ドアマットの公爵夫人と疎遠になった友人達~
今でも私は夢に見る。
あの夜。
雨の激しく降っていた夜を。
妻が我が屋敷の門の前で倒れていた、あの運命的とさえ思える雨の夜のことを。
濡れそぼったドレスに泥を纏い、青白い顔で震えながら、倒れていた彼女のことを。
抱き起した時、虚ろな視線がゆらめいて、私の名前をつぶやいてくれた彼女の声を。
彼女は二日間昏昏と眠り続け、ようやく目を覚まし、ぽつりぽつり、と語ってくれた。
ひとつ違いの義妹に辛くあたっていたという罪を被せられ、婚約を破棄され。
義妹にすべてを奪われ、家族からも見放されたことを。
あんなにも家のため家族のために尽くしていた彼女になんという仕打ち!
思わず憤ってしまった私に、彼女は
「わたしが悪いんです……皆さんの満足するようにできなかったから……わたしが……」
彼女は最後まで誰かを恨むことなく、ただ静かに泣いていた。
あれからすべてが変わった。
私は独自に彼女の家族や元婚約者のことを調べ。
冤罪を晴らした。
義妹は相手が異性か同性かで態度を変える女で、女性には人気がなかったから証拠集めは楽だった。
そして彼女自身も、徐々に変わっていった。
最初は私に褒められると「この程度のことは……出来ても当然ですから……」と戸惑っていたが。
実家が立ち行かなくなり崩壊していくのを目の当たりにして、徐々に自分の能力と価値に気づくようになり。
父親からの、戻れと言う呪いにも似た命令も断れるようになり、
最後、実家も義妹も元婚約者も断罪する場では、震えてはいたが、情にほだされることなく、
「わたしの居場所は、あなたがたのところではありません」
ときっぱり言えるようになっていた。
今や彼女は私の妻であり、公爵夫人だ。
誰が見ても気高く、優しく、聡明で、控えめな笑顔の裏に秘めた強さを、私は誰よりも知っている。
学園時代、周囲から『美しく華やかな義妹とちがって、地味で目立たず凡庸な姉』と囁かれていたという過去など、今では信じられないほどに。
彼女の献身的な愛情、細部にまで行き届いた気遣い、夜毎に私の胸に寄り添う温もり——すべてが愛おしくてならない。
だが、最近、妻の顔色がさえない。
「はぁぁ……」
私が見ていない時、そっと溜息をこぼす姿を、侍女たちが見ているという。
私の前では懸命に笑顔を浮かべ、いつものように「大丈夫ですわ」と取り繕っている。
しかし、私がそんな変化に気づかないわけがない。
夜、寝息を立てる彼女の寝顔を見ていると、微かに眉間に刻まれる皺や、時折零れる小さな溜息が、胸に突き刺さる。
彼女の憂いは、晴らさなければならない。
私なりに調べてみた。
どうやら、学生時代に本当に親しくしていた友人たち——今のように、公爵夫人という地位に寄りついてくる連中とは明らかに違う、本物の友人たち——と、最近、ひどく疎遠になっているらしい。
特に、妻が最も信頼を置いていた女性――今や年若い女公爵――とは、ほとんど交流がない様子だ。
……なぜだ?
あの婚約破棄の件で、彼女たちには大いに助けてもらった。
彼女たちは、妻が無実な証拠を大量に用意してくれて、それは冤罪を晴らす大きな力となった。
もしかしたら、いや、間違いなく、わたしが集めた証拠より、彼女らの集めたものの方が多かった。
妻は今でも時折、懐かしそうに学園時代の話をすることがある。
だからこそ、その交流は今でも続いていると思っていた。
なのに、なぜ皆、よそよそしいのか。
私はまず、妻が名前を挙げていた友人たちが、妻が主催した茶会への招待に対する返事を全て読んだ。
どれも素っ気ないものばかりだった。
『多忙につき申し訳ありませんが……』
『近況は伺っております。公爵夫人としてお健やかで何よりです』
誰もが社交辞令の域を出ず、昔の親しさなど微塵も感じさせなかった。
一応、理由はある。
現在、彼女らはみな、他派閥に属する人々なのだ。
「……」
全員が他派閥。
なにかおかしい。
学園生時代つきあいのあった全員が他の派閥の人間だった……。
全員が全員?
逆にこれが妻の一族と同じ派閥だったなら、まだ判る。
だが、全員が他派閥。
「……」
いや、ありか。
同じ派閥なら、妻の実家からの圧で、妻と友達づきあいはしていなかったはずだ。
それでも、引っかかる。
私は調べ続けた。
すると、更に不可解な事実が出て来た。
友人達の中には、かつては同じ派閥だった人も何人かいた。
だが、結婚や、結婚から数年のうちに、全て別の派閥に鞍替えしているのだ。
確かに、そこには合理的な理由もあるが……。
全てがもっともらしく、調えられ、説明ができる。
だがそれは妻の視点から見れば、全員が離れていったようにしか見えない。
「……」
私は、決意した。
学園生の時代、妻の親友と目されていた女性。
彼女なら何か知っているかもしれない。
幸い、私の公爵領と、彼女の公爵領は同じ街道が繋がっており、その整備の協力並びにその周辺の開発という名目なら、面談が可能だった。
私は妻に、
「今度、アデレード公爵家と事業の提携をすることになるかもしれない」
アデレード公爵家、と名前が出た瞬間。
妻の顔に一瞬影が差したのを、私は見逃さなかった。
イライザ・アデレード。それが妻の親友の名前だ。
「そう言えば学園に通っていた頃は、現御当主と交流があったそうだね」
「ええ……今ではすっかり疎遠になってしまいましたが」
そこには隠し切れない寂しさが含まれていた。
「そうか、それは残念だな」
「彼女は、あの派閥の中心のひとりですから……昔のつきあいなど、忘れてしまったのでしょう……」
その声を聴くと、なんとかしたいと思ってしまうのだ。
「彼女は……真っ先に、わたしのことを認めてくれた人でした」
「それは凄いな」
当時、妻は『地味で凡庸でとりえのない姉』としか見られてなかったのに。
「でもわたしは……それを社交辞令だと思い込んでいて……何度言われても信じられなくて……そのうち言ってもらえなくなって……愚かでした」
胸がずきりとした。
昔、妻には自尊心というものがなかった。
だから友人の言葉を信じられなかったのだ。
もしかしたら、それが原因なのか?
いや、いけない。
決めつけてしまっては、妻の義妹の言葉だけを信じて、妻に婚約破棄を宣言した愚か者と同じだ。
「君の言っている通りの人間であれば、その程度で離れはしないさ」
「……」
妻の顔から憂色の気配は晴れなかった。
※ ※ ※
アデレード公爵家の屋敷は、王都の中心近くに巨大な面積を占めていた。
我が家と並ぶ由緒と力がある名家だから当然だ。
重厚な鋳鉄製の門を通され、しばらく馬車で走ると、豪壮な車寄せがある。
馬車を降り、歴史ある家に相応しい風格の執事に案内され応接間へ通される。
すでに若い女公爵は待っていた。
燃えるような見事な赤毛の女。
イライザ・アデレード。
妻の数少ない友人のひとり――だった人。
妻がかつて言っていた。
「もし、あの恐ろしい断罪の会場に、貴方かイライザ様がいらっしゃったら……義妹は断罪など仕掛けなかったでしょう……」と。
ビジネスの話は、とんとん拍子に進んだ。
彼女の話は理知的で、感情を全く見せず、利害関係の計算でも隙がなかった。
だが、その間に、個人的な話は一切出ない。
彼女は、私の妻が誰か知らないはずがないのに。
なぜ、その人間関係を利用しない。
我が妻は今や公爵夫人なのだから、昔のよしみで近づいてもよさそうなのに……。
「では、大枠はこれで」
「ああ、双方とも利益がある条件だ」
ビジネスの話は、双方満足する形でまとまった。
細部については、事務方が詰めるだろう。
逆に言えば、ここを逃せば、個人的な話をする機会はないかもしれない。
私は、見事に淹れられた紅茶を一口飲んでから、本題を切り出した。
会話の流れで自然に出そうと考えていたのだが、その機会がなかったので、仕方がない。
「妻が最近、寂しそうにしている。学園時代、貴方とは特に親しかったと聞いているが……今はほとんど交流がないようだ。何かあったのですか?」
イライザ・アデレード。
いや、女公爵は微笑みを崩さず、書類に目を落としたまま。
「ただ事業提携の件ですが、御領地の鉱山権益について、もう少し譲歩していただければ……こちらからも鉱山へ続く街道整備に一層の協力が」
「その件に関しては、こちらにも交渉の余地がある」
確かに、そこは詰め切っていないところだった。
だが、街道整備で協力を今よりもして貰えるなら、譲歩の余地はある。
「では、そこも後程、事務方に詰めさせましょう」
「妻にも見てもらうが……問題ないだろうか?」
「ええ、問題ありません。そちらの家中の事ですから」
その言葉には、妻とかつて知り合いだったという気配は欠片もない。
「貴方は……妻が有能であることをいち早く見抜いていた、と聞いたが」
「成功した方の周囲には、後付けの先見の明を誇る方がいらっしゃるものです」
「妻の口から聞いたのだ」
「学生時代の、よくある身びいきでございましょう」
「妻も当時はそう思っていたらしい」
「なら、そうなのでしょう? なんにせよ昔のことですから」
「……」
なんだこれは。
これでは、妻が招待状を送っても、表面上は正当な理由をつけて断ってくる人々と同じではないか。
同じ。
つまり、妻の友人達は全員、現在の妻に対して同じ態度を……。
なぜ。
「だが、貴方たちは学生時代、妻と非常に親しかったでは」
ぴくり、と女公爵の眉がひそめられた。
「……学生時代親しかったとしても、卒業すれば疎遠になるなどいくらでもあるでしょう」
「その割には、妻の冤罪を晴らす時に、大量の反証材料を提供してくれたではないか。あれは、数日で集められるものではない」
私が数か月で集めた証拠など、霞んでしまう量の証拠。
あれこそが元婚約者と義妹の虚構を徹底的に破壊したのだ。
あれだけの証拠があったなら、断罪などされる前に、婚約解消だってできただろう。
「断罪をしたのは、妻と私。だが、決定的だったのは貴方がたの証拠だった」
「そんなこともありましたわね……ですが学生時代というものは、今より時間がたっぷりありましたもの」
女公爵は、つけくわえた。
「それに、あの泥棒猫お嬢さんは、男相手と女相手で態度を変えるので、ずいぶんと嫌われてましたからね。証拠集めも貴方が思っているほど難しくはなかったんですよ」
事実だった。
たった数ヶ月で、大量の証言が集まった。
大部分の女生徒は、義妹の事が嫌いだった。
「だが、あの量は……」
「全て昔のことですわ。わたくしたちはもう学生ではありませんもの。各自、別の人間関係を築いているのが自然でしょう?」
「……」
この人は、話す気がないのだ。
なめらかな壁をひっかいても音すら出ない、そんな感触。
拒絶より冷たい。
それでも私はあがくように、
「……妻が寂しがっている。昔の友として、少しでも構ってやってくれないか」
女公爵は、優雅に肩をすくめ。
「申し訳ありませんが、それはできませんわ。それに、今の彼女にはたくさん友人がいらっしゃいますから、私が入る場所などありませんわ。公爵家の御当主である貴方には、わかっていらっしゃるのでは?」
それを言われると私は何も言えない。
なぜなら、妻の周りには我が公爵家を中心とした派閥の夫人たちがいるからだ。
そこへ他派閥の人間を入れれば波風が立つ。
「だが、この提携を機会に――」
「貴族が利害で共同で事を起こすのはよくあること。ですが、違う派閥の者が社交で表立ってつきあえば、違う憶測を呼びますわよ」
「……」
塞がれた。
この人は、断固として、妻との個人的な付き合いを復活させる気もなければ、そのわけを教える気もないのだ。
私は行き詰った。
それでも、手掛かりの欠片でも知りたかった。
「……ならせめて教えてくれませんか。妻のかつての友人たちも皆一様によそよそしい。それでも妻は今でも君の名前をしばしば挙げる……。何があったのか少しだけでも」
女公爵は私を見た。
そして、ふと思い出したように、目を細めて言った。
「それにしても、気づけばよく似ていますわね」
「なにがですか」
「似てないように見えても血は争えませんわね。あの頃は判らなくても今はよくわかりますわ」
「……何の話です?」
女公爵はにこりと微笑んだまま、立ち上がった。
「あの夜のことをもう一度思い出してみたらいかが? 加えて王都の地図を見ることをお勧めしますわ」
あの夜は妻が婚約破棄された夜。
だが王都の地図とは……。
「では、本日はこれで失礼いたします。提携の件、よろしくお願いしますわね、公爵様」
そう言い残すと、女公爵はそれ以上一切の説明を加えず、執事に
「お客様はお帰りですわ」
と告げた。
私は得るところなく帰りの馬車に乗り込んだ。
いや得るところはあった。
あの夜の仔細。
そして王都の地図。
だが判らない。
女公爵は何を言おうとしたのか。
「離宮へやってくれ」
私は御者に命じた。
あの夜、婚約破棄が行われた会場だ。
馬車は引き返し、アデレード公爵邸の延々と続く屏の前を通り……
すぐ目の前に離宮があった。
「近い……」
こんなに近かったのか。
歩いてもすぐだ。
何か知ってはいけないことを知ってしまった気がした。
それが何かは判らなかった。
「……妻の元実家にやってくれ」
馬車は再び動き出した。
離宮の前から別の大通りへ、そして脇道へ入り、下級貴族の邸宅が建ち並ぶ一角へ入り……。
今は無人のちいさな屋敷が目に入って来た。
妻のかつての実家だ。
離宮からここまで、それなりに距離がある。
律儀なところがある妻は、わざわざここへ戻って婚約破棄されたことを報告してから、家を追い出された。
激しく雨の降る中に、勘当されて放り出されたのだ。
妻の元家族はこの世にいない。
義妹は修道院に送られ、そこから逃げようとして転落して死んだ。
妻の両親は、正統な後継ぎを虐待し、義妹に家を継がせようとしたお家乗っ取りで、処刑された。
元婚約者も、多額の賠償で実家は零落し、元婚約者自身も勘当され、鉱山で死んだ。
「……」
だが、すでに怒りはない。
全てすんでしまったことだ。
今、妻は幸福で……。
愛しい妻に会いたくなった。
会いたくてたまらなくなった。
「帰るぞ……」
馬車は動き出した。
女公爵が何を言おうとしたのか、私には判らなかった。
なぜか、判らなくてよかったと思った。
「! 止まれ!」
私は馬車を止めさせた。
窓の外には、見たことがないのに、どこかで見たことがある屋敷があった。
長大な屏に囲まれた、有力大貴族の屋敷。
「!」
判った。
判ってしまった。
これは、あのアデレード公爵邸の裏側だ。
屏の間にある裏門には、4名の警備兵が詰めている。
実家を追い出された妻が、ここを通っていたとしたら……ここで倒れていたとしたら。
「いや、妻は我が屋敷まで来て倒れたんだ……そんな仮定の話は……」
雨の日。
親友の屋敷。
離宮からも実家からもすぐ。
なんでここで助けを求めなかったのか?
「妻は……友人に迷惑をかけたくなかったんだ……」
私は、そう呟いた。
だが、ならばなぜ、私の家まで来た?
私には迷惑をかけてもよくて、親友には迷惑をかけられない。
いや、たまたまあそこで倒れただけで……。
考えるな。
これ以上考えるな!
この屋敷に助けを求めていれば。
夜会に招待されていなかった女公爵はいたはずだ。
妻はすぐに保護され。
あの膨大な証拠が威力を発揮し。
冤罪はあっさりと晴らされただろう。
あれだけの調査。
しかも、妻の友人たちのうち何人もが協力していた証拠集め。
それに妻が気づいていなかったはずがない。
私は、馬車の中で、身じろぎも出来なかった。
もし、あの婚約破棄の日。
妻が、まっすぐここへ向かっていたら。
というか、それが自然。
はるかに近いのだから。
なのに妻は、わざわざ私の家の前に倒れていた。
つまり、安全な逃げ場所を避けてわざわざ遠くまで……。
まさか、あの妻がそんなことをするはずがない。
「だって……それではまるで……最初から私を狙っていたようじゃないか」
雨の夜。
雨に打たれて冷たくなりかけていた裸足の令嬢。
私がそんな境遇の人を助けないわけがない。
私は激しく頭を振った。
「馬車を出せ! 今度こそ帰るぞ!」
馬車の歩みをひどくのろく感じる。
遠い。
夜会の会場から、我が家までは遠い。
それは、妻がわざわざ歩いてきたことを証明するようだ。
そんなはずはない。
彼女は、誰にも迷惑をかけたくないからさまよってたまたま……。
だが、一度疑念が浮かぶと、考えは止まらない。
妻は、私に有能さを褒められて、そんな風に言われたのは初めてだ、と言って感動していた。
慣れてないんですと。
だが、妻自身が言っていたではないか、女公爵たちは早くから妻の才能を認めていたと。
当時の妻はそれを冗談ととっていたと。
なんで、夫である自分が認めると受け入れ、友人達が言うと受け入れなかったのか。
不意に女公爵の言葉が耳に蘇る。
「あの泥棒猫お嬢さんは、男相手と女相手で態度を変えるので、ずいぶんと嫌われてましたからね」
女公爵は言っていた。似ていると。
あれは、妻と破滅した義妹が似ているということだったのでは。
あの当時は判らなかったが、振り返れば気づくと。
女友達からの言葉は、冗談や身びいきで済ませ、私の言葉は受け入れて、感動しさえする。
簡単に助けてもらえる友人を無視して、わざわざ私の家の前で倒れる。
あの義妹は婚約者を寝取り、子爵令嬢から伯爵夫人になろうとした。
妻は、私と結婚し、子爵令嬢から公爵夫人になった。
男を漁って、上へ登ろうとする。
おんなじじゃないか。
「ちがう……妻はそんな女じゃない」
そんなはずはない。
私の声は弱弱しかった。
「そんな女じゃない……」
だがもう、前と同じように妻を見られる自信はなくなっていた。
馬車が止まった。
私は、窓から外を見た。
見慣れた我が家の門だ。
私は馬車から降りた。
門番や御者が驚いているが、気にしている余裕はない。
門の前、すぐ側の茂み。
……ここだ。あの婚約破棄の夜、彼女が倒れていた場所。
なぜここだったのか。
「……偶然だ……ここまで来て……偶然ここで倒れた……」
おそらく城門から出るつもりだったのだ。だから……。
だが、城門へ続く道は、ここを通らない。
では、なぜここに。
「目指して……歩いて……ここで――」
わざと、倒れていた。
喉の奥が苦い。
愛おしかったはずの妻の笑顔、初めて褒められたと言って目を輝かせた表情。
すべてが今、別の色に見える。
あの表情の奥には、泥棒猫と同じ感情が潜んでいたのか。、
それとも、無意識だったのか。
「…………」
私は、門の前で立ち尽くす。
帰ったらどうする。
妻は迎えにでてくるだろう。
女公爵に話を聞く前と同じように彼女を抱きしめるべきか。
それとも、何も知らなかったふりをして、疑念を胸に押し殺すのか。
私は、いつのまにか握りしめていた拳をほどくこともできず、動けなかった。
※ ※ ※
それからしばらく経って――
ここは都の外れにある小さなサロン。
学園時代からの親友たちが、いつものように集まっていた。
結婚後も、子を産んでも、領地経営に追われても、この茶会だけは欠かさない。
彼女たちにとって、ここは派閥の繋がりを越えた数少ない「本音を言える場所」なのだ。
話題が、僅かに途切れた瞬間。
誰かが呟いた。
「聞いた? あの公爵夫妻、最近ぎくしゃくしてるみたいよ」
「ああ……あの旦那、中途半端に頭がよかったか……」
そう言ったのは、イライザ・アデレードだった。
一人が続けた。
「わからないままなら、ずっと幸せでいられたのに」
「でも、あの人が、旦那を手放すかしら?」
「私達の手を何度も払いのけてまでして、つかみ取った旦那様ですものね」
彼女らは何度も言ったのだ。
あんな婚約者最低だよ。
証拠ならもう集めてあるから。
あなたは一歩踏み出すだけでいいの。
だけど、あの人は踏み出さなかった。
当時、彼女らはみな歯がゆく思ったものだ。
だが、今なら判る。
まだ踏み出す時ではなかったのだ。
あの旦那を捕まえることができないから。
ひとりが、気弱そうに、おずおずと言った。
「でも……どうなんでしょう。ほんとうに偶然だったのかもしれませんよ」
「……ありえなくはないですわね」
そうなのだ。
もしかしたら偶然だった、のかもしれない。
あの人は、友人達の言葉を本当に社交辞令だと思っていた、のかもしれない。
たまたま、公爵邸の前で倒れていた、のかもしれない。
女公爵が、息をそっと吐きだすような声でつぶやいた。
「だけど、それを信じてあげられる?」
みな黙り込み。
ちいさく、あるいは目を伏せ、あるいは勢いよく首を振った。
全てを偶然と思い込んであげられるほど、彼女らは子供ではなくなっていた。
「……次はどうなってしまうのかしらね。今度はどの家の前で倒れるのかしら?」
「ふふっ、別の公爵様? それとも……もっとやんごとなき方かしら?」
「あの泥棒猫ならそうしていたでしょうけど……あの人はどうかしらね?」
女公爵が、扇子を閉じ、静かに言った。
「でも、わたくしたちはもう関わらないわ。あの子とは……最初から、友情なんてなかったんだから」
その声にはかすかな痛みがあった。
誰もが頷いた。
ぬぐい切れない疑念が、学園時代にあったはずの絆を、静かに消していた。
今、残っているのは彼女たちだけの、固い友情だけだった。
たくさんの作品の中から、本作をお読みいただきありがとうございました。
最後までお付き合いいただけたこと、とても嬉しく思います。
少しでも心に残るものがあったり、何かを感じていただけたなら、
評価や感想をいただけるととても励みになります。
別の物語も書いておりますので、もしよろしければ、そちらも覗いてみてください。




