グラファーと誘いの森
深緑を進む勇み足が空元気によるものだと気づくのに、そう時間はかからなかった。
大地を踏みしめるたび、足が地面へ飲み込まれる感覚に囚われ、次の一歩が今にも踏み出せなくなりそうだ。
それでもなお歩を進められるのは、唯一こちらに持ち込めたカメラがあるからだろうか。時々握りしめることで、不思議と気持ちが落ち着いた。
そんな中、ニャンバルにテレパシーの仕方を教わった。どうやら使い魔と契約により、無料特典として使えるようになるらしかった。
しんとした木々の中にこだまする声は、捕食者に居場所を知らせるサイレンのようなもの。気配を少しでも断つのにうってつけだ。今はとにかく、探知魔法を頼りに歩を進めるしかない。
テレパシーの練習も兼ねて、ニャンバルに質問を積み重ねていく。
「俺はついさっき、パックから出たカードのせいでここに来たわけだけど…それには『グラファーとして召喚する』って書かれてたんだ。それに、あのカードを使った『コスト』をどうやって払うのか。払わないとどうなるのか……グリモ・ダラスから何か聞いてないか?」
ニャンバルは一瞬うつむいたかと思うと、目線を再び進行方向に顔をむけながら、話かけてきた。
「僕らはグラファーの使い魔として奉仕するのみだから、君が来るまでについては何もダラス様から教えられていないんだ。だから君が支払ったコストについては何もわからない」
「だけど『グラファー』…君の使命については説明できるよ」
これまでに、何人かのグラファーと旅してきたのだろう。そこからの説明は手慣れたものだった。
「グラファーっていうのは、アルノシアの森羅万象を”観測“してMMクリエイター、プレイヤーに届ける観測者のことなんだ。」
「観測者?観測したものを届けるって、何を?どうやって?」
「”観測”の仕方は、すでに君の体に染みついてるはずだよ。君が唯一持ち込めた『それ』は何に使う道具なんだい?」
「これはカメラといって、ここのボタンを押すとレンズに写した景色を撮ることが……」
その瞬間、手元の「相棒」がニャンバルの意図をくみ取っていたことに気づいた。
「まさか……これで撮影したものがMMを知ってる人たちに届くのか……?」
その意味を理解した瞬間、鳥肌が立ち、身体中が沸騰するのを感じた。
「その通りだ!グラファーは、アルノシアの世界を『撮影』してMMクリエイター、MMプレイヤーにアイディアとして届けることで、彼らの想像力を刺激する役割を担っている。察しがいいね!シオン!」
突然ニャンバルは俺の顔から首にかけて身体を擦り付けてきた。よほど嬉しかったのだろうか。肩から背中にかけてのしっとりしてツヤがある毛並みを撫でてやった。
「なるほど。でも、充電がなくなると撮影できないし、もし仮に充電できたとして、写真を現像できる機械もない。どうやってこの世界のことを伝えるんだい?」
そう言った途端、ニャンバルはクスクスと笑い出した。猫耳がせわしなく動く。
「充電がなくても動くようになってるよ。それに、写真で届けるわけじゃない。『アイディア』、つまり想像のキッカケとして思いつくようにするだけだ。ちなみに、グラファーがアイディアを届ける相手のことを『グラフィカー』と呼ぶんだ」
「そういうことか……にわかには信じられない話だ。MMの世界が本当にあるだけじゃなく、ええと、グラフィカー……?にアイディアを与える存在がいるなんて……」
身体が震えるのを感じて立ち止まり、ニャンバルと目を合わせた。木漏れ日が俺とニャンバルを照らし、光が毛並みを波紋状に彩る。
「どうしたんだい?もしかして怖いのかい?」
「そりゃ怖いさ。クリーチャーに殺されるかもしれないし。でも、それ以上に嬉しいんだ。一緒に遊んだ、戦った彼らの生き様が作り話じゃないことが分かって。俺が信じて夢中になった世界が本物だと知れただけで、こっちに来た甲斐があったよ」
希望が湧いた直後、突然頭にサウナのイメージが流れ込み、ハッとして再び目線を遠くに定めると、霧が視界を遮り始めているのが分かった。テレパシーに夢中で、大気がはらんだ水蒸気が気道を絞っていることに気づかなかった。
「それにしても、重要な使命なのに今は生きるだけで精一杯だな……」
口から溢れる不安を尻目にニャンバルの方を見やると、先ほどと打って変わり深刻そうな面持ちで地面を見やっている。その猫目には暗い光が灯っていた。
「その通りなんだ、シオン。僕たちは一生懸命になって生きようとしている。だけどこの状況はグラファーにとってはありえない。」
「随分含みのある言い方をするじゃないか」
「グラファーは本来、アルノシアに干渉されない、干渉できない存在なんだよ。だからこそ、アルノシアの因果にとらわれず、あらゆる年代、パラレルワールドへの移動ができるし、どんな危険な場所でも観測できる。この世界に縛られないはずなんだ。」
「だけど今の僕らは、アルノシアの因果法則に囚われて、その一部になってしまってる。」
「……!攻撃を受けるなんてありえないって動揺していたのはそういうことか……」
「その通りだ。なぜ僕たちがこうなってしまったのか、その謎解きは後回しにしよう。このままでは魔力切れで行き倒れだ。」
いつもと勝手が違いすぎることに、ニャンバルもまた、動揺しているのだろう。猫目の奥に不安が見え隠れしていた。それでもなお、これまでの経験値をフル活用して、窮地を何度も救ってくれたんだ。今度は俺が…!
「さっきまでの威勢の良さはどうしたんだ?ニャンバル!なぜ俺が選ばれたのか、どうやったら元の世界に戻れるのか、そしてなぜアルノシアの世界に巻き込まれたのか。まだわからないことだらけだけど、今は任された使命をやり遂げるだけさ!だから俺についてこい!」
俺なりの、不安にさせまいとするための満面の笑みだった。
「そうでなくっちゃ!シオン!やっぱりダラス様の見込みは間違いないや!最初は鈍感すぎてどうなることかと思ったけど」
「仲良くなる前にイジる奴にはこうしてやる!」
ニャンバルをつかみ、頭をグーでグリグリしてやった。
「わったたっ!ごめん!ごめんてシオン!もっと仲良くなってからイジるからさあ!」
「そうじゃねえ~!!」
体を縛り上げて張っていた糸が、ほぐれた気がした。…………こんな喧騒など無関心とばかりに、しんとした深緑の中、風が揺らした葉っぱの音がまとわりついてくる。
ニャンバルの探知魔法が示す先は、まだまだ先だった。
――木々は言葉を持たない代わりに、風を通じて警告を囁いてくる。 ここは侵入者の来訪を快く思っていない――そんな風に、僕の耳の奥でざわざわと鳴っていた。
「シオン、大丈夫? 随分歩きっぱなしだったから、無理しないでね」
体感では3〜4時間、歩き続けているのではないだろうか。こちらにきてから、不思議なくらい体力が続いていたが、もうそろそろ限界が近いらしい。
ニャンバルの声がどこか遠くに感じた。気を張り詰めすぎた反動もあるのだろうか。
「……ああ、平気だ。まだまだ歩けるさ」
身体はまだ動く。だけど頭の奥がじんわりと熱く、思考がノロノロとしか進まない。さっきまでの察しのよさが嘘みたいだ。
ふと頭上を見上げると、木漏れ日が、幾筋もの光となって降ってくる。 その一条一条が、まるでこの世界が描かれたカードの光沢みたいで、ふと懐かしさが胸を締めつけた。
「……ねぇ、シオン。あの光の向こうに、何か見えない?」
ニャンバルのテレパシーに顔を前に向ける。 霧がかった森の奥、そこに微かな明滅があった。火? 違う、それはもっと規則的で、人工的な光。いくつもの橙色の粒が、木々の合間に揺れていた。
「……集落かもしれない」
心臓が小さく跳ねた。ようやく“誰か”がいるかもしれない場所に辿り着ける。不安という名の霧を抜けるための、一筋の希望だ。
「あそこに辿り着けば――きっと、この世界の輪郭が見えてくる」
風が一層、強くなった気がする。木の葉が騒ぎ、地面に伸びる影がざわついた。 まるで心から湧き出る怖れが森に投影されているかのような、そんな錯覚。
「僕の探知魔法が示す目的地も、あの場所みたいだ」 ニャンバルが僕の肩に飛び乗り、小さく身を丸めた。温もりが肩口に伝わってくる。怖さを押し隠すには、それだけで十分だった。
歩を進めるたびに、足元の地面は柔らかく、腐葉土が音を吸い込んでいく。 空気は湿っていて、森全体がゆるやかに脈動しているように思えた。
やがて、木々の合間から石積みの門が見えてくる。 苔むした外壁、木製の扉、そしてその上にぶら下がった古びたランタンが、誰かの生活の痕跡を訴えかけてきた。
「……本当に、あったんだな」
つぶやいた声は、自分でも驚くほど安堵を帯びていた。
その瞬間、門の隙間から目が合った。 深緑の瞳。人間かどうかも判別できないほど無表情な、それでいて、すべてを見透かすような眼差しだった。
「よそ者だな」
低く、乾いた声が門の向こうから響いた。
今度は俺が、マジック・マスターズに信じてもらう番だ。
書き溜め分が無くなったので、明日以降は更新が遅れます。週末までには1〜2話更新する予定です。