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「私と一緒に……」


 美羽の両目がきらりと光る。母さんが包丁を握っていたときと同じ目だ。


「ジージジージ ジージジージー ジジ ジジージジー」


 鳴き声にはっと顔をあげた清水はボディバッグのジッパーを開けてなにかを取り出そうとしたが遅かった。

 体格の差をものともせず、美羽は渾身の体当たりをした。

 清水がよろめく。清水の手にはペットボトルの水。

 それを見た美羽は顔色を変える。

 蓋を開けようとする清水と、開けさせまいとする美羽が階段のそばで揉みあう。まるでダンスだ。


「ジージジージ ジージジージー ジジ ジジージジー」

「一緒に死んでッ」


 階段の上で清水がバランスを崩す。美羽はさらに清水の背を押した。

 俺は旋回して美羽の腕にとまり、樹液を吸うストロー状の吻を突き刺した。


「痛っ……!」


 次の瞬間、清水の姿が消えた。階段から落ちたのだ。

 俺はなんて間抜けだったんだろう。なんで見抜けなかったんだろう。

 清水が死んだら俺は……。

 後悔が俺を暗闇に突き落とす。

 次の瞬間、世界は眩しく輝いた。空中に舞い上がったペットボトルが回転しながら水を撒き散らす。渦を描いた水流に陽光が反射して、世界は光に満ちた。

 とてもきれいだ。

 そして俺は死んだ。いや、間借りした蝉がぐしゃりと潰れた。

 蝉の衣からにゅるりと抜け出す。目の前にはびしょ濡れの俺の肉体と、二重ぼかしになった美羽の霊体がある。

 俺はすぐさま霊体を押し退けて抜け殻になった肉体に入り込んだ。階段を駆け下りる。

 美羽が歩道橋を待ち合わせ場所にしたのは、清水を殺す気だったからだといまさらに気がついた。

 いつから、そんなことを考えたのだろう。一人で逝くのは寂しかったのか。


「清水!」


 ぐったりと横たわった清水を抱き起こす。顔中に血が飛び散っている。目をつむったままでぴくりとも動かない。


「ど、どうしよう。救急車を」


 スマホを取り出した手にそっと別の手が重なる。


「弓弦……か。大丈夫、怪我はない」


 ゆっくりと清水は上体を起こした。慎重に立ちあがる。左足ががくんと沈む。あわてて肩を貸した。


「挫いた。骨は折れてない」

「でも顔に血が……あ、朱墨か」


 両手で清水の顔を撫でて朱墨を拭った。清水は面白そうな顔で俺を見つめた。


「すまん。俺のせいで」

「心配無用。頭をかばったからバカにはなってない」

「バカにならなかったらいいってもんでもないだろ。俺、殺人未遂だよな」


 清水は少し困ったような顔を向けた。


「弓弦は助けてくれただろう。正確には、助けてくれようとした」

「ああ……」

「蝉が教えてくれた。あれは弓弦だろ」


 最初は『しみず』、次は『ばか』、最後は二回『にげろ』


「もっと早く気づけよ。モールスで教えておいたろ。俺のようすがおかしくなったら、水をぶっかけろって」

「意味がわからなくて……戸惑った」

「そりゃあそうだろうな」


 意味不明でも、水は用意してきたのだ。意外と素直なやつだと感心した。清水が生きていて本当に良かった。

 ただ動作がトロすぎるから心配で目を離せない。


「こりゃあ、知り合ったのは運の尽き……かもしれない」


 隣の車道をサイレンを鳴らしたパトカーが通りすぎていった。スマホがうるさい。


「弓弦の裏切り者!」


 美羽は負の感情に屈した。泣きはらした顔でこちらを睨みつける彼女はもうキラキラした光をまとっていない。




 母さんは病院に入った。

 過度のストレスにより正常な判断ができないほど精神が追い込まれていたのだと医者は診断した。加害と自害の可能性があると聞いて、身体の震えが止まらなくなった。

 未成年の子どもがいると戸籍の性別変更ができないというのは本当らしい。だから真由美は子どもを殺しに来たのだ、と思いこんだ母さんは、激昂して刃物を振り回してしまったのだ。

 わざわざリスクを冒して数年縮める意味は、真由美にはないと思うが、母さんはそうは考えなかったようだ。新しい家族を大切にしている真由美の姿を認められたら判断が違っていたかも、と思う。

 子どもの教育上、真由美の存在が好ましくないという考えが先にあったようだ。だから母さんは真実を必死で隠してきた。それなのに、梓があっさりと父さんを認めてしまったことも相当ショックだったのだろう。

 母さんを支え損なったのは俺だ。

 無力さに押しつぶされそうだ。

 ところで、身内として俺につきそってくれたのは真由美だった。真由美は、高村家が歪んだ責任は自分にあるのだからとサポートを申し出てくれた。ありがたい申し出だと思う。

 高村家が歪んでいたかどうかは俺にはわからない。むしろ完璧だった高村家は真由美の出現で崩壊したと思っている。それでも未成年の自分にできることは限られている。図々しいがサポートだけはほしい。

 俺は梓のように、きれいな父親を自慢できるようになるだろうか。自分が当事者になってみると、偏見がないというのは思い込みで、楽観によるものだったと悟った。自分が思い描く家族像というものは真由美という父親をはじくのだ。

 もう前と同じ高村家には戻れそうにない。

 母から手紙が届いた。

 遠回しな書き方になっていたが、あの件は絶対に明らかにしないように、と念押ししてある。あの件を知っているのは母と梓と俺、そして美羽と清水だけだ。

 母さんとはしばらくは手紙のやり取りだけになるだろう。

 自分が思い描いていた家族像が虚像だったとしたら、自分が思い描いていた恋人像も虚像だろう。哉哉は虚像だった。美羽は虚像にさえならなかった。彼女はもっと……梓にたいするような感覚と近かった。

 恋人というのはもっとこう……。

 突然、清水の顔が浮かんだ。行き過ぎだ。真由美の衝撃が大きすぎたせいだ。かぶりを振る。

 母さんが守ろうとした家族は、守られなければならないほどヤワではなかった。これからは俺たちが母さんを守ろうと梓と誓い合った。


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