第22話 嫌な予感
それは、史季が斑鳩からのケンカの誘いを断った後のことだった。
「そりゃ残念。けどまあ、それとは別に、レナちゃんのことで折節には報告しておきたいことがあんだよ。ジュース奢るから、ちょっと付き合えよ」
斑鳩の彼女――レナちゃんが、悪い野郎に騙されて借金をしているという話を聞いた際、そのレナちゃんに斑鳩が騙されていると考えた史季は、借金を返す場に斑鳩も同行するよう提案した。
おそらくは、それが功を奏したのだろうと思い、二度も誘いを断るのは気が咎めるという理由もあって、斑鳩の誘いに乗ることにした。
そして、道端の自販機で缶のグレープジュースを奢ってもらい、話を聞いたわけだが、
「レナちゃんが借金返しに行くのについてったら、レナちゃんが金借りた野郎に利子分が足りねえって言われてよ。レナちゃんにあげた分とは別に、念のため三万ほど持っていったらそれが大正解。きっちり耳揃えて返すことができたってわけよ」
どうやら相手の方が一枚上手だったらしく、まんまと毟れるだけ毟り取られた斑鳩に、史季は頬をひくつかせることしかできなかった。
「ち、ちなみに、借金を返した後、彼女さんとは?」
「勿論、引き続きやり取りしてるぜ」
という言葉に、レナちゃんが斑鳩を騙しているという見立ては、こちらの考えすぎだったのではないかと思いかけるも、
「ただ、俺に借りができたとか思ってんのか知らねえけど、LINEは既読スルーされっし、電話にも出てくれねえんだよなぁ」
ほんと奥ゆかしい子だよ――と、しみじみ言う斑鳩に、史季は閉口するばかりだった。
ここまでくると、奢ってもらったのがたかが缶ジュース一本でも、心苦しさを覚えずにはいられない。
「ほんとありがとな、折節。レナちゃんの借金が完済できたのも、オマエのアドバイスのおかげだよ」
夏凛たちから話を聞く限りだと、今このタイミングで、彼女さんに騙されていると斑鳩に言ったところでブチギレられるのがオチだ。
だから史季は、ぎこちない声音で「ど、どういたしまして……」と返すことしかできなかった。
これ以上はもう色々な意味で聞くに堪えなかったので、どうにかして話題を変えなければと思っていたところで、斑鳩の方からこれはこれで勘弁してほしい話題を振ってくる。
「そういや折節、小日向ちゃんとはどこまでいってんの?」
危うく、飲んでいたグレープジュースを噴き出しそうになる。
「ぼ、僕と夏凛はそういう関係じゃありませんから!」
「だから照れんなって。小日向ちゃんのこと下の名前で呼ぶの、そんだけ当たり前な感じになってて『そういう関係じゃない』は無理があんだろ」
確かに無理があると思った史季は、思わず口ごもってしまう。
しかし、本当に『そういう関係じゃない』こともまた事実で。
「でも、本当に僕と夏凛は、斑鳩先輩が思っているような関係じゃないんですよ……」
なんとか絞り出した否定は、ひどく弱々しいものになってしまった。
そんな史季を見て、斑鳩は「はは~ん?」と目を光らせる。
「要するに、まだ告られてもいなければ告ってもいないっつうことか」
「……はい」
と答えてすぐに、自分の失言に気づく。
今の返答は、自分が夏凛に対してそういう想いを抱えていることを認めたも同然のものだったから。
「あっ! いや、今のはそういうのじゃなくて!」
「いやいや、今のはもう完全にそういうのだろ。それとも何か? オマエ、小日向ちゃんのこと好きじゃねえのか?」
さすがにその問いは、否定することはできなかった。
……いや、否定したくなかった。
だからか。
あるいはこれまでの人生において、初めて同性と色恋の話をしたせいか。
その相手が曲がりなりにも自分よりも経験豊富で、自分よりも年上だったせいか。
史季は、夏凛に対して抱いていた、素直な自分の気持ちを吐露する。
「……恐れ多いですよ。僕なんかが、夏凛のことを好きになるなんて……」
口に出して、なおさら思う。
自分と夏凛とでは、本当に、何から何まで不釣り合いだということを。
確かに僕は、自分でも信じられないくらいにケンカが強くなった。
けれど心の方は、あまり強くなった気がしない。
依然として、弱者のままだ。
そんな弱い僕が、小日向さんを好きになるなんて、烏滸がましいにもほどが――
「おりゃ」
突然斑鳩に頭を手刀され、史季は目を白黒させる。
「な、何するんですかッ!?」
「なんか面倒くせえこと考えてるツラしてたから、ついな」
「つ、ついってッ! ぼ、僕はただ真剣に――」
「真剣だってんなら、それで充分じゃねえか」
斑鳩の言わんとしていることがわからず、口ごもってしまう。
例によってそれが顔に出てしまったのか、斑鳩は「しょうがねえなぁ」と呟いてから、史季に言った。
「散々使い古されて、もう手垢でベッタベタな言葉をオマエに贈ってやる。恋は理屈じゃねえぞ、折節。そもそもオマエ、小日向ちゃんのこと頭で考えて好きになったのかよ?」
斑鳩の問いに、史季は三度口ごもってしまう。
そしてその反応は、斑鳩にとっては何よりの答えだった。
「ほらな、違うだろ。人を好きになるなんざ、もっと単純でいいんだよ。キュンときたかどうか……それだけで充分なんだよ」
確かに、その通りだと思う。
何だったら、今の斑鳩の言葉に、少しばかり感動している自分がいるくらいだった。
だったから、本当に、不覚としか言いようがなかった。
何せ目の前にいる先輩がキュンときた異性は、一人の例外もなく地雷女だったから。
そのせいで史季が、今どういう顔をすればいいのか本気でわからなくなっていると、
「……おい、折節。アイツ、白石と一緒にいたリーゼントっぽくねえか?」
斑鳩の声から先程までの緩さがなくなっていることに気づいた史季は、色恋の話を頭の隅に追いやってから、彼が指差している方角に視線を向ける。
そして、瞠目する。
確かに斑鳩の言うとおり、彼が指差した先には、一年生リーゼント――田中がいたから。
彼の顔が血と痣に塗れ、着ている制服がボロボロになっていたから。
そのふらついた足取りが、歩くだけで精一杯な有り様になっていたから。
史季はすぐさま田中のもとに駆け寄り、直球に訊ねる。
「た、田中くん! いったい何があったの!?」
「焦んな、折節。まずはコイツ、どっか休めるとこに連れてくぞ」
歩いてこちらにやってきた斑鳩の冷静な提案に、史季が首肯を返していると、
「いや……先に俺の話を聞いてくれ」
見た目ほど傷は重くないのか、田中は意識も声音もはっきりとしていた。が、体力の方はさすがに限界だったらしく、もう歩けないとばかりにその場に座り込んだ。
史季は斑鳩を見やり、首肯が返ってくるのを確認してから、何があったのかを話すよう田中を促した。
「俺とリーゼント先輩があんたらと別れた後、知らねえ野郎どもにいきなり襲われたんだよ。相手は五人程度だったけど、なんだかんだ言ってもこっちの倍以上だからな。俺もリーゼント先輩もボコボコにされて、リーゼント先輩だけが奴らに連れ攫われて……」
「田中くんは、どうにか逃げることができた――ということ?」
史季の問いに、田中はゆっくりとかぶりを振る。
「俺は見逃されただけだ。折節先輩と斑鳩先輩に伝言を送り届ける役としてな」
保身のためか、連れ攫われた白石の身を案じてかは定かではないが、自分を襲った連中の言うとおりにしなければならないことに悔しさを滲ませながら、田中は懐からスマホを取り出し、そこに残された伝言を史季たちに見せる。
『リーゼント野郎も含めてお前らの学校の連中を我々《アウルム》のパーティに招待させてもらった。別に無視しても構わないがその場合は招待客がさらに増えることになる。知り合いの一人や二人いればお前らも進んでパーティに行きたいと思うだろうからな』
言ってしまえば、《アウルム》なる存在が史季と斑鳩を呼びつけるために、聖ルキマンツ学園の生徒を拉致しているという伝言だった。
内容的には、荒井派が春乃を拉致った際、史季たちに送ったLINEメッセージと似たり寄ったりだが、脅し方に関してはひどく迂遠だった。
だからこそ、荒井派よりも手慣れているという印象を受けた史季は、その相手のことについて田中に訊ねた。
「田中くん、《アウルム》って?」
「半グレのチームだよ。この辺りじゃ一番の有名どこで、警察にもマークされてる」
田中に代わって答えた斑鳩が、小さくため息をつく。
「田中っ言ったな? オマエ、とりあえずオレのこと殴っとくか?」
唐突すぎる提案に、まるで理解が及ばなかった史季は「はい?」と、田中は「は?」と声を漏らす。
「オレと折節が狙いっつうことは、間違いなく地下格闘技場絡みの揉事だ。まさかバックについてたのが《アウルム》だったとは思わなかったが……まあ、それも言い訳だな。とにかく、オレのやらかしに巻き込んじまった以上はケジメってもんが必要だろ」
「だから殴れと?」
全く話についていけず、呆けた顔をしている田中に代わって、史季が訊ねる。
「おうよ。田中はオレのせいでボコボコにされたんだからな。オレのこと、好きなだけ殴らせてやるのが筋ってもんだろ」
「い、言いたいことはわかりますけど、いくらなんでも無茶がすぎますよ! 学校の連中をパーティに招待したという伝言が本当なら、田中くんと同じような目に遭っている人が、他にもいるかもしれないんですよ!? その人たち全員の気が済むまで殴られるつもりですか!?」
「そのつもりに決まってんだろ」
事もなげに言う斑鳩に、史季は言葉を失う。
同時に、こうも思う。
斑鳩獅音という先輩は確かに不良であるけれど、今まで史季が恐れていた不良とも、ましてや夏凛たちとも違う、初めて見るタイプの不良――いや、人間かもしれないと。
「……斑鳩先輩」
不意に田中が口を挟み、史季は我に返る。
「べ、別に俺はリーゼント先輩がどうなろうが知ったこっちゃねえけど、他の連中まで巻き込まれてるってんなら話は別だ。だから……そいつらのことを助けてやってくれ。それで、ケジメってやつはチャラにしてやるから……」
そんな田中の申し出に対し、斑鳩は彼の頭をワシワシと撫でてから答える。
「心配すんな。最初からそのつもりだ。それこそ、いの一番につけなきゃならねえケジメだからな。それから、巻き込んじまってマジで悪かったな」
「べ、別に謝罪なんていらねえよ。こんくらい、巻き込まれた内にも入らねえっつうの」
「そうか」
ニッカリと、斑鳩は笑う。
それに釣られて田中だけでなく、史季も頬を緩ませてしまう。
そして、思う。
このトラブルが地下格闘技場のゴタゴタから起因するのであれば、自分も斑鳩とともに白石たちを助けにいくのがケジメだろうと。
「田中くん。《アウルム》の言う、パーティの会場については何か聞いてない?」
「聞いてるぜ。こっちは口で直接伝えろって、脅さ――……言われたからな」
そう前置きしてから、田中は答えた。
「『ヤードで待っている』。連中は俺に、そう伝えろって言いやがった」
「ヤードっていうと……自動車の解体所のこと?」
「いや、俺に聞かれても……」
ならばと、史季は斑鳩に視線を向ける。
「《アウルム》ときてヤードときたら、連中がアジトにしてるって噂の、金属スクラップの違法ヤードだろな。方角は全然違えけど、一年最強決定戦に使った廃病院よりもさらに町から外れたとこにある」
そう言って、斑鳩は懐からスマホを取り出した。
「ちょっと翔に、パーティ会場がマジでそのヤードかどうか確かめさせてみるわ。アイツ今日は暇してるはずだし、原付もあるしな」
「翔って、服部先輩を? その……大丈夫なんですか? 一人で偵察なんて」
「無茶さえさせなきゃ問題ねえよ。ああ見えて翔の野郎は、オレがケンカした奴の中でも五本の指に入るか入らねえかくらいには強えからな。まあ、弱さに関しちゃ余裕で五本の指に入るけど」
「いやどっちですかそれ!?」
と、ツッコみを入れたところで、史季はふととある可能性に気づき、慌てて懐からスマホを取り出す。
「どうした? オマエまでスマホ出して」
「その……《アウルム》の狙いが、地下格闘技に出場した僕と斑鳩先輩だけなら、まだいいんですけど……もし、こないだのホテルの地下の騒動が原因で、《アウルム》が僕たちを狙ったのだとしたら、夏凛たちも標的になってるかもしれないと思って……」
「なぁる。それで小日向ちゃんのことが心配になったってわけか」
「不調な時はともかく、僕が夏凛の心配なんて烏滸がましい話かもしれませんけど」
「言っても、そういうのは理屈じゃねえからな。気になるなら電話かけみてもいいんじゃ――いや、待てよ……」
斑鳩はスマホの角を額に当て、神妙な顔つきで考え込んでから史季に言う。
「折節。小日向ちゃんの前に、桃園ちゃんに電話かけろ。小日向ちゃんたちなら滅多なことはねえけど、桃園ちゃんは滅多ことだらけだからな」
まさしくその通りだと思った史季は勿論のこと、桃園春乃ファンクラブ(非公式)の会長である田中も、揃って慌て出す。
「お、折節先輩! 早く春乃ちゃんに電話を! あと、こっそり春乃ちゃんの番号、後で俺に教えてくださいお願いします!」
「ど、土下座してもそれはさすがに駄目だからね!? というか、斑鳩先輩も先にアリスちゃんに電話をかけた方がいいんじゃ!」
「だな」
と、斑鳩が答えた矢先に、彼のスマホが震え出す。
画面を覗き込んでみると、アリスからのビデオ通話の着信が入っているのが見て取れた。
「……アリスちゃんからビデオ通話って、よくあることなんですか?」
「……滅多にねえな」
だからこそ嫌な予感がする――とでも言わんばかりに、斑鳩は舌打ちすると、一つ息をついてからビデオ通話に応じる。
そして次の瞬間、
春乃の顔が、スマホの画面いっぱいに映し出された。
『あ、わたしの顔が映っちゃってる!?』
『は、春乃ちゃん! 逆だよ逆!』
『だーかーらー美久にやらせろって言ったんすよ! 桃園春乃!』
画面の向こうから聞こえてくる、緊張感の欠片もないやり取りに、史季と斑鳩は真顔で顔を見合わせる。
『というかアリスちゃん……これ、本当にやるの?』
『いいからさっさとやるっす! あと桃園春乃はちょっと離れてるっす!』
『え~、そんな~』
心底残念そうな春乃の声が聞こえた後、スマホに映る映像が大きく動き、アリスを画面の端に捉える形で、それは映し出された。
これってもしかして《アウルム》のメンバーなのでは?――と思われる、無様に地面に倒れている五人の男の姿が。
『こいつらは、ぼくの可愛さに目が眩んでナンパしてきた人たちなんすけど――』
『アリスちゃんがわたしと美久ちゃんのことを守りながら、ビシバシってかっこよく倒してくれたんです!』
『って、桃園春乃! いきなり割って入ってくるなっす! あっ、でも、ぼくの活躍をもっと獅音兄に聞いてほしいから、このまま言わせるのはアリかも……』
などとアホなやり取りをしている隙に、画面に映っている男たちがノロノロと起き上がり、逃げ出していく。
『あれあれ~? 逃げるんすか~? みっともなく尻尾巻くんすか~? あ~んなドヤ顔で、ぼくたちのこと囲ったのに~?』
露骨に煽り散らかす、アリス。
自然、男たちのこめかみに青筋が浮かぶも、言い返すことすらできないほど一方的にアリスに返り討ちにされてしまったようで、ただただ黙って恥辱に耐えながら、アリスたちの前から逃げ出していった。
『あれあれあれ~? 何も言い返さないんすか~? や~い、ザ~コザ~コ❤』
そんな、どこからツッコめばいいのからわからない状況に、史季はおろか、斑鳩さえも頬を引きつらせていたが、
「って待てよ……おい、折節! 今逃げていった奴をアリスに捕まえさせたら、翔に偵察させるまでもなく手がかり掴めんじゃねえか!?」
「あ、言われてみれば……あ、いや、やっぱり駄目です! 桃園さんたちも一緒だと、捕まえておくにしても危険が!」
「ああそうか! つうか、マジで何なんだよこの状況!?」
ちょっとキレ気味な斑鳩のツッコみに、史季が心の中で同意する中、画面の向こうにいるアリスの『ザ~コザ~コ❤』という声が響き続けた。