第18話 姉と弟
地下駐車場を後にした朱久里は、そのままマンションを離れながらも、懐から取り出したスマホに向かって話しかける。
「話はちゃんと聞こえていたかい。蒼絃」
然う。
朱久里は史季と話し始める前に、弟の蒼絃にスマホで連絡し、通話状態のままにすることで会話を蒼絃に聞かせていたのだ。
『ちゃんと聞こえていたよ、姉さん。交渉が上手くいったことも、姉さんが折節クンにちょっとだけ情けをかけてあげたことも、しっかりとね』
弟の指摘に、朱久里は痛いところを突かれたとばかりに眉根を寄せる。
「たとえ折節の坊やにその気はなくとも、取引については脅しをかけてでも口止めするべきだったって言いたいんだろ?」
『ああ。あの場では折節クンは〝女帝〟たちにバレないようにすると言っていたけど、心変わりをして喋ってしまう可能性もないとは言い切れないからね。そうとわかっていてなお無理な口止めをしなかったということは……実際に会ってみた折節クンが、それだけ一般生徒全開だったといったところかい?』
全くもってそのとおりだったので、朱久里はついため息をついてしまう。
「当たりだ。ま、荒井にタイマンで勝った以上、マジで一般生徒扱いなんてする気はないけど……話せば話すほど不良とは程遠い性格だってことがわかったからねぇ。あんな子を相手に、無理矢理口止めするのも違うんじゃないかって思っちまったんだよ」
『だと思ったよ。スマホ越しでも、折節クンが一般生徒でも不良でもない曖昧な存在だってことが伝わってきたからね。だからなおさら、本当は裏で折節クンに不良をけしかけていたことを黙ってたの、後ろめたかったんじゃない?』
「あーもうそのとおりだよ、ったく……」
乱雑に頭を掻きながら、朱久里は肯定する。
史季の見立てどおり、朱久里は鬼頭派のメンバーを使って血の気の多そうな輩を焚きつけ、彼にぶつけるよう仕向けた。
弟の踏み台にするために必要と思ってやったことだから、当然後悔なんてしていないし、史季の前では平然と知らぬ存ぜぬを貫き通した。
仮にバレたとしても、恨まれるくらいの覚悟はしていた。
朱久里にとって想定外だったことは、史季が想像していた以上に一般生徒全開な点にあった。
美学と呼ぶほど大袈裟なものではないが、朱久里には「一般生徒には極力迷惑をかけない」というルールを己に課している。
さながら、堅気に迷惑をかけることを良しとしない極道のように。
そのようなルールを課しているのは、弱きを助け強気を挫く夏凛ほどではないにしても、弱きに対しては優しくあるべきだと考える程度には、義侠心を持ち合わせていたからに他ならなかった。
加えて、不良がケンカする相手は同じ不良であるべきだと、殴られる覚悟がある者、あるいは殴られても仕方がない者のみに限定して然るべきだと、朱久里は考えている。
あと、これは弟にも内緒にしていることだが「その方が格好いい」という思いも、ほんのちょっとだけ混じっていた。
史季に対して、口止めを強要しないという情けをかけてしまったのも、それゆえだった。
「とは言っても、あの坊やが心変わりする可能性は、絶対にあり得ないけどねぇ」
『〝絶対〟とはまた大きく出たね。理由を聞かせてもらえるかい?』
「折節の坊やは確かに一般生徒全開でこれっぽっちも不良には見えなかったけど、一端の男の目をしていたからね。で、坊やが男の目を見せたのは、賞金首役を引き受けると言った時と、小日向のお嬢ちゃんたちを巻き込みたくないという意思を示した時」
『なるほどね。そこが彼の〝芯〟なら、確かに心変わりの心配はしなくてもよさそうだ』
「自分絡みのことだと我なんてろくに持ち合わせていなさそうなのに、親しい人間絡みだと途端に我が強くなる。そういう奴の〝芯〟ってのは大抵馬鹿みたいに太いから……ま、荒井に勝った時点でわかりきっていたことだけど、間違いなく強敵だよ。あの坊やは」
『いいじゃないか。それでこそ倒しがいがあるというものだよ』
心底嬉しげに、蒼絃は言う。
そんな弟の勇ましさに、朱久里は少しだけ表情を曇らせる。
蒼絃からしたら、相手が強ければ強いほど、勝負がギリギリになればなるほど燃え上がるのだろうが、姉からしたら、できれば弟には、怪我もしないくらいに圧勝を収めてほしいと願わずにはいられなかった。
弟が不良として名を上げることを願っている以上、それを止めるような真似をするつもりは毛頭ない。
弟が自分の力で勝つと言っている以上、鬼頭派のメンバーを使って標的を削るような真似もするつもりはない。
だけど一人の姉として、弟には余計な怪我を負ってほしくないというのが、嘘偽りのない本音だった。
今回の標的である折節史季を、一年最強決定戦の賞金首として参戦させるという策にしても、彼とのタイマンを望む弟のために舞台を整えてやりたいという思いとは別に、弟とのタイマンの前に、史季が他の一年に削られてくれればという期待があって練ったものだった。
もっともその場合、弟も他の一年とやり合ったことで削られるか、最悪倒される危険性も孕んでいるわけだが、何気に姉バカが入っている朱久里は、その危険性に関しては一顧だにもしていなかった。
正直、姉としては心配は尽きない。
けれど、弟の前で心配を見せることを良しとしていなかった朱久里は、あくまでも強気な言葉を電話の向こうにいる蒼絃にかけた。
「それでこそアタシの弟だ。この一年最強決定戦は、アンタが聖ルキマンツ学園の頭になるための第一歩になる。いきなり躓いたりなんかするじゃないよ?」
『大丈夫。ボクは負けないよ。折節クンには勿論、〝女帝〟や〝ケンカ屋〟が相手であろううともね』
だから、その二人とやり合うにはまだ早いって――などと返すのは、今この時においては無粋の極みなので、
「その意気だよ」
ただ一言、弟を鼓舞する言葉を返した。