70 竜皇陛下、見送る
「う゛ぅ゛、えびにあざば~! わだじっ、ずっとま゛っでまずがら゛!」
「まずは涙と鼻水を拭きなさい、イオネラ。みっともないわよ」
ずびずびと泣くイオネラを慰めながら、エフィニアはくすりと笑った。
今日、エフィニアは後宮を発ち故郷への帰路に就く。
再びここに戻って来るかどうかは……。
イオネラはエフィニアが戻って来る日まで屋敷を死守すると言ってきかず、グレンディルもそれを認めた。
そのため彼女は、いつものメイド姿でずびずび泣きながらエフィニアの見送りに来てくれたのだ。
「寂しくなりますわね、エフィニア様」
「アドリアナ様は、後宮に残られるのですか?」
「えぇ、しばらくはこちらに居ようと思っております」
「アドリアナ様がいらっしゃれば、後宮は安泰ですわね」
自称:エフィニア派の筆頭側室――アドリアナや他の側室も見送りに来てくれた。
ミセリアが去り、皇帝グレンディルが側室たちの意向を尊重するようになったことで、後宮は大きく様変わりした。
ぽつぽつと、後宮を去る側室も出始めている。
いずれまた「次のミセリア」が生まれるのではないかとエフィニアはひそかに心配していたが、アドリアナが目を光らせてくれるのなら安心だろう。
「エフィニア様、これお土産です! 珊瑚の髪飾りですわ!」
「わたくしからは特注の羽毛枕です!」
続々と集まって来た側室から土産を手渡され、エフィニアの荷物は既にはちきれそうだ。
馬車に入るかしら……と心配していると、にわかに側室たちが騒ぎ出した。
「見てください、あれ……!」
「皇帝陛下だわ!」
「エフィニア様を引き止めにいらしたのよ!!」
「では、お邪魔者は退散しますので~」
何を勘違いしたのか、側室たちはずびずび泣くイオネラを引っ張って風のように去っていった。
入れ違いでやって来たグレンディルが、周囲を見回し呟く。
「……? 側室たちとの挨拶は終わったのか?」
「えぇ、おかげさまで」
照れ隠しに拗ねたようにそう言うと、グレンディルは不思議そうに首を傾げた。
その仕草がどこか幼竜クロを思わせて、エフィニアはくすりと笑ってしまう。
こうしてみると、皇帝グレンディルと幼竜クロの似ている点をいくつか見つけることができる。
あらためてエフィニアが可愛がっている竜はこの帝国の長だったのだと気づかされて、エフィニアはどこかくすぐったいような気分を味わった。
「最高級の馬車と、精鋭の護衛だ。道中何事もないとは思うが――」
「大げさですわ、皇帝陛下。こんな豪華な馬車が到着したらフィレンツィアの皆はひっくり返って驚くでしょうね」
エフィニアの帰国に際し、グレンディルは権力に物を言わせ最高級の箱馬車と、大陸最強と言われる戦士を集め護衛団を組織した。
エフィニアは何度も「そこまでしなくていい」と言ったのだが、彼は頑として聞かなかったのである。
「それでは、行って参ります」
「あぁ……気を付けて」
グレンディルが切なげに眉を寄せる。
その表情を目にするだけで、エフィニアの胸にも甘い痛みが走った。
これは「運命の番」であるゆえに感じる痛みなのだろうか。
彼と離れれば、エフィニアも元に戻るのだろうか。
エフィニアが去った後、彼はどうするのだろうか……。
もともと、片田舎の小国の王女であるエフィニアと、大帝国の皇帝であるグレンディルでは住む世界が違う。
これで……二人が交わらなかった正しい運命に戻るのかもしれない。
次々と浮かび上がってくる様々な想いを振り払うように、エフィニアは深呼吸する。
ずっと待ち望んでいた帰国だ。
今は甘い感傷に振り回されている場合ではないのだ。
「……長らくお世話になりました、皇帝陛下」
未練を振り払うように、エフィニアは一礼してくるりと踵を返す。
だが、足を一歩踏み出そうとした途端、背後から声を掛けられた。
「……エフィニア姫、そのまま振り返らずに聞いてくれ」
エフィニアはよっぽど振り返ろうかと思ったが、ここはグレンディルの意志を尊重した。
声の聞こえる範囲にいるのはグレンディルとエフィニアの二人だけ。
多少の無礼は、見逃されるだろう。
「ミセリア嬢を欺いて挑発する際に、とんでもないことをしたことを覚えているか」
「えぇ……できれば消し去りたい記憶ですわ」
パカパカと馬の蹄の音が聞こえる。
顔を上げれば、エフィニアを故郷へと送る馬車が近づいてきていた。
「確かにクラヴィスの奴は演技をしろと言った。だが……俺があの時口にした言葉に嘘はない」
一瞬、エフィニアは息が止まりそうになってしまった。
「今は『運命の番』という関係を越えて……エフィニア、君に惹かれている」
その瞬間、エフィニアはとうとう背後を振り返ってしまった。
だが一陣の風が吹いたかと思うと、既にそこに皇帝の姿はなかった。
呆然とするエフィニアに、近付いてきた馬車から降り立った官吏が声を掛けてくる。
「お待たせいたしました、エフィニア王女。……おや、皇帝陛下もいらっしゃると伺ったのですが……」
「……ご公務が忙しいようで、お帰りになられたわ」
「それはそれは……ところで王女、少々お顔に赤みがみられますが、もしや体調を崩されたのでは……」
心配そうにそう口にする官吏に、エフィニアは反射的に叫んだ。
「っ~~! 何でもないわっ! 早く出発しましょう!!」
「し、承知いたしました~!!」
豪華な箱馬車が、皇宮の門を越えて旅立って行く。
その姿が見えなくなるまで……大空を舞う小さな黒い竜は、金色の瞳で見つめ続けていた。
~ 完 ~
……ではなくあと1話続きます!
最終話は明日更新予定です!




