109 妖精王女、帰る
「もちろんでございます。お聞き苦しい話ではございますが、どうぞご容赦くださいませ」
そう言って、ナンナは背筋を伸ばした。
「わたくしはこの地方に生まれた一介の竜族の女です。グレンディル陛下が皇帝の座に就かれ、ベリウス様がこの宮殿の主となられた際に使用人として採用されました」
そうなると、二人の出会いは数年前ということか。
「いつしかベリウス様の傍仕えに抜擢され、その……そういう関係になったのです」
恥じらいながらそう口にするナンナに、グレンディルが重い口を開く。
「……念のため聞くが、あいつが関係を強要したのか? だとしたら――」
「いえ! それは、その……合意の上です」
「そ、そうだったのね……」
今のナンナはいつもの凛とした女性ではなく、まるで恋する乙女のように恥じらっている。
その態度だけでも、彼女がベリウスに好意を抱いているのは明らかだった。
……過去にそうだったというだけではなく、きっと今でも。
(まぁ、他人の好みに口出しはしたくないけど……私からすれば趣味がいいとはいえないわね)
エフィニアは心の中でひとりごちた。
確かにベリウスは美形で、女性のエスコートもスマートだ。
ナンナがぽぉっとなるのもわからないではないが……やはり趣味がいいとは思えなかった。
「まったく、あいつは何をやっている……」
グレンディルはそう呟き、重いため息をついた。
ベリウスが無理やりナンナを手籠めにした……わけではなく安堵したのだろうが、やはり彼の仕出かしたことを考えると頭が痛いのだろう。
「……やがて、この子が生まれました。ですがベリウス様は、生まれたこの子を見るなり豹変したのです」
「……俺に似ていることに気づき、利用しようと考えたのだろうな」
「…………えぇ、その通りです」
沈痛な表情で、ナンナが頷く。
エフィニアは無邪気にじゃれてくるクロに視線をやり、やるせない気持ちになった。
……もしもクロがここまでグレンディルにそっくりの容姿ではなかったら、堂々とベリウスも子どもとして成長できたかもしれない。
「……この子に名前を付けることも、母と名乗ることも許されませんでした。ベリウス様は野心の強い御方で、いつかグレンディル陛下を打ち倒し皇帝の座を奪うのだと息巻いていましたから。そのための駒としてこの子を取っておきたかったのです」
「……とんでもない下衆野郎だな」
軽蔑したようにグレンディルがそう吐き捨てる。
それにはエフィニアも同感だった。
(いくら皇帝になりたいからって、血のつながった息子まで利用しようだなんてやりすぎよ)
平和なフィレンツィア王国で育った者の、甘い意見なのかもしれない。
だが、エフィニアはそう思わずにはいられなかった。
「その後は……陛下もご存じのとおりです。ベリウス様は王都を追われたエリザード様と手を組み、陛下の治世を揺るがそうと企てていました。この子にも陛下のことを父親だと思い込むように刷り込んで……私が止める間もなく、帝都へ送ってしまったのです」
ベリウスは「皇帝グレンディルの隠し子登場」という騒動を起こすために、クロを帝都へと送り込んだ。
グレンディルを探して迷っていたところを、エフィニアと出会ったのだろう。
「……この子がエフィニア様のような善良な方に保護されたことは、何よりの幸運でした。心より感謝申し上げます」
そう言って、ナンナは深々と頭を下げる。
「そんな……当然のことよ!」
エフィニアはぶんぶんと首を横に振りながら、ちらりと傍らのグレンディルに視線をやった。
案の定、初対面でクロの正体を怪しみ握りつぶそうとしていた彼は、なんとも気まずそうな顔をしていた。
(陛下がクロにしたことはナンナには黙っておこう……)
エフィニアはそう心に誓った。いらぬ波風は立てたくないのだ。
「さて……ベリウスへの処遇はおいおい考えるとして、これから君はどうするつもりだ?」
こほんと咳払いしたグレンディルが、そうナンナへ問いかける。
ナンナはその問いにはっとしたような顔をし、足元のクロへと視線をやった。
「……今までこの子に不遇な立場を敷いていたのは、私にも責任があります。ですが、許されるのなら……しかるべき場所でこの子をきちんと育てたいと願います」
そう告げるナンナの顔は、いつにもまして凛としていた。
エフィニアは彼女の願いが叶うように口添えしようとしたが、その必要はなかった。
「わかった。帝都で養育に適した環境を用意しよう。君は何も心配しなくていい」
グレンディルはあっさりそう言ってのけたのだ。
これにはエフィニアも驚いてしまった。
「陛下! 本当ですか!?」
「あぁ、放っておくとまたベリウスのようにこいつを悪用しようとする輩が現れないとも限らないからな。残念ながら俺の親族には野心が強い者が多いんだ」
「それは、まぁ……」
エフィニアはまだあったことのないグレンディルの親族に思いを馳せた。
もしかしたらベリウスのように……いや、彼よりも厄介な存在が多数いるのかもしれない。
「っ……! 身に余る厚遇、感謝いたします……!」
ナンナは感極まったように、涙を流してグレンディルの前に跪いた。
慌てたようにその背をイオネラがさすっている。
そんなナンナの傍に屈みこみ、エフィニアはそっと問いかける。
「ナンナ、私もできる限りサポートするわ。それで……ベリウス様の元からは離れることになるけど、大丈夫?」
先ほどの態度を見る限り、ナンナは今でもベリウスに惚れているようなのだ。
帝都に移住するということはベリウスを置いていくことになるのだが、大丈夫なのだろうか。
だがそんなエフィニアの心配をよそに、ナンナは朗らかな表情で首を横に振った。
「今回の件でふっきることができました。今はとにかく、この子のことを第一に考えたいのです」
「あいつが父親の自覚をもったうえで泣きながら土下座してくるまでは無視してやるといい。情けを見せるとすぐに調子に乗るやつだからな」
にやりと意地の悪い笑みを浮かべたグレンディルがそう口にする。
まぁ、ナンナの気持ちの整理がついているのならエフィニアがとやかく口出しすることではない。
「そうと決まったら帰りましょうか」
エフィニアは何気なくそう口にすると、傍らのグレンディルが驚いたように息をのんだ。
いったい自分は何か変なことを言ってしまっただろうか。
そう思い、エフィニアが顔を上げると――。
「ひゃっ!?」
いきなり強く抱きしめられ、エフィニアは素っ頓狂な声を上げてしまう。
「へへへへ、陛下!?」
ここにはイオネラも、クロも、ナンナもいるのに。
真っ赤になってあたふたするエフィニアに、グレンディルは心底安堵したように零す。
「帰って来て、くれるのか」
その言葉に、エフィニアははっとする。
(もしかしたら、陛下も不安だったのかしら……)
エフィニアが「陛下は勝手に出て行った私のことなんてもう忘れているんじゃ……」と不安になっていたように、グレンディルも「エフィニアはもう帰ってこないのでは……」と、胸をざわめかせていたのだろうか。
そう思うと申し訳なくなって、エフィニアは皆が見ている前だというのに、ぎゅっとグレンディルを抱きしめてしまった。
「もちろん、帰りますよ。……あなたの下へ」