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 これは、手記や告解などではなく、僕の遺書がわりに記すものだ。とはいえ、法的効果は持たないだろう。ただ僕がどんな経験をして、当時どう感じて、いまどう振り返るのかを記すものである。ある種のセルフセラピーと言えるかもしれない。


  *


 ノートはそんな書き出しで始まっていた。少々文学的な書き方が、杉本さんの口から語られた人物像とよく合致している。私は上等コーヒーを啜りながら、我知らず高揚した。決してコーヒーのせいではなく、あのコフィンに眠る人物が確かに書いたノートなのだという実感を改めて胸に抱いたからだ。

 冊数は数えると一三冊にわたっていた。もちろんページの使い方もあるだろうが、それにしたって膨大な量だ。彼がこのノートを書き出してからあのコフィンに入るまで二年。戦時下のストレスフルな業務に携わりながら手書きで書いたと考えれば、大した量である。肉筆ゆえの筆致の乱れや、経年劣化によるかすれを含め判別不能な文字はあるものの、文脈を捉えるには問題ない。

 このノートを全て読みきった時、きっと私も、タブレットに文字を打ち込む手が止まらなくなるだろう。前代未聞の戦争を生き抜いた人々、その中でも科学史上類を見ない研究を任された科学者の回想記録。そこにはきっと、後代に伝えるべきドラマが詰まっているはずだ。杉本さんには事前に網膜スクリーンでのスキャンの許可をとっているから、私はただ目の前の記録の山に丹念に目を通していけばいい。まるで旧時代のドキュメント――「本」を読むように。


  *


 僕が徴兵された時のことはよく覚えている。二〇八四年の九月二五日、それが「異動」という名の下で軍事に携わることが決定された日付だ。

 もともと僕の務めていた■■病院は■■という地方にあって、精神科と心療内科を扱っていた。自衛隊予備で召集された人や志願兵として出兵した人はいたが、まだ一般の国民の徴兵は珍しかったと思う。当時の僕にとっての戦争は、PTSD患者の治療と、各種メディアが送ってくる戦況速報しか無かった。病院スタッフの誰しもがそうだったと思う。それが二五日の朝に出勤して「異動」を命じられ、訳も分からぬまま各所への挨拶と患者の引き継ぎを済まし、荷物をまとめて、東京行の指定の新幹線に飛び乗ったのが翌二六日のこと。当時は長距離移動をする人も稀で、上りの運行は一日最大五本、下りの運行はもっと少なかったと思う。指定席の値段はとても高価だったが、切符は行きの分だけ、「異動」先の厚生労働省から受け取っていた。

 ひとけの少ない新幹線の車内でいろいろ考えていたのを覚えている。一番は僕が徴兵された理由。病院長も医局長も詳細を知らされていなくて、とにかく東京に行けば良いとだけ言われた。

 いや、全く理由に見当がつかなかったと言えば嘘だ。病院長が言葉を濁しながらも僕に教えてくれたのは、僕がとある論文雑誌に投稿してリジェクト――つまり却下された事に端を発していたということ。論文雑誌の名前は『The Psy■■■■■■ and Neu■■■■■■ of New Age』というもので、精神医学界ではそこそこ名の知れた雑誌だったように思う。僕はそこにとある症例報告を投稿したのだが、査読の段階で「いささか文学的すぎる」というコメントともに突き返された。その査読者の名前は後々知ることになるのだが、ここに実名を記すことは避ける。ただ、僕の半生を振り返るにあたり、その査読者を介して僕を探し出した人物の名前は挙げたいと思う。ドーキンズ博士、後々僕の新しい職場のボスとなる人だ。彼は査読者を個人的に知っており、ある理由から、僕を上海くんだりまで呼び出した。

 査読者についてもドーキンズ博士についても、尊敬すべき医師であり研究者であることは重々承知しているが、論文の大原則を破ったことについて、僕は今でも失望を覚えている。ただそれだけを記しておきたい。

 とにかく諸々の経緯を経て、僕は東京駅のホームに降り立った。その後の行き先は知らされていなかったが、改札を抜けると杉本さんが立っていて、彼女のシンプルな説明を受けながら一緒にコンコースを歩いたと思う。

 杉本さんの第一印象は「ステレオタイプのキャリアウーマン」だ。糊のきいたスーツを着こなし、化粧と荷物は必要最低限、ピンヒールに大股で闊歩する。この時は、ネックストラップの身分証明と護身用の拳銃だけ身につけていたと思う。このノートを彼女が見たらきっと不愉快に思うかもしれないが、僕はちょっと物珍しくて、仔細に観察していた。こんなにも典型的なキャリアウーマンをお目にかかれるのは滅多に無いことだし、そういう人間がどういう心理状況に置かれているのか、興味を持ったからだった。彼女は当時も、今と変わらず厚生労働省戦時国際協力室が所属部署だと自己紹介した。そして彼女は当時から今にかけて、所属も、中身も、変わっていない。これは良い意味で。

 彼女に先導されて車に乗り、官庁街を抜け、僕はそのまま防衛省所有の臨時滑走路に運ばれた。もともと国が管理していた公園を、臨時に切り開き、軍用機の滑走路に整備し直したものだ。僕が到着したときも自衛隊の中型輸送機がエンジンを暖めて待機していた。機内には四〇人前後の自衛隊員と支給物資、そしてこれから僕の仕事のパートナーのひとりとなるアントニス・デニスが、無機質なシートに窮屈そうに詰め込まれていたのを覚えている。輸送機と自衛隊員たちはもともとこの日に上海へ出立する予定で、そこに僕の出発日を無理やり合わせ、杉本さんとデニスも都合をつけたらしい。

 僕が上海に連れて行かれるのを知ったのは、輸送機に乗せられてからだ。戦争の影響で海外渡航は特に規制されていたはずだが、杉本さんの方で僕名義のビザを発行し、その他面倒な書類作成も彼女が済ませると聞いた。とにかく僕は、これから向かう上海の中央軍事基地で何をするかデニスの説明を聞き、理解し、次の日にはすぐ働けるよう心の準備をしておけとのことだった。

 中央軍事基地(Central Military Base)――CMBは、当時ほとんどの国と地域の軍隊が駐留し、すべての戦況がリアルタイムで得られる場所だったと思う。今となっては戦後処理に追われる主要国家の軍隊のみが駐留しているが、当時はもっと所有面積が広くて、いろいろな建物があった。僕や杉本さん、デニスの職場となるホワイトカラー用の建物は通称「Pブロック」と呼ばれる区画にあって、基地内はそんな風にブロック分けされて地理を伝えやすいようにしてあった。PブロックはCMB正門から軍用ジープで五分くらいかかる場所に位置していたはずだが、残念なことに僕が正門を通ったのは上海の街中へ出た一度きりしか無いので、正確なところは覚えていない。ただ、病院みたいに真っ白な建物は基地内でも目立っていたし、到着時に輸送機が下降した際にはフロントガラスの向こうに海が見えたと思う。つまるところ、Pブロックは基地内でも辺鄙な端っこのエリアに造られていた。

 話題が逸れたが、僕がこの基地内で従事する仕事について、粗方は輸送機内でデニスから聞いていた。もちろんこの時は額面通りに受け取ることしかできず、それも半信半疑であったが、仕事の意味を、責務を真に理解したのは当面後だったので、説明はどのタイミングで聞いても一緒だったかもしれない。

 僕に任された仕事というのは、軍用強化外骨格型戦闘機――通称パワードスーツのパイロットのデータ採取と育成だった。当時パワードスーツは軍用と民間用の二方向で研究が進められていて、土木作業や介護では実用化されていたし、此度の戦争では前線に使用されていることも知っていた。ただ、当時の僕が知り得るのはそこまでだった。

 パワードスーツを着用しているパイロットについて、簡単に記したいと思う。端的に言えばそれは精神疾患患者だ。僕が呼ばれた理由もここにある。

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