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プロローグ

 その男性はコフィンの中で静かに目を閉じていた。死んでいるのか生きているのか、私には正直わからない。精巧な剥製のようも見える。ただ、私が感じたこの印象をできるだけ伝えられれば良いと思って、彼の顔が映らない角度でシャッターを切った。即座に写真データを確認する――なかなか良い出来栄えだ。今では網膜レンズの映像をそのままクラウドデータに上げて編集する方法が常識だが、私はこの旧式となってしまった一眼レフカメラに愛着を持っている。

「彼の残したものと言えば、これだけですが」

 スーツの女性が、安物のノートの束を私に手渡す。ぱりっと糊のきいた高価そうなスーツとは見事なギャップだ。戦後のこの時分で着ているのは、政府関係者くらいしかいない。

「ありがとうございます、杉本さん」

 私はノートの束を受け取って表紙を見ながら、指先では感触を確かめている。ざらざらと皺ができていて、使い古された感じが伝わってくる。めくってみると、几帳面に文字が並ぶ中に、コーヒーでも零したようなシミや、吸湿と乾燥を繰り返して波打ったページが見受けられた。持ち主の生活感がよく表れている。私が一眼レフを愛するように、このコフィンで眠る男性も、かつて紙とペンの文化を愛し続けたのだ。

「彼はあなたが考えるより現実的ですよ」

 杉本さんが私の感傷に水を差した。

「と、言うと?」

「電子データにしなかったのは無用な流出と永続的保存を望まなかったから。紙が朽ちるのと競争だとも言っていました。まあ、あなたのような詮索好きが現れるのを予測しなかったのは迂闊でしたね」

「競争ですか……どっちが勝つと思いますか?」

 私は「詮索好き」という彼女の直接的な侮辱は無視した。

「さあ。彼の弁によれば自分が負けると。私にしてみれば、あなたがそのノートを紛失する可能性、ノートあるいは彼自身が火災に遭うリスクも考慮すべきだと思いますが」

「このノートの取り扱いには細心の注意を払います。ここの安全性については……」

 建物全体を見渡して、少し言葉に詰まる。およそ十前後のコフィンが整然と立ち並び、詳細のわからない精密機械やチューブがその間を縫うように入り乱れている。すべてが生体の生命維持に関わる。その機械群に挟まれて無理やり詰め込まれたような階段は、地上階へ繋がる唯一の通路だ。ソーラー電池からの供給が不安定なのか、足元の安全灯がちかちか明滅していた。大きな地震が起きれば高確率でこの地下施設はぺしゃんこ、火事が起きれば総重量何トンとも分からない機械群を運び出す間に爆発でも起きてしまうだろう。

 私はふと不安になって、

「ここ、万が一が起きたらどうなるんですか?」

「さて。私は管理者でも何でもありませんから」

「じゃあ彼らを見捨てる?」

「ではあなたが背負って運び出す?」

 杉本さんは冷めた目で私を見つめ返してきた。確かに、彼女はこのノートの管理を任されただけで、男性の肉体の保護を任されたわけではない。

「それに彼は、いえおそらくここの全員が、万が一の場合の処理について同意のサインをしているはずです。詳細はドクターにどうぞ」

「ええ、そうします。あの、それじゃ、このノートは必ず再来週にお返ししますから」

「くれぐれも取り扱いには注意を。何かあれば、ここに連絡を」

 言いながら、杉本さんは自分の目元を指先でとんとんと叩く。これは、網膜スクリーンに投影された個人情報にアクセスしろという合図だ。私は承知の意味で一礼してから、ノートをカバンに丁重に入れ、階段に向かう。再来週にまたこの地下施設に来ることになっている。それまでの見納めと思って、階段を数段上がってから振り返ると、ちょうど杉本さんがコフィンの中の男性を見つめているところだった。

「……どうかしましたか」

 鋭い視線を返される。感慨を持ってコフィンを見ていたならカメラに収めたかもしれないが、彼女の表情にセンチメンタルな部分は微塵も無かった。

「あ、いえ。再来週までここはお預けだと思って」

「そうですか。――ノートについて、と言うよりも、あなたの取材についてですが」

「何ですか?」

「どんな形であれ、世間に公表しようというのは、恐らく早計だと思いますよ」

「ご忠告どうも」

 いつだってジャーナリストというのは憎まれ口を叩かれる格好の的らしい。私は改めて儀礼的に頭を下げてから、その場を後にした。

 地上に出ると、空が分厚い光学スモッグに覆われていた。どおりでソーラー電池の調子が悪いはずだ。科学者たちがこぞってスモッグの除去に励んでいるが、この資源不足のご時世、なかなか事はうまく進まない。ましてここは、旧時代にも黄砂やら大気汚染で名を馳せていた中国は上海。かつて軍事基地の一部であったこの研究施設を歩く人々の中には、マスクや布で鼻から下を覆っている人もいた。

 哨戒に立っている軍人に辞去の挨拶をし、道路脇に停めいてた自転車の電子ロックを顔認証で外して、サドルにまたがる。こういう時、旧時代の原始的なエネルギーが一番頼りになる――つまり運動エネルギー。道路に落ちているガラス片や、どこの部品とも知れないネジにさえ気をつければタイヤのパンクの心配はないし、そういうリスクは網膜スクリーンの交通安全システムが知らせてくれる。そしてリスクだらけの廃墟を抜ければ、旧時代からさして変化していないという安全な荒野に出られる。

 今から急げば、夕方には荒野を抜けた隣町の取材拠点まで戻れるだろう。スタッフ用の炊き出しにもありつけるし、週末だから上等コーヒーの配給もある。私は意気揚々とペダルを漕ぎだした。

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