165話
エイム本拠地の湖にて、誰もいない早朝の湖岸にて1人の男が岩々に腰掛け、そこから釣竿を垂らしている。麦わら帽子を深くかぶり、魚が来るまでジッと動かない。
一言も喋らず辺りに聞こえるのは野鳥のさえずりだけ。眠ってしまいそうな空気の中ただ男は釣りを続ける。
すると、傍に置いていた電話が突然鳴り響きその沈黙を終わらせた。
「はいもしもし、異常ありませんよーどうしました?」
男は両手で持っていた釣竿を片手に持ち直し、もう片方の手で受話器を握って応答した。ちなみに電話のコードは後ろにある小屋から引っ張って使っている。
「……侵入者が来るかもしれない?それで警戒しとけと……分かりました。どうもです」
そうして通話を終えると、今まで座っていた男が岩の上にスッと立ち上がり、釣竿を引いて下に置く。準備運動に体を伸ばしスッキリした表情で目の前の湖を眺める。
次に指を使って口を鳴らし、その音色を湖全体に響き渡せた。そして地面に置いた釣竿を背負うと、次の瞬間すぐそこの水面から巨大な何かが飛び出してきた。
全長30mはありそうな鯨並みのサイズ、それでいてその外見は温厚な鯨とは似ても似つかない姿で、まるで絵本に書かれている怪魚がそのまま出てきたような姿であった。
牙も乱立し、その尾びれは壁のように広くそして大きい。その巨大魚はトビウオのように跳び出した後水面にぶつかり周囲に水飛沫を上げる。
「久しぶりの客人だ。いくら釣り好きとはいえずっとここにいるのも飽きてくるよな?」
すると男はその巨大魚に対し驚いたり怖がったりもしない、ただペットのようにその魚を扱い、相談相手のように声をかける。
「いっちょもてなしてやりますか……水底でな」
遂にこの日が来た。この日の為にと引き締めていた気持ちを更に硬いものにする。
包囲網の皆さんに挨拶と鼓舞を受けたところで、俺と刀真先輩、そして勇義さんは林の中を突き進む。既に俺はグローブを手に付けており、いつでも戦えるよう準備していた。
そこで、数時間前の先輩との会話を思い出す。
『発彦……お前その服』
『……天空さんの服です。駆稲に直してもらいました』
今俺が来ている神社の装束は、天空さんが来ていた物だ。あの時無限の針攻撃を受けた際穴だらけとなりボロボロだったが、この日の為にと駆稲にお願いして縫ってもらった。あの人の血も完全に洗い流したと思うが、錯覚なのかたまに血の匂いが鼻の中にこびり付く。
俺がこの服を着た理由は、気を更に引き締めるため、そして天空さんの想いと魂を連れていくためだ。あの人の死を未だに忘れられないわけではない、ただ純粋に、共にしたかったからだ。
そうして林を抜け出すと、見えたのは広々としている大きな湖。水平線の先まで見える程の広さで海と間違いそうだ。
――この向こうに、エイムの本拠地がある。
今回の突入作戦、以前のものとは比べ物にならない程張り詰めた空気の中行われ、俺も2人も少しばかりの恐怖こそあるが緊張はしなかった。
この3人――正確にはリョウちゃんとトラテンを含めた2匹で、全ての元凶を今日断つ。そして不知火さんを救い出すのだ!
「お、あったぞあのボートだ」
すると勇義さんが会議の時に言った通り、そこには停泊中のボートがある。エイムの連中が本拠地まで移動する手段らしく、今回はそれを逆に利用するわけであった。
「それにしても勇義さんボートまで運転できるんですね」
「何ならヘリだってイケるぞ。網波課長にしごかれたんだ」
その運転はなんと勇義さんができるらしく、車の免許は勿論ヘリまで動かせるという。ここにきて意外な特技が判明した。
そうして勇義さんに続いて俺もそれに乗り込んでいく中、刀真先輩だけ納得がいかないといった表情でその前に立ち止まっている。
「まだ渋ってるんですか先輩、いい加減覚悟決めましょうよ」
「いや!私は水の上を走って行く!」
トカゲか貴方は、というツッコミの他所にまだ船に乗る気にならない先輩に対し若干呆れを感じてしまう。
刀真先輩は船酔いしやすい体質で、夏の時の修行合宿に向かうまで自分でもそれに気づけず、それ以降船には乗らないと豪語していた。なのでいくら湖とはいえボートに乗るのも嫌なのだろう。
気持ちは分からないでもないが乗らないと作戦も話も進まない。どうにか先輩を乗らせないとと考えていると、操縦席に向かったはずの勇義さんが戻ってきた。
「17代目当主が船にも乗れないとなると、歴代当主も泣きたくなるな。こんな臆病者は置いて行くぞ触渡」
「なッ!私は戦うのが怖いわけじゃない、船に乗るのが怖いんだ!!そこのところを間違えるな!!」
そしてその挑発を、かっこ悪い弁解で返しもうやけくその状態でボートに乗る刀真先輩、それを見て俺と勇義さんはサムズアップを返し合った。
そうして若干の不安要素を残し、いざ出発しボートで水上を駆け走って行く。勇義さんは操縦席、先輩は顔を青くして顔を出している中、俺はその船首付近に立ち意気揚々と前方を見ていた。
まるで鬼ヶ島に向かう桃太郎がごとく悪人たちが集う場所へと向かう訳だ、油断はできない。常に警戒していないと駄目だろう。
「先輩……これで全部終わるんですかね?」
「オエッ……何か言ったか?」
「……いえ何も」
それにしてもなんか締まらない。大げさに言うと今回の作戦には世界の命運がかかっているかもしれないというのに、その内の1人がこの状態だと決意も引き締まりにくいものだ。
まぁこの湖を進んでいる時だけだ、島に付いたらすぐに元気になるだろう。合宿の時だって降りた瞬間そうだった。
「まったくもう……ん?」
すると水面に何か違和感を感じ取り、一体何事かと船首から身を乗り出して確認する。こちらが凄まじいスピードでその上を走っているため水飛沫が走るのは当然だが、こちらの船に下から重なるように、だんだんと魚影が姿を現した。
「――勇義さん下ですッ!!!」
「下?何言ってんだお前――ってのわぁ!?」
するとボートに急な振動が感じられ、俺と刀真先輩はその衝撃に思わず宙に投げ飛ばされそうになった。
まるで下から何者かに突かれたような感じだったので急いで水面を再確認すると、先ほど見た魚影が姿を現していく。
やがて勇義さんも異常事態に気づいたのか、急いで進行方向を右に曲げその魚影から避難、するとその正体が完全に水中から飛び出した。
「……でっかい魚ぁ!?」
潜水艦かと思ってしまうそれは大きな巨大魚であり、水上から完全に出てきたためそのサイズに圧巻させらてしまう。鯨のサイズというがその姿は怪魚と例えた方が相応しい形相であり、口も大きく俺たちが乗っているボードなど丸吞みするなど簡単な事だろう。
その巨大魚が飛び上がった後そのまま下に落ち、その際水面に激しい揺れを起こす。津波でも起きそうな程水が振動し、当然その上にいるボートも上がったり下がったりを繰り返した。
もし勇義さんが右に舵を取っていなかったら今頃水面とあの巨体に挟まれてボートごと潰されていただろう。流石に船酔い状態の刀真先輩も今の衝撃で逆にマシになったようだ。
(特異怪字……違う!人間の形とかけ離れすぎだ……式神か!!)
ここで俺はあの魚が式神であることを悟る。今まで見てきた怪字や特異怪字は人間とは思えない異形の姿であったが、どれも一応ヒューマンの形を保っていた。それにこの実在する生物と似ている姿を見るとこいつは恐らく式神だろう、こっちにだって式神が2匹いるんだ。敵側にもいてもおかしくはない。
「全速力だ!!しっかり掴まってろお前ら!!」
式神と戦ったことなんて比野さんのウヨクとサヨクぐらいだが、一目でわかった。今ここでこいつと戦うのは得策ではないと。
粗方この湖の侵入者対策としてであろう、この四方八方が水の現状において動ける場所がこのボート以外に無い俺たちにとって、まさに文字通り水を得た魚のような奴に勝てる見込みは無い。
流石に向こうの方が有利すぎる、ここは逃げてそのままアジトに向かおうという考えだ。勿論その勇義さんの考えに俺も賛成であり、そのまま最高速度で水上を走るボートでその巨大魚から逃げていく。
しかし、今度は何者かがどこからか姿を現し、勝手にこのボートへと乗船してきた。
「なッ――!?」
麦わら帽子を被った若い男、まだ冬だというのに半袖短パンといった露出の多い服である。その手には何故か釣竿が持たされており、いかにも釣りをする人だと一目瞭然だ。
しかし普通の釣り人ではないことは確か、あんな巨大魚を見て「よーし釣り上げるか」とは普通思わない筈。
だとすると、こいつはどう考えたって敵であった。
(こいつ――釣竿を武器に!?)
その男は何も言わず、そのまま持っていた竿を振りまるで鞭のように釣り糸を扱い、そのままルアーの付いた先端部分でこちらを殴りかかってきた。
距離のある所から伸びる釣り糸に対し俺は体を後ろに反らして回避、ルアーは俺の頭上を通り抜けそのまま操縦室の壁に激突し、派手に陥没させる。
「な、何だぁ!?」
(何でできてやがるあのルアー!)
当然さっきからずっとそこで操縦している勇義さんにとって今の一撃は困惑以外の何物でもないだろう、見たところ普通のルアーだが現にこうして壁を凹ませていた。
すると男は自分の方に糸を引き寄せ、再びこちらへ投げ飛ばしてくる。壁を破壊したのは目を見開いたが、あくまでルアーで壊したのに驚いただけだ。
(実際のパワーは俺の方が数倍上!!)
迫りくるルアーを手で殴り返し、スピードを殺した後しっかりとルアーを握りしめる。奴は握られたそれを取り返そうと力一杯引き寄せるも、そんなので俺の力には勝てない。
そうして互いに引っ張り合っている間に刀真先輩が入り込み、そのピンと張った釣り糸を切断しようと斬りかかる。
すると糸が斬られそうになった瞬間、再び船が大きく揺れその一太刀の軌道がずれてしまった。何事かと彼方を見ればあの巨大魚が再び飛び出し水面を波立たせている。
俺も今の揺れでうっかり手の力を緩ましてしまい、その隙にと男はルアーを取り返す。しまった、あのまま握り潰した方が良かったか!
「危ねぇ危ねぇ、もう少しで斬られるところだったな。サンキュー魚吉!」
男はあの巨大魚を魚吉と呼び親しそうに礼を言う。こいつが飼い主か、それにしても魚吉なんて名前全然似合ってないな。
その後そいつはこちらに向きなおし麦わら帽子で隠れていた目を見せてくる。のんびりとしてそうな顔だが油断はできない、こいつが敵であることには変わりないのだから。
「お前さんたちだな侵入者ってのは、今日そのボートが使われるって連絡は来てない。招かれざる客……っていたところか」
この湖にも何かしら罠や監視カメラのようなものがあるとは踏んでいたが、まさか式神連れの番人がいるとは思ってもいなかった。やはりそう簡単には行かせてもらえないようだ。
勇義さんは今操縦しているから戦えない、かといって刀真先輩はグロッキー状態でほぼ戦闘不能、万全の状態で戦えるのは俺だけであった。
「一応言っておくが、このまま引き返す気があるなら特別に見逃してやってもいいぞ。長壁の姐さんには『侵入者は絶対に逃がさずに殺せ』と言われてるが……俺の優しさとして受け取ってくれても構わない」
「悪いが、引き下がるつもりはない。ここは通させてもらうぞ」
優しさという嘘で固められた警告に対し、「はいそうですかじゃあ帰ります」と答えるわけがない。そして「お前をぶっ倒してここを通る!」という意味を込めそのまま構えを取った。
そして男がそれを聞きニカッと笑った瞬間、ボートを追うように泳いでいた巨大魚が派手に飛び跳ねる。その時の水しぶきがまるで雨のように降り注いだ。
「そうかい……じゃあこの湖の藻屑と化してくれよ!!」
すると男は何と船の後ろから飛び降り、巨大魚の上に乗る。その魚吉という式神はその巨体ながら凄まじい速度で水を渡り、今にも後ろから齧り付く様に口を大きく開ける。
そしてその操り主である男はリクター付きの四字熟語「開源節流」を取り出し挿入、魚の上で特異怪字へと姿を変えた。
その手足は水かきのついた河童のようなものとなり、全身にはびっしりと鱗が生え揃う。顔はヒレの付いた魚の顔、しかしその目は肉食獣のように鋭いものである。
「俺はこの湖の番人の『源 流次郎』!いざ大物を釣り上げるとするかねぇ!!」
開源節流……財源を開拓して収入を増やし、支出を抑える健全財政のこと。「開源」は水源を開発すること、「節流」は水の流れを調節することで、川の流れを財政に例えた言葉。