一話『出会い』 6.旅立ち
目が覚めると、日が傾いていた。
……夢?
どこからどこまで?
ベッドの上に上半身を起こそうとすると、脇腹が痛んだ。どうやらあの怪物との戦いは夢では無かったらしい。いっそ全て、私の人生全てが夢だったら良かったのに。
傷口には丁寧に包帯が巻かれていた。あのあとすぐに気を失ってしまったらしいのか、記憶が全く無い。誰が手当てしてくれたのだろう……?
起き上がり、上着を着て、階下の食堂に向かった。
食堂は夕暮れだというのに閑散としていた。ジルとエルがテーブルに向かい合わせに座り、その横にもう一人、昨夜迷い込んできた、エルのストーカーらしい小男が腰掛けていた。他には主人や奥さんの姿も見えない。
「アレックス! 大丈夫なの?」
いち早く気付いたジルが手招きした。
「うん、平気」私は頷き返し、そちらのテーブルに歩き出した。まだ足がふらつく。「手当てしてくれたの? ありがとう」
「うん……正直、助かるか心配だった。丸一日目を覚まさないから……」
え?
私は窓の外を見た。橙色の陽の光は、夕焼けだと思っていたが……
「もしかして、今、朝?」
ジルは頷く。
「そう。昨夜は熱出してうなってて大変だったよ」
げー。昨日の朝怪物と戦ってぶっ倒れてから、一日寝込んでいた訳か。相当の重傷だったのだろう。
私がやっとこさ椅子に座ると、例の小男がカップを差し出し、水をついでくれた。
眼鏡を掛けた、小さな瞳の平凡な男だ。
「で、あなたは?」
私はとりあえず小男に水を向けた。彼はつぶらな瞳でまばたきを繰り返しながら言った。
「う〜ん、どこから話したものかな。名前はファル。独身」
婚姻歴はどうでもいい。私はエルの方を見た。
「エルはこの人を知っているの?」
彼は首を振る。私はさらに目を眇めた。
「そもそもあなたは何なの?」
エルは視線をさまよわせた。私の質問に答える気が無いのではなく、どう答えようか戸惑っているように見えた。恐らく、私が起きる前に聞いているであろうジルは何も言わない。
「あなた、妖魔なの?」
「それは違う」
今度の質問にはエルは激しく首を振った。
「あはは」独身男が軽快な笑い声を立てた。「なるほどね〜。そう考える人もいるんだ」
「じゃあ何なの?」
笑い声を遮って尋ねると、独身男は肩をすくめた。
「説明すると長いんだけどね……彼は人間によって作られた人間なんだ」
短いじゃん。
……いや、今何て言った?
人間に作られた人間。それは人間と呼べるのか。人間が人間を作ることなどできるのか。他の生物に比べて、肉体も精神も脆弱で適当に作られすぎて、故に無数の悲劇や喜劇を生み出す人間を。
今朝方ジルに魔法によって倒れたあのマントの男を思い出した。瞳孔の開いたような瞳、均整の取れすぎた体と顔。全く動かない表情。あれが人によって作られた、人間を模した人形だというなら、納得できる。
……では、目の前の、あの男に良く似たこの青年も?
初めて彼を見たとき、彫刻のようだと思ったが、あながち間違いではなかった訳か。私の勘もたまには当たる。
「でも、にわかには信じられないな」
ジルが果実酒を片手に呟いた。
「私ね、人間ほど複雑で繊細にできているものってないと思う。体じゃなくて、心がね。ちょっとしたことで壊れ物のように震えて、道理に合わないことをしたり、本能を封じ込めたり、愛しているものを傷つけたり……とても理屈では説明がつかないことが、心の中では絶え間なく起こってる」話続ける彼女の瞳は、ここではないところを見ているようだった。「それを人間が人工的に作り出すなんてできるわけがない。できたとしたら──天才よ」
「そう」独身の小男は頷いた。「彼を作った人は天才だよ。あなたの言う、複雑で繊細な『心』を人造人間に組み込んだんだ」
「アイツに心なんかあった?」
私が例の男を思い出しながら言うと、独身男は首を振った。
「あれは違う。あれが作られた目的は一つだよ。それには心なんかいらない。天才が文字通り心を込めたのは、そこにいるエルと名乗る、エルアールエス三十二。今のところは彼一人だ」
三人の視線を受けて、エルはたじろいだように視線を逸らした。
……信じられない。
彼が──いや、これが人によって作られたなんて。見つめられて視線を逸らす。動物だってそんなことはしない。私が知る限り、そんな複雑な感情を持つのは人間と、それに連なる高等生物だけだ。
「本当なの?」
私はエル本人に尋ねた。自分のことは本人が一番分かっているはずだ。
エルはほんの少しの間目を伏せた。
「……人造人間」そして静かに言った。「俺はそう呼ばれていた。自分でも時々嘘じゃないかと思うけど、普通に、人間の体内から生まれたんじゃない。でもそのこと自体がおかしい気がするんだ。何で俺は人間ではないんだろう、もしかしたら人間なんじゃないかって、いつも考えている」
目の前の青年の、この混乱した、矛盾に満ちた感情の波。人間以外の何に生み出せるのだろう。
再び独身の小男──名前、なんだっけか?──が口を開いた。
「彼は自分がそうでないと知りながら、人間でない自分に違和感を感じている。どう? 素晴らしいと思わない?」
「何がよ」
尖った声でジルが応じる。
「何って……天才の技だよ」
小男はジルの態度に面食らったようだった。
「悩む人間を見て、素晴らしいって何? 天才だかなんだか知らないけど、何様のつもりなの?」
「あ〜、違うよ」小男は首を振る。「天才ってのは僕じゃないよ。僕は彼の助手。このエルアールエス三十二を作ったのは、もっとすごい人だ」
「名前はヘンリー」
静かに口を挟んだエルに向かって、小男は顔を輝かせた。
「すごいよ、エル! あ、僕もエルって呼んでいいかな? エルアールエス三十二って長いよね。いや、すごいな、君。ヘンリー博士を覚えていたのか」
「俺に取っては親とも言える人だから。……でも、お前の顔は知らない」
きっぱりと言い切るエルに、小男は一瞬傷ついたような顔をした。
「まあ、僕は君がいたころは、本当にど下っ端だったからね。僕も君の顔をうろ覚えだったから、お互い様か。ははは」
「はははじゃなくて」
意外によく喋る小男の話をジルは不機嫌に遮った。
この人、独身なのはお喋りだからじゃないか……? まあ、どーでもいーけど。
「あなたは一体何しにこのエルを探しに来たの? そもそもエルがどうしてここにいるの? あなたの師匠は?」
矢継ぎ早に質問を繰り出すジルに、小男もたじたじだ。
「うわあ〜んとね、話すと長いんだよ」
「さっき短かったじゃない。短くまとめてよ」
ジルは追求の手を緩めない。見かけによらず気は強いらしい。
「簡単に言うとだね〜」
「俺が逃げたんだ」
呟きと呼べるエルの小さな声に、二人とも黙り込んだ。私もまた彼の次の言葉を待った。
大きな音を立て、乱暴に入り口の扉が開けられた。私が剣に手をかけ、ジルが身構えるほどの激しさだった。
先頭には自警団の一人と、彼が肩を貸しているテオ。彼の右肩には包帯が巻かれていた。
後ろにその他の自警団と、村人が続いていた。村人は男ばかりで、手に手に農具や棒切れなどを持っている。あまり友好的な雰囲気ではない。
「おい、ちょっと待ってくれ!」
村人たちを掻き分けるように、入り口に主人が現れる。
「おい、話すなら、決められた人間でちゃんと話そう。こんな大勢で押しかけても……」
「ジョッシュ、黙ってろ」
そう言って乱暴に主人の肩を押し、店から追い出したのは、昨夜の客の一人だったと思う。別人のように強張った表情だ。
立ち上がったエルの前に、テオに肩を貸したまま、自警団員が進み出る。
「貴様……貴様のせいでこの村はこんなに……」
震える声で男は言った。怒りの為か、顔が紅潮している。
「俺のせい……?」
「そうだ! 貴様がいたから、あの男が来たんだろう。おかげでテオもこんな怪我を負って、クレールのじいさんなんか、助からんかもしれないんだぞ!」
エルは言葉も無く、呆然と男の罵倒を受け止めていた。
「ねえ、私が寝てる間に何があったの?」
小声で隣にいるジルに聞いたが、彼女は答えずに、じっと男とエルのやりとりを見つめていた。代わりに独身男が説明してくれる。
「村は大騒ぎでね……。かなりのケガ人が出たし、家もあちこち壊れたから。ここの主人夫婦も集まって、会議があったらしいよ。どんな会議か僕らは知らされていないけど……多分……」
そこから先は小男に説明されずとも分かった。
あの男──人造人間がエルを追ってきたことに、村人も気付いたのだ。そして、エルの処遇を決めることになったのだろう。
結果は、この険悪な雰囲気を見れば分かる。
「どう責任を取るつもりだ……」
押し殺した声でテオが言った。その声に昨夜の迫力が無いのは、怪我を負っているせいだろうか。いずれにしても、昨夜彼がエルに見せた友情のような態度は掻き消えていた。
「やっぱりお前は……よそ者は災いを運んでくるんだ。平和な村で皆幸せだったのに、こんなことになっちまって……。お前が来たから……」
「すまない……」
エルは小さく呟いた。それを聞いてさらに別の若い村人が激昂する。
「すまないだと!? それじゃ済まないんだよ! 追われるような身で、オレたちの村に棲みつきやがって……出て行け!」
「そうだ、出て行け!」
別の中年の男の声があがる。呼び水になって、同じ意味の言葉が男たちから発せられた。
「おい、待ってくれ。話が違うじゃないか。まずエルの話を聞くはずだろう!」
再び入り口からジョッシュさんが顔を出す。先ほどの男が再び彼を押し戻した。
「引っ込んでろって言ったろ、ジョッシュ! お前がコイツを引き取ったから、こんな目に合ったんだぞ」
「それとこれとは別だと村長も言ったじゃないか! 村の会議の決定を守らない気か」
「何が会議だ。村長とお前の独断じゃないか!」
男に突き飛ばされ、ジョッシュさんは尻餅をついた。その腕を別の男が掴んで外に連れ出す。
極めて良くない雰囲気だ。私刑の一歩手前……。私は椅子から腰を浮かす。小男はこそこそとテーブルの下に隠れた。情けないが、非常に賢明な判断である。
「そいつはここを出ても行くところが無いんだ!」
外から主人の声が聞こえた。
「知ったことじゃねえ!」
テオが体をねじり、外の主人に言い返す。彼は痛みに顔を顰めながら、エルに向き直った。
「てめえ、大体どこのどいつなんだよ? 何やらかして追われてた? 行き倒れてたのを助けられたのを幸いに、ちゃっかり住み着きやがって。どこの馬の骨だか……」
「いい加減にしたら?」
興奮してまくしたてるテオの言葉を、ジルの涼やかな声が遮った。
「さっきから聞いていれば、彼を責めるようなことばかり言ってるけど、この村を破壊したのは、エルじゃないでしょ。あの男じゃない」
突然横からあがった声にテオはさらに声を荒げる。
「うるせえ! よそ者が口を挟むんじゃねえ! これはこの村の問題だ」
「じゃあ、あの男を倒したのは誰? 私とこのアレックスと、そこのエルよ。この村の人間は何やってたのよ。
あなたたちが怒るべき相手は、あの男でしょ? そいつに対して手も足も出なかったから、今度はエルに八つ当たり? ここで騒ぎ立てるくらいなら、何故あの時あの男に立ち向かわなかったのよ」
口調は静かなままジルは話し続ける。テオは顔色を変えたが、怪我をしているせいか、私たちにケンカを売ることが得策ではないと考えたのか、動こうとはしなかった。ただ、低く吐き捨てた。
「よそ者に何が分かる」
「よそ者よそ者って、他に言うこと無いの? そこしか私たちを非難するところがないから……」
「ジル」
穏やかな声でエルがジルの言葉を遮った。
「いいんだよ……。本当のことだから。逃げ出して、逃げ込んだ俺が悪いんだ。俺が出て行けばいいんだ」
少しの間、食堂は沈黙で満たされる。村人にも多少の罪悪感はあったらしい。ここでエルの言葉尻に乗って、「そうだ、出て行け」とさらに言い募る人間はいなかった。
「おい、ちょっと通してくれ」
気まずい静けさを破って、宿の外からよく通る男の声が聞こえた。
……また妖魔か、人造人間か? 私も独身男同様、机の下に隠れようかと思った時、人ごみを掻き分けて、長身の姿勢のいい男が現れた。
村人ではない。麓の町で見たような役人だ。旅装を兼ねた皮の上着を着、腰に剣を佩いている。その後から村長と額を布で押さえた宿の主人が続いた。
村人は自然に彼に対して道を空けた。
男は食堂の中を一通り見渡し、エルに目を止めて口を開いた。
「君がエルか」
「はい……」
一体何だというのだろう。私はそっとかがみこみ、机の下の独身に小声で尋ねた。
「ねえ、あれも人造人間?」
「いや……」独身の男はテーブルからそっと顔を出し、男の顔を見ると、首を振った。「違うと思いますよ」
「私は辺境警備隊の者だ。メルカッツと言う」
私の疑問を男自ら名乗って解いた。言われてみれば、役人風であり剣士風の出手たちにも納得だ。この国境沿いの村の近くに駐留しているのだろう。男は続けた。
「今朝、この村で謎の男の襲撃があったと聞いた。君を狙ったらしいな」
一瞬の間の後、エルは頷いた。
「どんな人間だった? 普通の人間では無いと聞いたが」
「それは……」
エルは言葉に詰まり、私たちと、机の下の独身男の方を見やった。メルカッツの視線もそれを追って、こちらにやってくる。
「普通じゃありませんでしたね」
私が肩をすくめながら口を開いくと、ジルも頷く。
「人間の姿をしていましたが、そうでないようでした」
私たちは曖昧に語った。この役人がエルをどうするつもりなのか分かるまで、襲撃者が人造人間であること、そしてエルもそうであることは黙っておいた方がいい。当面の暴力にさらされる危機は去ったと見たか、独身男もテーブルの下から這い出した。
「……なるほど」メルカッツは私、ジル、エル、独身男を交互に見やった。「君たちがそいつらを倒したと聞いているが、そうなのか?」
「はい」
頷く独身男。オメーは寝てただろ。
「詳しい話を聞きたいな。一度私たちのいる麓の町まで来てもらえないか?」
私たちは顔を見合わせた。元々私は仕事が済んだら町に戻る予定だ。異論のあろうはずはないが、ジルと……そしてエルはどうするのだろう。独身男はどうでもいいとして。
「分かりました。私が伺います」
彼らがすぐには答えを出せなかったので、私だけが言うと、メルカッツは薄く笑った。
「妖魔が出るので、傭兵が一人派遣されたと麓で聞いたが、君か」
「はあ……」
「では、そうしてくれ。私は仕事があるので、先に町に戻る」早くも踵を返しながら、男は鋭くエルの方を見た。「できれば、彼も連れてきてくれると非常にありがたいな。何故彼が狙われたのか、ぜひ聞きたい」
非常に丁寧な口調であったが、遠まわしな命令にも聞こえた。エルを捕まえて一緒に連れて来い。そういうことだ。見た目は温厚そうだが、頭は切れそうだ。
そんなことを考えている間に、彼はさっさと宿を出て行った。
通り雨にでもあったような顔で、村人はぽかんとしている。あの役人、用事だけ済ませると本当に村を出て行ったらしい。
「さ、皆、一度仕事に戻った戻った! エルのことはちょっとこれから話すからさ」
主人が手を打って、大声で言うと、毒気を抜かれたのか、農具を持っていきり立っていた村人たちも狐につままれたような顔で、気まずそうに去っていった。
あとに残ったのは、私、ジル、エル、独身男と、主人と村長。村人が全員出て行くと、メラニーを抱えた奥さんが戻ってきた。
「……で、どうしよか? 私は仕事が済んだし、さっき言ったように、あの役人に事情を話しに行くつもりだけど。どこまで話したらいいの、独身の人?」
誰も口を開かないので、私が言うと、独身男は眉根を寄せた。
「やだなー、ファルって名前があるんですから、名前で呼んで下さいよ。
どこまで話していいかって言われても……本当なら僕も一緒に行けば一番いいんですよね?」
「いや、あなたじゃなくてエルが来てくれるといいんだけど」
エルに目を向けると、主人が私の視線を遮るように、私とエルの間に立ちふさがった。
「ちょっと待ってくれ。さっきの役人さんの話じゃ、まるでエルが悪いことをしたみたいじゃないか。エルを行かせたら、そのまま牢獄行きなんてことに……」
「でも彼を連れて行かないと、私が牢獄に入れられちゃいそうなんですよね」
冗談めかして言ったが、私の口調に剣呑なものを感じたのか、主人はさらに表情を引き締めた。
「少し時間をくれないか。あんただけでとりあえず町に行ってもらって……」
「ジョッシュさん、いいです」
エルが主人の後ろから、そっと肩に手をかける。長身のエルはジョッシュさんより頭一つ分高い。
「どっちみち、俺はもうこの村にはいられませんから、町に下ろうと思います」
「エル、テオたちに言われたことを気にしているのか? あいつらも今は混乱しているんだ。話せばちゃんと分かるはずだ」
主人はエルに向き直り、肩にかけられたエルの腕をつかんだ。
エルの瞳が揺れる。口を引き結んだまま、目が無数の感情を宿している。言葉が無くても伝わるのは心があるからではないか。だとしたら、やはり彼を作った人は天才だ。
「いいんです。これ以上、ジョッシュさんにもおばさんにも迷惑をかけたくない。俺が追われているのは本当なんだ。今まで隠れていたけど、もう見つかってしまったから、だからもうここにはいられない」
奥さんが息を呑む音が聞こえた。ジョッシュさんは首を振る。
「たとえそうでも……ここにいてもいいんだよ、エル。追われていようが、家族なら、ここにいていいんだ」
「ありがとう」答えるエルの声は震えている。「でもだめです。俺のせいでジョッシュさんやおばさんやメラニーが危険な目に合うなんて嫌だ。それだったら、会えなくても、遠くから無事を祈っている方がいい」
ジョッシュさんは私に背を向けていたから、彼がどんな表情をしていたかは分からない。一瞬彼は額を押さえて俯いた。
私は彼らと僅か一昼夜しか過ごしていない。エルがここに迷い込んでから、彼らがどのように過ごしてきたのかは、想像するしかないが、互いを思いやって過ごした時間は何もせずにただ流れていくだけではないと知っている。血の繋がりなどよりもっと強い絆を生むこともある。
「お前は優しいな」
ジョッシュさんは顔をあげ、エルの胸を親愛を込めて叩いた。
「俺たちに、近い将来に『出て行け』と言わせない為に、今去るのだろう」
エルは首を振った。
「そうです。でも優しいからじゃない。あなたたちにそう言われるのが怖いから、そうならない内に出て行きます」
「分かった。ありがとう。……ありがとう」
ジョッシュさんは小さく何度も頷いていた。
翌日も快晴だった。
私がこの村に着いたのも、このくらいの時間だった。まだ夜明け。息が白く舞い上がるほど冷えている。あの時は薄く雪が舞っていた。
荷物は剣とマント。来た時と変わらないが、道連れは増えた。
「ついでだから一緒に村を下りる」と言ったジルと、結局なんだかよく分からない独身のファル。
そして人造人間のエル。
宿を出ようとする私たちを、ジョッシュさんと奥さんが扉のところで見送ってくれた。
「エル、体には気をつけてな」
エルと主人は固く握手を交わした。奥さんが進み出て、エルをそっと優しく抱き締める。
「体にだけは気をつけてね。毎日無事を祈っているわ」
「おばさんも……」
エルは痩せた奥さんの肩をぎこちなく抱擁し返した。
「お世話になりました」
私とジルも頭を下げた。私たちは妖魔とあの人造人間退治に貢献したからということで、宿代を払わなくていいと言ってくれたのだ。そうは言っても、それではこの宿の生活が成り立たないだろう。私もジルも頑強に払おうとしたが、主人は受け取ろうとしなかった。
がつがつ食べて良く寝たファルが実はお金を持っていないということが知れ、「ヤツの宿代です」とジルと二人して強引に主人の手に握らせたのが今朝。主人は遠慮しつつも、ファルをただで泊める気は無かったらしく、やっと受け取った。
私たちは歩き出す。
「エル!」後ろから主人が呼びかけた。エルは体ごと振り返った。「いつでも戻って来い! ここはお前の家だからな」
「はい」
答えるエルの声は万感の思いに彩られてか、決して大きくなかった。しかし向こうで彼が頷くのが見えた。
帰る家がある。会えなくても遠くで無事を祈る家族がいる。私は人間に作られた人間である彼が羨ましかった。
西の空に最後の星が消えようとしていた。