一話『出会い』 5.悪夢の続き
「なんなんだ、あんた」
ひときわ大きな声に聞き覚えがあると思ったら、案の定テオだった。
村の入り口あたりに人だかりができている。大柄なテオはそこから頭ひとつ突き出ていた。見覚えのある自警団の面々も何人か周りにいる。そのさらに周囲を村人たちが取り巻いていた。子供の手を引いて、輪から離れようとしている女性もいる。
中心にいたのはテオと同じくらいの長身の、恐らく男だった。
恐らく、というのは、頭からフード付きのマントをすっぽりと被り、性別が分からなかったからだ。
村人たちが不審がるのも無理はない。テオほどの厚みは無いとはいっても、マントを被った黒づくめの長身の旅人とは、異様な風体だ。
「もう一度聞く」マントの奥から聞こえてきた声は意外にも涼やかだった。まだ若い男の声だ。「エルアールエス三十二はどこだ」
「だから、何だよそれ」
先ほども同じ問答を繰り返したのだろう。テオが苛々と答える。
「悪いけど、この村にはそんなもんは無いよ」
私とジルも顔を見合わせる。お互いに首を振った。
何のことだかさっぱり分からない。
私はとりあえず男に近寄った。妖魔を倒すのが仕事ではあるが、村に訪れる変人を追い払うくらいのサービスはしてもいいだろう。
「出さないつもりか」
抑揚の無い声で旅人は言った。
「出すとか出さないとかじゃなくて、無いんだって。ほら、帰って。この村も今忙しいんだよ」
しびれをきらしたテオが男の肩に手をかけた。
「やめろ!」
背後から、予想もしない、エルの鋭い声が耳を突き抜けた。同時にテオの悲鳴があがる。
何が起こったのか分からない内に、テオの大柄な体は地面に投げ出されていた。
倒れた彼に駆け寄ろうとする。
その次の瞬間目の端で光が弾けた。とっさに身をかがめる。完治していない右足首に痛みが走った。
「ぎゃあっ!」
二人目の悲鳴。
別の自警団の男が背中から地面に倒れこむ。男は胸を押さえて呻いている。押さえた手の間から煙が立ち昇っていた。
マントの男は動いていない。ただ、男に向かって右手を突き出しているだけだ。突き飛ばせるような距離でもない。何が起こった……!?
男はさらに別の男に向かって、手を突き出した。
見えた。
赤い…いや、黄色い光。男の手から放たれた光は、その正面にいた、農夫風の村人の肩に命中する。彼は悲鳴をあげて倒れこんだ。光に撃たれた箇所は赤黒い傷口が開き、白煙があがっている。
男はさらに右手を別の方向にいた若い女性に向けた。とっさに身を翻した彼女の右足を閃光が貫く。甲高い悲鳴があがり、彼女もまた大地に倒れた。
熱線か?
見た目は人間型だが、恐らくは妖魔だろう。私たちが倒した妖魔の親玉に違いない。
姿勢を低くしたまま身構える私の横を駆け抜ける影があった。
エルだ。
「危ない!」
私の後ろにいたジルの声と同時に、妖魔が右手を駆け寄るエルに向ける。光が弾けた。閃光が地面を抉る。
信じられない。ほんの数メートルの至近距離から放たれた熱線を、エルは横に跳んでかわした。
すさまじいとしか言えない反射神経だ。光ったと思った瞬間、熱線は地面を貫いていた。普通の人間なら、とてもよけられる速さではない。
妖魔が次の一撃を放つ前にエルは間合いを詰めた。妖魔の腕をねじり上げ、背後からはがいじめにする。妖魔はもがいたが、エルの方が力が強いようだった。もみあう内にフードが外れた。
そこから覗いた顔は、意外なことにどう見ても人間だった。若い、それも整った顔立ちの男だ。しかも……。
私は思わずジルの顔を見た。彼女は無言で首を振る。
露になった妖魔の顔は、自身をはがいじめにしているエルに似通っていた。
「やめろ!」
エルが一喝し、妖魔をはがいじめにした上で奴の足を蹴りつける。
私は身を起こし、用心しながら妖魔に近寄った。
「やはりいたか……」
涼やかな、美声といってもいい声だが、何の感情も感じさせない声で妖魔は呟いた。誰に向かって言っているのだろう。
……あたし? ……じゃないよね? ジルか? いや、どう考えても……
妖魔が何を探し、何を見つけたのか、この段階でも私にはさっぱり分からなかった。妖魔がどこを見ているのかも分からなかったからだ。近づいてぞっとした。妖魔の黒目には、まるで瞳孔が開いているように、瞳が無かった。
「私と一緒に戻れ」
相変わらず抑揚の無い声で妖魔は続けた。
「いやだ」
答えたのはエルだった。
この妖魔はエルを探していたのか。やりとりからして、かつての仲間らしいが……兄弟だろうか。
いずれにしてもエルは妖魔だったのだ。道理で過去を語りたがらない訳だ。善意に触れた妖魔が人間に混じって暮らす、そんな話は昔からいくらでも伝わっている。人間と結婚し、子をなした妖魔の伝説もある。
いや、そんなことより、まずはエルを追いかけてきたこの妖魔の始末だ。
「ジル、魔法で何とかできそう?」
振り返って尋ねると、彼女は肩をすくめた。
「何とかって、眠らせるとか、穏便な方法? あんまり思いつかないな」
「……やっぱ動けない程度に痛めつけるしかないか。聞きたいこともあるしね」
「あー……うん。そ、そうだね……」
何故かジルは私から半歩ばかり距離を取った。
私は振り返り、抜き身の剣を下げて妖魔とエルに向き直る。
「エル、これからそいつのその物騒な両腕を生きたまま切り落としてやるから、しっかり押さえてて」
「ええ!?」
エルが目を剥く。
「大丈夫。エルには当てないようにするから」
「や、そうじゃなくて……」
「我らが主の命令に逆らうつもりか、エルアールエス三十二」
はがいじめにされたまま、妖魔は言った。
「奴は主じゃない。俺は誰のものでもない」
妖魔と対称的に、エルは感情を昂らせているようだった。昨日初めてエルに会った時は、無表情な人間だと思ったが、この妖魔に比べれば遥かに感情豊かだ。
「大いなる勘違いだ。やはり貴様は修正が必要だな」
しょうもない問答に構わず、私が妖魔を切り刻んでやろうと踏み出した時だった。
「うわっ!」
声をあげてエルが後ろ向きに吹っ飛んだ。頭から地面に倒れる。その腹には熱線による痕があった。
手を封じられていたのに、背後にいたエルにどうやって…?
考えている暇はない。妖魔は次に自由になった右手を私に向けた。
咄嗟に倒れこむ。
ほんの一瞬前に自分がいた場所を閃光が通り過ぎる。すぐ近くを掠めたというのに、熱が伝わってこない。熱線を放つその一点に熱を収束させているのだ。
二撃目も受けまいと、私は地面を転がりながら、勢いを利用して立ち上がった。
奴の右手が向けられる。
光った。
その瞬間には、私は大地を蹴って、右に跳んでいた。妖魔が私に狙いを定める前に、次は左へ。右足で地面を蹴ると痛みが走るが、構っていられない。
妖魔がさらに私を狙おうと、こちらに上体を向ける。瞳孔の開いたような、暗い黒目。この世のものではない。ありえない。
その右肩にジルが放った矢が突き刺さった。
妖魔の体は左に傾いだが、倒れはしなかった。悲鳴もあげず、どころか表情も変わらない。昨夜の異形の妖魔の方がよほど人間的だ。
妖魔は矢を突き立てたままの右手を今度はジルに向けた。次の矢を番えようとしていた彼女は無防備だ。
一瞬で距離を詰める。
妖魔が私に気付いて向き直る前に、振りかぶった剣をその首筋に叩きつけた。
普通は死ぬ。妖魔であっても、この物質世界で命を授かっているものなら。
私は心底震えた。それは恐怖というより畏怖に近かった。
怪物は相変わらず表情も変えず、刃が食い込んだ首筋からは血すら流れなかった。
剣を引き抜き、再び防御の体勢に戻ろうとした時、奴の左手が光ったと思うと、左の脇腹を衝撃が貫いた。尻餅をついて地面に倒れる。
痛みは一瞬遅れてやってきた。熱線に貫かれたのだ。
傷口を見れば、焼け爛れ、そこから煙があがっている。立ち上がろうと身動きすると、火傷がひきつれ激痛が襲った。
くそ……。なんなんだ、こいつ。
私は怪物を睨みながら、今のぼやきが生涯最後の独白にならないよう祈った。今は祈ることしかできない。
突然視界が眩しい光に満たされた。薄曇の昼の陽光を圧倒する、目映いほどの光。それは炎だった。
ジルだ。彼女が天に向かって高く差し上げた両腕に、強大な火炎の渦が見えた。その真ん中に人間よりも巨大な男の姿が幻のように浮かぶ。彼女の使役する精霊だろうか。
妖魔はそちらに目を向けた。ジルを狙い、右手を突き出す。それより先に、炎が渦と化して妖魔に襲い掛かった。
昨夜の巨大な妖魔を襲ったものよりも数倍大きな炎だった。炎の渦潮とでも呼べばいいのか……。熱波が私のいる場所まで押し寄せる。肺を焼かれないように鼻と口を押さえ、顔を背けた。
炎の渦に包まれているというのに、妖魔は悲鳴も漏らさなかった。ごうごうという音を立てて燃え盛る炎の中に、揺らぐように妖魔の姿が見え隠れする。マントは焼け落ち、皮膚も焦げ始めているはずだ。
しかし、揺らぐ人影はそれでもジルに右手を向けた。
彼女の顔が驚きに歪む。放たれた閃光を、ジルは体をひねってかわした。
……この状態で尚も動けるなんて。
背筋が冷えた。
ジルは止めを刺そうと、弓を構える。だが、それより早く、小型の斧が妖魔めがけて投げ込まれた。斧は怪物の首を叩き落した。
炎はそれまでの勢いが嘘のように消え去った。
その向こうに、斧を投げ込んだであろう、エルが苦しげに顔をゆがめながら上半身を起こしているのが見えた。
焼け焦げ──いや、溶けて蒸発し、からからになった地面の上には、黒焦げになった妖魔の死体があった。焦げ臭い匂いが広がる。だが、肉の焼ける匂いではない、もっと金属的な、鍛冶屋に満ちているような匂いだった。
確かめたかったが、今度こそ立ち上がれない。妖魔の熱線に貫かれた脇腹は、変わらず焼きごてを当てられたような熱と痛みを持っている。ジルがこちらに駆け寄ってくるのが見えた。