序章 ―1―
「行って来ます」
そう言って家を出る。閑静な住宅街にあるからか、人通りは少ない。歩いている人といえば、学生か犬の散歩中の優雅な奥様くらいだ。
「あら、百合さん、おはよう」
すれ違い様に声を掛けられた。2件隣の弁護士さん家の奥様だ。
「おはようございます、今日も暑いですね」
百合は当たり障りのない言葉を掛ける。この手の大人には小さい頃から慣れていた。
どういう言葉を発し、どういう受け答えをすれば良いか。高校生という年齢よりも、少し大人びた感覚を持っているのかもしれない。
話好きの奥様だ、下手をしたら学校に遅刻なんてことも有り得る。百合は適当な所で話を切り、足早に学校へ急いだ。
時計を見れば7時45分を指していた。
『この時間ならまだ大丈夫そうだ』
百合は心の中で呟いた。実際の登校時間は8時30分まで。それには随分と余裕がある。
だが、何事も早め早めに済ましたい百合は、いつも人通りの少ない時間の登校を心がけていた。
学校までは徒歩15分ほど。歴史がある学校の為か、親子三代で通っている生徒も少なくはない。かく言う百合の家もそうだ。祖父と祖母、父と母、二組の夫婦共学院で出会い結ばれた。
『少し閉鎖的過ぎる』
百合は常々思っていることだ。幼等部から高等部までの一貫性であるからかもしれないが、他の経験もせずに一生の相手を決めるなんて……。
そんな風に思っていても口には出さない。自分の発言で困る人間がいる。そんな風に思えば、自分の思いを胸に留めるなんて簡単なことだから。
「おはよう」
不意に声をかけられて振り返れば、そこには優太がいた。
村上優太、百合の母方のいとこだ。一つ年下で幼い頃はよく遊んだのだが、やはり高校生2年生となれば親族と言えど異性となれば接点は少なくなる。
百合はあまり気にしないのだが、優太は2人きりの所を見られたくないようで、道ですれ違ってもすぐに離れて行く。そんな優太の男心を汲んで深追いはしない。
いつも通りすぐに去って行くと思ったが、今日はそうではないらしい。先程からちらちらと百合の顔を見ている。
気にはなるが、優太から言わなければ話しかけない。百合は心の底でそう決めていた。
どれくらい時間が経っただろうか。あと数メートル先には校門が見える。いつもと変わらず守衛さんが立っていて、登校してくる生徒を見守っている。
「あ、あのさ」
優太が決心したかのように立ち止まり声を上げた。その声は少し大きく、周りの生徒が二度見するくらいだ。
状況に気づいたのか、優太が『悪い』と呟いた。
「あの、さ……百合って、生徒会とかって興味ある?」
「ない」
「そんなにバッサリ切らなくても良いだろ?」
「興味がないものはないのだから仕方がないじゃない」
相手に期待を持たせるだけ無駄なのだ。一度でも話に乗れば、相手は興味があると思い込んでしまう。
そんな状況だけは避けたかった。
「ならさ、会長ってどう思う?」
「興味がない」
「だから……」
優太は頭を抱えながら次の言葉を考えている。しかし『会長』と言われてもあまり顔を思い出せないのが事実だ。
確か、葉山義之と言った気がする。クラスの女子はカッコいいとは言っていたが、イマイチよくわからない。
人の趣味に首を突っ込む気はさらさらないので、その辺りは適当に過ごすことにしていた。
「じゃあ、俺こっちだから」
百合の態度に優太は諦めたらしく、乗降口へと続くメインストリートから1本外れた脇道を指差した。学院の西側、それは生徒の中では『聖域』と呼ばれている場所だ。
「授業が始まる前から行くなんてご苦労様ね」
「寧ろ、早朝会議があるんだよ」
百合の棘のある言葉を全く気にせず優太は溜め息混じりに言った。『早朝会議』というものが何かわからないが、きっと面倒なことには変わらないのだろう。
百合は優太を気にせずに乗降口へ向かって歩き出す。特に振り返る理由もなかったが、『百合』という優太の声に振り返らざるを得なかった。
「なに?」
「先に謝っておく、ごめん」
いきなり優太が深々と頭を下げた。なぜ、そんなことをしたのかわからなかった。
だが、優太がこんなことをするのは理由があるからだろう。百合は何となくだが、彼の行動は自分を思ってのことだと思った。
「良いよ、別に」
そう短く言えば、百合は乗降口を目指して歩き出した。そこにはいつもと変わらぬ日常が戻っていた。