◆8話◆静さんの苛立ち
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省悟は結局、あの後帰ってしまった。
明日にしてくれと云われて、私は頷くしかなかった。小猿はちょっぴり寂しそうだった。
彼があんな風に取り乱した姿を見た事は無い。
それもこれも私の所為だ。
あの人は何処までも私に甘かったから、向けられた怒りと憎しみに一瞬とは云え、怯む自分を感じた。
海島家を敵に回したく無いのは事実だが、多分それは云い訳に過ぎない。
私が怯えたのは、彼の一途な愛情が失われるかも知れないという、その一事に対してだった。
既に手放した筈の倖せを、私は逃さぬ為に謀った。
自己嫌悪に陥らずには居れない。
――私って卑劣。しかも卑怯。欲張り。独占欲の塊。
うんざりしてしまう。
いつか愛せるだろうと、思っていた相手。つまり、まだ愛してはいなかった相手。
どんなに好きでも、恋愛感情など欠片も抱かなかった相手だ。
キスしかした事が無いのは、私が持つ頑なな貞操観念よりも相手の激情に対する戸惑いの方が、拒否の理由としては強かったかも知れない。
「何処が良いのかしら。こんな女。」
どう考えてもイヤな女だ。
しかも、私は喜んでさえいる。
これで、また暫くは省悟の心は私に縛られるだろう。歓喜し笑う、自分の心を自覚する。
私の独白を聞こえなかった振りをして、由紀は髪を編み込んだ。バックは長く垂らしたまま、サイドの一部を編み、髪飾りの様に巻き付けた。
「如何でしょう?」
「良いんじゃない?」
別にどうでも良かった。
鏡の中の私は、淡い色のワンピースを着て、文句なしの美少女だ。清楚なお嬢様にしか見えまい。
一応点検して、私は嘆息して立ち上がった。
もうじき、婚約者どのの来る時間だった。
――気付かなければ良いのに。
彼には知られたく無いと、無意識に思う自分がいる。
性悪な私を。
彼が気付かなければ良いと願う。
――何も知らない純真な娘だと、そう思ってくれないかしら?
流石に、それを演じるのは遅すぎると、気付いてはいたが。
恋をした事は無い。
けれど。
目の前に立つ良い男に、愛されるのは気分が良い。
私は独占欲の塊で、ついでに云うなら面食いだ。
どう考えても、誉められた性質では無く。誉められる要素に欠けた性格でもあるだろう。
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「パーティーの進行も、全て決まりましたよ。」
「はい。」
既に執事長から報告を受けていたが、私は頷くに留めた。我が家に代々勤めあげる執事の家に生まれた彼は、最近になって父親からその職務を受け継いだばかりだが、中々よくやってくれている。
招待状の殆どは彼の手によるものだ。
もちろん静さんだって、私が何も知らされてない等とは思うまい。
しかし、彼は探る様な眸で私を見る。
「本当に良いのか?後戻りは出来ませんよ。」
「…?はい。」
静さんは言葉も態度も常に微妙だ。いや、はっきりとした口調であり、態度なのだが。
敬意と怒りが混在すると云うか。
丁寧と不遜が行き来すると云うか。
探る様な、疑う様な、気遣う様な、優しかったり、いきなりソッポ向いたり、忙しい人なのだ。
――後戻り……ねぇ。
別にそんな事をするつもりは無いし、必要性も感じない。何故そんな事を聞くのか?考えると、正直頭が痛い。
私が問う様な視線を向ければ、彼は不機嫌そうに眉を寄せた。省悟は無表情だと云うけれど、彼の感情の流れはその僅かに動く表情で判別出来た。
ただ。何故そう思うのかが、解らない。
最初からそうだったけれど。
彼は、私がこの結婚を嫌がっていると考えている様なのだ。
「今日は金曜だ。海島の後継ぎが来ていたのでしょう?」
淡々とした物云いだが、吐き出す様に紡がれた言葉だと感じた。
省悟の事を嫌いなのだろうか?
だが、省悟に対しての態度もやはり一定しないので、私は結局結論には至らないのだが。
この人は情緒不安定なのかと、最初は考えたくらいだ。調べたら仕事等では冷静沈着な態度を貫いてたから安心したものだ。
――二度目の婚約解消は外聞が悪いものね。
そんな事を思い出しつつ、私は応えた。
「ええ。けれど明日にするそうですわ。」
「勉強を?」
嘲る口調。
怒りに満ちた眼差しが刺す。
「ええ。」
「ならば貴女には関係が無い。」
「はい。」
「今度ゆっくり旅行でもと云ったのを覚えてますか?」
私は瞬いた。冷え冷えとした口調で語る話題とも思えなかった。
「ええ。」
「会長から別荘の鍵を預りました。今夜出ます。」
やはり冷たい口調で続けられたが、もはや戸惑う事も無い。
「はい。」
「………っ。」
私は承諾しただけなのに、何故こんなに怒るのだろう。
しかし、こうして怒りを耐える姿は、同時に哀しみもまた耐えると私は知る。
それが、とても。
楽しい。
私は彼のこんな表情がとても好きだ。ドキドキすると云っても良い。
昔から、私は好みの男の子を苛むのが楽しかった。この年まで続ける積もりも無かったが、仕方あるまい。私の性だ。
彼が私の言葉と態度に怒り苦しみ哀しむ姿。
ドキドキする。
何故怒るのか、何故哀しむのか、ドキドキして理由の追求を忘れてしまう。
静さんは、とても綺麗な男性だ。鋭い眼差し通った鼻筋引き結ばれた口元。
端正とも端麗とも呼べる、煌めく容姿の持ち主である。
最初は査定の邪魔になるから自重したが、後は別に後日で構わないし、最近は心置きなく見惚れている。
省悟のキラキラとはまた違うキラキラだ。
私は綺麗な鋭い顔立ちが大好きだ。省悟も最近はそうなりつつ有る。いや、省悟の場合は鋭いよりキツイと云うか、冷たい感じだけど。しかも若さの所為か多少線が柔らかで美少女じみてるけど。
その点、静さんはパーフェクト。不機嫌な表情が非常によく似合う理想のキラキラです。
――いや。アレは別。
うっかりキラキラ代表みたいな人を思い出してしまった。
過ぎたるは猶及ばざるが如し。うん。
それに、外見なんて飽くまでも、二次的な条件ですからね。
………これだけ語って云う台詞でも無いけど。
食事を終えた途端、すぐに出発すると云うので多少驚いたが、頷いて手配を命じた。
何人かが同行する為に、私の荷造り以外にも慌ただしく働いていたが、静さんは二人で行くと云う。
別荘番が居るから同行者は必要無いと云うのが、静さんの云い分であった。
私が今までで一番、戸惑った台詞だった。
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