◆7話◆元婚約者
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あの日、帰宅した父は云った。
私が婚約了承を伝えれば、勝ち誇る様子だった。
「弥也子。はしゃいでも良いんだぞ?」
「………どんな理由で?」
ニヤリと父は笑った。
「だって、弥也子は西園寺くんみたいな男がタイプだろ?嬉しいだろう?西園寺くんと婚約出来て。」
私は、父の自分は何でも解ってるんだ……と云う顔が好きでは無い。
出逢ったばかりで、好きも嫌いも有りはしない。
それはまあ、多少好ましい外見をしているとは思うが、だからって採点が甘くなりはしないのだ。
多分。
現時点での、彼に加算された点数は65点。別に悪い点数でも無い。いや、正直に云うなら完璧に近い。
後は性格その他になるが、特に問題点も見られなかったし、プラスはしてもマイナスは無いだろう。
それが省悟には不満な様である。
「俺と婚約してた時は何点だったの?」
「100点。」
「……ホントに?」
虚を衝かれた様に、省悟は眸を瞠った。
別に嘘は云わない。先ず、既に英才教育を受けている点で「可」優秀だと聞いたから「良」父親の仕事を学びがてら手伝っているが、中々ソツがないと評判で「優」となり、仕事面では20ポイント。
生活も同水準の育ちで不安も無いし、私を愛してもいる様だし、気心も知れているから20ポイント。
性格も時に強引とも云えるが、私的な問題では割と穏やかな所も良いと思う。何より私に対しては常に譲ってくれるから、20ポイント。
容姿も良い。きっと綺麗な子供が生まれるだろう。優しい綺麗な顔立ちは、私の好みは別として、高評価ではある。20ポイント。
体力も有る。健康だし健全だ。素行にも問題点は無い。
マイナスなし、プラスのみで100点。
もちろん浮気の問題も考えた。絶対しないとの自己申告は信じ難いが、塩野の財に手を付けないと云う念書を貰う約束を交わした。
彼自身の財産も多少持って来るだろうし、自分の分をどうしようと構わないから、その辺は心配無かった。おまけに本当に浮気をしなかったり、しても「お金の掛かる女性」では無ければ、塩野家が潤うだけの話だ。中々宜しい。
しかし。
彼が長男で有っても尚、縁談が進められたのは、彼に弟がいたからだ。
その弟の存在が消えれば、私達の婚約は解消されざるを得なかった。
姉が他家に嫁いでいるからには、塩野家は私が継がなくてはならない。少しばかり寂しいけれど、仕方の無い事では有った。
「弥也子はさ、俺と結婚したいと思った事は無いよね。」
「……何故?」
「婚約してた期間は4年もあったのに、君が俺を好きだとか云った事もないだろ?」
苦い笑みに、私は眉を寄せた。
そう……だったろうか?
けれど誤解だ。私は省悟が好きだった。
「でも、好きだったわ。省悟が私の事を好きでいてくれるのを知っている様に、私が省悟を好きなのも、あなたは知っていると思っていたから……。」
わざわざ云う必要を感じなかった。
だいたい、愛せるかも知れないと思わなければ、どんなメリットも意味は無い。省悟に対して、愛情を育てる事を無理だと考えたならば、私は婚約など了承しなかったろう。
そこは、大前提と云うもので、わざわざ言葉にする迄も無い話だと私は理解していた。
確かに、どんなに深く愛する人が出来たとしても、塩野の役に立たない相手なら結婚など出来はしない。
それは立場上、私にも責任が有るから仕方ない話だ。
だからと云って、条件だけで結婚など考えられる訳も無いだろう。
省悟は私を何だと思っているのか。
正直、腹立ちを覚えたが。
「ホントに?俺を好き?」
縋る様な眸に、うろたえてしまう。
「好きよ?」
応え乍ら、どうしようかと思った。そりゃあ立腹もしたが………そんなに、大きな問題だろうか?私達は良い友人だと思っていたし、それなりに理解し合えると感じていたのだが。
……何だか、今の省悟は少し怖い。
いや。多分。恋……なんてものを、省悟がしているから、理解出来ないのだ。
姉も義兄も友人も。恋愛に関する問題に出逢った途端に、私の理解を超える言動に走る。
私は恋をした事が無いから……だから、解らないのだろうか?
悩む私の手が省悟の手に握りこまれ、そっと口元に運ばれた。
祈る仕種で手の平にキスをされた。
やはり、理解出来ない。
「11才の時だったよね。俺はずっと、君を追い掛けまわしていた。」
「そうねぇ。泣き乍ら、追い掛けて来たわね。」
思い出は微笑ましい。
小学生の時、私は共学の風ヶ泉に通っていた。美晴ヶ峰女学園に移ったのは中等部からである。
ヶ峰は小等部までが全寮制なので、いくら嫁入り道具として名高いお嬢様学校でも行くのは難しかったのだ。
同様の理由で、省悟の両親が選んだ学校も、寄付さえ納めれば融通の利く私立校だった。
つまり同じ小学校だ。
その学校は中等部からは成績がものを云う学校で、試験の点数さえ良ければ出席を煩く云われる事も無い。
それはちょっと魅力的だが、実はヶ峰も似た様なものだった。
だが、そうで無くとも風ヶ泉学園にそのまま進学する事は選択しなかったろう。学力の高さと同じくらい、素行の派手さで有名な学校は、嫁入り前の娘には相応しいとは云えないからだ。
成績が良ければ出席に融通が利くのは同じだが、ヶ峰に在籍するのは名誉とされた。良家のお嬢様且つ汚れなき乙女の証明にもなるのだ。
「君が、中学に上がれば別々だとか云うから、俺はいつも以上に泣いちゃってさ。」
そんな事も有った。
確か、5年生の時だったろうか?私はまだ10才だったから、4月の半ばから5月になるやならずの事だったろう。
「家に帰った俺は、泣いて親に訴えたよ。『弥也子ちゃんと婚約したい!』って。」
「……何でまた。」
当時の口調を繰り返したのか、裏声で云ってみせた省悟に、私は呆れた。
随分と飛躍した話だった。
省悟は肩を竦めて、自嘲するかの様に笑った。
それは、婚約解消して以来……省悟が覚えた表情だった。
以前はもっと、明るい眼差しの人だったのに。
「そうすれば、また逢えるだろう?結婚したら、いつも一緒に居られるって思った。」
それで、この男の親はわざわざ長男を婿になどやろうとしたのか。いや、我が家としても良い縁談だとは思ったが。
「雅志が居たし。弟が居れば、俺が居なくなっても許されると思った。それに、君の家と繋がりを持ちたいと、父さんが云ってたのを覚えてたしね。」
「ふうん。そう云う事だったのねぇ。」
感情的な癖に、大人より智恵が回る子供だった省悟である。ご両親はさぞかし振り回された事だろう。
私と同じく、親の思惑に頷いただけかと思っていたが、まさか省悟が云い出した張本人だったとは。驚く事もあるものだ。
「週に二回。逢う約束も俺が云い出した。」
「そうなの?」
仲良くさせる為に、等と云う名目で、週に二度開かれた子供たち二人だけの夕食会。そんなものまで省悟の画策した事だったのか。
そもそも、婚約を解消して間もなくの時、家庭教師の話が出たのも、この時間が有った為だった。そのまま、夕食会の時間を流用してくれないものかと考えたのである。案の定、省悟は自分から申し出てくれた。私との90分が有るにせよ、全部で前と同程度の時間だから、省悟の負担にもなるまいと考えていたのは確かである。
「俺は本気だった。子供の思い込みなんかじゃない。今でも本気だ。」
「………でも、もうダメよ?」
そう。
私は、他の男と婚約したのだから。
「12才の時、初めて君にキスをした。覚えてる?」
「…………ええ。」
この会話の流れを、私はどう取れば良いのだろう。
躊躇いつつ頷けば、そっと引き寄せられて、省悟の手の平が、私の頬を包んだ。
この縋る様な眸が好きだった。
私に執着してやまぬ、省悟の気持ちは理解出来ないが、嫌では無かった。
いつか、理解するかも知れないとも思った。
理解出来ないままでも、恋など知らないままでも、省悟を好きな事に違いは無いから……問題は無いと考えていた。
ゆっくりと口付けられた。
うっかり、思い出が過ぎり抵抗を忘れた。
困った……と思う。
別に嫌悪感は無い。
けれど、結婚を前提としていた故に許していた3年間とは違う。
実際には3年にも満たない期間だったけれど……。
もう一度触れて、舌先が歯列を割る。
婚約を解消してからは初めての口付けだが、逢う度のそれが執拗なまでに深いものだったと覚えている。
それは不味いだろう。
いや。
こんな、触れるだけのキスだって、不味いには違いないのだ。
ゆっくりと押し退けると、省悟は素直に従ってくれた。
「私は……浮気などする気は無いのよ。」
そう告げて、困った様に笑んで見せた。
彼は私の笑顔に弱い。笑って見せれば、多分彼が逆らう事など何もないだろうと、私は知っている。
苦しそうに、省悟は云う。
「俺を……揶揄ってる?」
「いいえ。あなたが好きよ。大切な………友人だと思うわ。」
それは事実でしか無いが、この場では少しばかりの飾りつけが必要だろう。
省悟を、敵に回す気は無かった。
「友人?」
苦しみが憎しみに、切なさが嘲笑に変わる前に、私は意識して泣きそうな表情を作った。
省悟が戸惑うのが判る。
私は、こんな事も出来るのだ。多分、省悟に愛される価値など無いだろう。
そんな事も知らず、省悟は私を食い入る様に視つめた。
泪を浮かべて、それでも口元に笑みをはく私は、省悟の視線にも揺らぐ事は無かった。
「そうよ。友人なら………ずっと、一緒に居られるでしょう?」
「………それで?それであの時、家庭教師の話を俺にしたのか?」
そうかも知れない。
友人としての彼は得難い。望む想いは返せなかったが、それでも好意に嘘は無い。もう、毎週逢う事が無いのかと………少し、淋しかった。
私は、多分酷い事をしている。
「弥也子。俺……お前が好きだ。」
泣きそうな声に、私は頷きを返した。
「私も。」
何て、イヤな女だろう。
「お前以外、誰も要らないんだ。」
「うん。」
抱きしめられて、泪が零れた。
私に、泣く資格など無いのに。
それでも、厚顔にも続けた。
「大切な……親友だものね。」
「そうだな。」
省悟が、無理をして笑ったのが解った。
「大切な……一生の友達だものな。」
何故だか、私は泪が止まらなかった。
省悟が可哀相だったからかも知れない。
私なんかを、いつまでも忘れずにいて、いつまでも利用されて、可哀相だったからだ。
別に、こんなのは演技に過ぎないのに、省悟はずっと、背中を撫でてくれた。
私は、この人を愛したら、多分倖せだったろうな。
優しい手の感触に、私は思ったが、そんな想像も、これが最後だと思う。
省悟との別れは、私が選択した事では無いが、静さんを選んだのは私だった。
父が見つけて来た男達の中で、私は静さんだけを選んだのだ。
だから……この手に縋る資格など、私に有る訳も無いのだ。
そう考えるのに、私の泪は中々云う事を聞かず、省悟の手はずっと私を慰めた。
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