◆5話◆私の婚約者Ⅰ
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幼い頃、私は姉に対して様々な苦言を呈した。
それは要約するなら一言でしかない。義兄に対して素直になりなさいという一事に尽きた。
「何よ!今迄そんなに煩く云わなかったじゃない!」
姉が拗ねるまで云い続けた台詞の数々は、余り役立ったとは云えなかった。所詮は夫婦間の問題に他人が、妹と雖も介入出来るものでは無かったのだ。
他人様の恋愛事情に首を突っ込む事勿れ。
私はひとつ学んだ。
姉に対する忠告は、子供が生まれるまで続いた。
毎日の様に、三十分ばかり日課と化した話し合いをしたが、実際に一片も進展を見せなかったのだ。
埒も無い。
生まれた猿の様な子供は春之と名付けられた。
小猿を見つめ乍ら、半年近くも私は姉に電話を掛け続けたのかと、妙に感心してしまった。
しょっちゅう里帰りをする姉なので、電話自体は毎日と云う訳では無いが、毎日毎日よく飽きもせず人の恋愛事に関わったものである。
「これでは暇なオバさんですわね。」
私は小猿に向かって呟いていた。
そして、その行動をスッパリ止めたのである。
向こうから話題を提供されたのならともかく、そうでなくとも姉は喧嘩の度毎に帰って来るのだ、その度に話題となる夫婦の問題に、これ以上付き合うのも莫迦らしいと云うものだった。
私は根気強いが、無駄な行動は嫌いだった。
別れそうなら、それなりの手も打つが、この二人は相変わらず冷えた夫婦を演じている。
「大人って解らないわ。」
あの調子で、子供の前でも同様の態度で、まったくどうしようもない人達なのだ。
小猿が憐れで、時々子守がてら我が家に泊まらせるのだが、親がダメだと子供がしっかりする典型的なパターンで、中々良い子に育ち中である。
「弥也子さん。書庫に入っても良い?」
「良いわよ。読む本以外は触らないでね。」
小猿はハイ!と良い子のお返事をする。
この子も7才になった。あれから七年を経たとは、何とも感慨深いものが有る。子供とはあっという間に大きく成るものだと私は知った。成る程、世の中に子離れ出来ない親が存在するのも道理である。昨日まで赤ちゃんだったのに、と云う言葉は大人達の本音だったのだ。
そう云う私も18才になるのだが、どうやらハタチ過ぎれば唯の人、と云うのは冗談では無かった。私は殆ど何も変わってないのだ。相変わらず大人達が解らない。友人達も解らない。つまり自分には他人が解らないのだと、私は知った。
理解しあうのは歩み寄りだ。しかし、そのつもりになっているか、そのように見えるだけってのが実際では無かろうか?
私は必要に応じて勉強して、中学に通う頃には既に大学課程は修めていたが、今更……と思いつつも学校に通い、やはり今更な大学部に行くだろう。
世の中って不思議だ。未だに私を天才扱いする人達が理解出来ない。
私はこんなにも物事を知らないのに………。
「弥也子さま。海島さまがいらっしゃいました。その前に、西園寺さまからお電話がございまして『19時頃伺うので、夕食をご一緒に』との事です。」
「……相変わらず一方的な人ねェ。」
頭痛を覚えた。
西園寺静。この人も解らない人では有る。
「まあ良いわ。省悟は居間かしら?」
「はい。」
静さんの事は後で良い。先ずは省悟の問題を片付けるべく、私は立ち上がった。
伝言を持って来た春加に、小猿を連れて来るように指図してから部屋を出た。
省悟は小猿の家庭教師なのだ。
最初は自分の時のように、それぞれの分野の教授陣を呼ぼうかと考えた私だったが、そこ迄の英才教育は必要ないと、小猿の親が云ったのである。とは云え、中途半端な勉強なら学校でも充分だろう。悩む私に省悟が提案したのだ。
「俺が見ようか?」
海島家を継ぐ為に、私以上の英才教育を受けた男である。気まぐれとは云え、頼もしい教師だ。
本当に良いのかと探る様に問うと、息抜きがてらに調度良いと宣った。有り難い事である。
自分で教えようとは考えなかった。
私は、実は子供が苦手なのである。自分が子供らしさと無縁だった所為か、子供にもつい手加減を忘れるのだ。
多分、私の教え方では、子供には理解が難しかろう。
省悟が長男で無かったなら、今も私たちは婚約者だったかも知れない。
幼い頃から気心の知れた友人は、中々粘り強く忍耐強く、尚且つ優しいと云う最高の人材でもあった。幼少時から、この私が虐めても虐めても、懲りずに泣かされに来ていたくらいだから、筋金入りだ。
気晴らしがてらに気まぐれに開始したとしても、余程の事が無ければ投げ出す事無く続けてくれるだろう。
そして狙い通り、4才の子供に付いた家庭教師は、未だ役目を投げる事無く通って来てくれる。
「悪いけど、勉強部屋は改装中なのよ。今日はこちらでやりましょうね。」
「やって下さいの間違いだろ?」
苦笑する省悟に首を振る。
「いいえ。私も付き合うわ。もうひとつ申し訳ないのだけど、今日は夕食をご一緒出来ないのよ。その代わりに……。」
この男は、私を好きだと云う。
子供の家教代金は、その日の夕食を共に摂る事なのだ。
二人の時間を90分。
それが約束。
小猿は自室でメイドに世話をされて一人で食べる。週に二度の事とは云え、せっかく私が家に居るのに可哀相かと思わないでもない。いや、最初は気付かなかったのだが、割と普通の子供は淋しがり屋だ。両親が居ない家で、大抵独りで食事をして、此処でも先生が来る日は独り。
母親がちょくちょく実家に戻るから、三人で食事をする事もあり、その時はとても喜んでいた。
因みに、父親と私の三人で食べた事もある。
その倖せそうな顔が教えてくれたのだ。
不満を云わないからといって、寂しくない訳ではないと。
自分が平気だったから気付かなかった己を少し責めたが…………何分にも私は、子供が苦手だ。そんなに世話好きとも云えないし、却って省悟の申し出は有り難くさえあった。
「何でって、訊いても良い?」
「静さんが来るらしいのよね。」
省悟の片眉が上がる。
「らしい?」
「そう。7時に来ると伝言を貰ったの。」
省悟は舌打ちした。
勝手な奴だなと呟いて。
「本当に、あんなのと結婚するのか?強引で無口で、無愛想だし目付きも悪い。君の話聞いてると、付き合いも一方的な約束ばかりじゃないか?」
「そう?でも誠実な方ではあるわよ。」
「………。ああ云うのは、誠実とは云わないんだよ。」
省悟が脱力している。
そうかな?私は充分信頼に値する発言だったと思うけど。
「よし。勉強は7時からにしよう。春之くんと食事一緒にしてから始めるから。」
「……そう?」
それは初めての事でも無かった。
「そう。決まり。」
まぁ良いけど。小猿も一人の食事より楽しかろう。
決まった所に小猿が来たので、話を伝えると何だか嬉しそうだった。
いつも独りにさせるのはこの男なのに、それでも嬉しいのだろうか?それだけ独りの食事は味気ないのだろうか?まぁ、小猿は省悟にもよく懐いているから、単にその所為かも知れないのだけれど。
省悟は多分本当に良い夫になっただろう。彼との婚約解消は、素直に残念だったと云える。
しかし、静さんも充分に良い夫に成るだろうと、私は考えていた。
確かに省悟の云う通り、多少は強引かも知れないが、害が有る程でもない。
その点で。
省悟と私の、静さんへの評価は大きな隔たりを生んでいた。
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